戦時体制下の日本における「経営学の理論展開一例」(その3)
「本稿(その3)」は 「本稿(その1)」2024年2月21日,および「本稿(その2)」2月22日を受けて構成,記述されている。内容の構成として「その1」と「その2」を読んでもらわねば,論旨の流れに即した理解に不都合が生じる可能性が大きい。
付記)冒頭の画像は山本安次郎。出所は後段に明記。
ということで,本日のこの「本稿(その3)」に入るまえにまず,つぎの「本稿(その1)」に戻ってから読みはじめることを希望しておきたい。その「本稿(その1)」2024年2月21日のリンク先住所は,以下のものである。
以下の※-6からが,本日「本稿(その3)」の記述となる。
※-6 経営学者の学的倫理問題
満洲国の建国大学で康徳10〔昭和18〕年10月,講演「日本に於ける国防と経済」をおこなった池田〔某〕少将は,こう主張した。
この発言に瓜二つの経営理論は,満州帝国建国大学の教官であった山本安次郎も提唱していた。以下に,山本が同大学に勤務していた時期,つまり昭和だと後半の記事(1940年代の前半)に発言していた内容に,その池田某少将の主張を対照させてみる。
★-1 池田「大東亜地域の資源を……開発利用」とは,山本「大東亜の建設」
★-2 池田「戦力増強」とは,山本「高度国防国家の確立」
★-3 池田「銃後国民に課せられた使命」とは,山本ではより普遍化され「世界史的使命・課題」
建国大学の実質的最高責任者であり,山本の恩師の1人であった作田荘一は,つぎのごとき見解を提示していた。
日本は「資本主義,社会主義,国家社会主義,国家主義と発展して行くのではないかと思ふ」「私は国家主義こそ今後最も勢力の大なるものとなって行くべきものであると考へる」
註記)作田荘一『日本国家主義と経済統制』青年教育普及会,昭和9年,114頁,138頁。
なかんずく,満州国に在住,建国大学に奉職した経営学者山本安次郎は,恩師作田荘一の日本国家主義思想を忠実に継承する経営理論の構築をめざした。
しかし,作田荘一の日本国民歴史観は,「1945年の敗戦」によって「それ以降」,全面的にとみなせるほど,無効となった。敗戦後において,経営学という学問を囲むようになった〈時代の状況〉は,それこそ一変したにもかかわらず,山本安次郎の経営理論の立場は,その哲学思想的な基盤と併せて大きく変質することにはならなかった。
そうなっていたけれども,山本の学問は戦争中,作田荘一のつぎのような見解を,無条件で受けいれていたはずだから,敗戦という「歴史の大事件」の発生に遭遇させられて,なにも変化がなくて済まされるわけがなかったと思われて当然であった。まずその付近の問題を吟味してみたい。
イ) 「我が国体は天皇を御中身(ミナカミ)と仰ぎ,臣民が分身(ワカレミ)として日本国と言ふ全一体を成せるものである。この国体は肇国の時から厳然として定まり,永遠に変ることはない。……我が国体が実中心を定立し居るに比べ,他の国々は虚中心の国体となってゐる」
「世界無比の皇国を守護し天壤無窮の皇運を扶翼し奉ることは,国民的本分の二大眼目である」
註記)作田荘一『我が国体と経済』〔文部省〕教学局,昭和15年,28頁,34頁。
ロ) 「日本の全体国家は,天皇を実中心と仰ぐ所の分身人の一体的組織である。分身人は国家の為に働くのではなく,全体国家の分身として働く。日本国民科学の研究もまた,この分身人の行ふ研究である」。
註記)作田荘一『国民科学の成立』弘文堂書房,昭和10年,288-289頁。
ハ) 「近代科学には日本精神は邪魔物であります。しかし現代科学は日本精神に依って始めて促進されて行くのであります」 「国運とは何ぞや,即ち創造開化の大業を経営することである。『むすび』の道を進むことである。創造開化の過程が永遠に,無限に進んで行く,これが日本の国運即ち皇運の天壤無窮なる所以でありませう」
註記)作田荘一『我が国民経済の特質』〔文部省〕教学局,昭和13年,60頁,67頁。
ニ) 「国体を明徴ならしめ得る」「国体に即する経済生活」「は国の中心にまします天皇の大御心を体時して国民が皆分身としての本分を国の経済に尽すことである。……大命の下に国民の本分を結成せる国の経済を営む……である」
註記)作田『我が国体と経済』31頁。
さて,作田荘一の諸著作は,「世界無比の皇国を守護し天壤無窮の皇運を扶翼し奉る」「日本精神に依って始めて促進されて行く」「現代科学」であるせいか,学術書に不可欠の規則・作法である「引用個所の明示・参照文献の枚挙」を,ほとんど省略した叙述形式を採っていた。
そしてまた,その作田のやり方に倣ったつもりなのだろうか,山本安次郎『公社企業と現代経営学』建国大学研究院,昭和16〔康徳8〕年も,「本稿の問題の如き性質のものに於ては,一々脚註するまでもなく,凡て熟知されて居り,今更断る必要がないと思はれる」と断わっていた。
註記) 山本『公社企業と現代経営学』昭和16〔康徳8〕年,はしがき9頁。
当時,東アジア広域を植民地あるいは軍事的支配のもとにおき,大国意識を横溢させた日帝カイライ国家の官立大学教員は,あたかも学問に従事する研究者の守るべき基本的約束さえ,反故にできたかのような口吻になっていた。
仮にでも,学問の作法・手順そのものがアジア侵略思想となにか関係を有していたのだとすれば,これは驚くべき増長・驕慢といわねばならない。
満州国時代における山本学説,すなわち,「経営学的な実践模範型であり,偉大な社会科学的実験のための理論上の行為」として定立された公社企業論の概念・提唱は,いまとなっていかに評価されるべきか。
作田荘一の学風を正直に継承した戦時から戦後における山本の主張は,いまなお,「既に破綻した旧式の『国民国家』観を立脚点として,その『自尊』と『優越』を追いかけつづけ」たものである。
註記)永原慶二『「自由主義史観」批判』岩波書店,2000年,59頁。
したがって本ブログ筆者は,山本が戦後作の各種論著のなかでも「経営政策学は国家を主体とする経営政策を問題とするものとして成立つと考えている」点(山本安次郎『経営学本質論』森山書店,昭和36年初版)を,けっしてみのがすことができず,批判した。
なお,戦前・戦中の満州帝国建国大学時代における山本の研究対象は,つぎのものであった。
満州国において山本が構築した「国家を主体とする経営政策学」は,「精神を国境内に貧しく自閉させて他者との関係を断ち切り,一国民国家の過去の戦争を正当化しようとする試みが,必然的に行き着いた地点」で生まれたものだった。
註記)宮台真司・ほか11名『リアル国家論』教育史料出版会,2000年,279頁。
※-7 社会科学者の戦後的倫理問題
戦時中の山本安次郎は,「日本の権力構造が知識人に強制した掟」,つまり「総力戦状況において社会科学もまた戦争遂行の装置として国家目的実現に貢献しなければならない」ことを,当然の前提とした。
註記)山之内靖『日本の社会科学とヴェーバー体験』筑摩書房,1999年,48頁。
いわば彼は当時,旧日帝の国家目的であり,「近代化において遅れをとったアジアの諸地域に対し,近代化に成功したアジア唯一の先進国として-教師ないし指導者として-貢献するという理念」の突端に立っていた。
註記)同書,49頁。
満州帝国建国大学の経営学者山本は,そうした満州国において企業経営を能率的に運営し,産業経済を円滑に指導するための実践規範的な経営政策理論を構築した。それは具体的に,「公社企業」論となって結実し,提唱された。
山本「公社企業論」の本質は,作田荘一の著作にくわえられたある論評を借りれば,よりよく理解できる。
ところが山本安次郎は,戦時体制期の経営問題に理論的・政策的,理念的・現実的に直結し,「理想主義経済学の黎明の鐘」を鳴り響かせた公社企業論〔光明科学(!)こそ〕が,戦後日本の産業経済における企業体制論:事業経営論に舞いもどって登場した場合であっても,また同様に「陰惨科学(!)として有効だ」と考えていた。
そのように,「公社企業論」の抽象的妥当性〔「光明科学」性〕はたしかに,一見したところでは,日本の企業経営:〈陰惨科学としての現実の歴史〉から超越しきった思惟である。
またその「公社企業論」は,非常に卓越した理論的内実を有するかのようにも,山本安次郎の視線には映っていた。だから,そのこけおどし的な魅惑にとらえられる,次世代の経営学者も少なからず出てきた。
戦後,ほんのわずかな部分〔それも戦争期に産出した研究成果を誇っていたのだが〕をのぞき山本は,以上のような事実,自身による「過去の歴史への深い関与」に触れてこなかった。考えれば考えるほど,不思議〔あるいは当然?〕な,社会科学者の言説である。
山本安次郎経営学説の提唱した満州国企業形態論:「公社企業論」は,日本と中国などとの戦争状況を底辺におき,そのカイライ国を頂点から原動させ変革することをねらった経営政策理論の展開であり,同時にまた,臨戦体制そのものを督戦するための経営思想の垂範でもあった。
満州国企業経営論に淵源する「過去の遺産である国家理念,戦争体制との一体性=〈ヘソの緒〉」を切り捨てることができず,これを敗戦後まで引きずってきた「経営行為的主体存在論」の本性とはなにか。ここに,筆者の批判する問題の焦点があった。
明治憲法上の規定にも由来するが,米国政府〔とくにD.マッカーサー〕は,天皇を政治的に利用し,意図的に温存した。その結果,「天皇の免責」が「日本人全体の免責」をもたらすというアカウンタビリティと道義的責任の回避を生み出している。
指紋なんてみんなで “不” の会編『抗日こそ誇り-訪中報告書-』中国東北地区における指紋実態調査団,1988年は,万人坑において端的に表現される満州・満州国の代表的産業:「炭鉱事業経営」を,つぎのように批判する。
日本の敗戦前,中国「工人犠牲者」は,1年に3千人から4千人にもおよぶと推定されている。
註記)藤原 彰・森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店,1996年,96頁。
前田 一『特殊労務者の労務管理』山海堂出版部,昭和18年11月は,中国人「苦力」および朝「鮮人」労働者に関する歴史的記録性:価値を評価され,復刻版が発行された。
註記)不二出版,1993年5月。
同書は,日本が占領植民地や支配地区に刻みこんだ蛮行に関して,「体験させた側」が「黙して語らぬ」実像を復元するための媒体を提供する。
満州国当時における労働経済の悲惨な実態は,戦中すでに隅谷三喜男「満洲労働問題序説」1942年が指摘し,戦後には,窪田 宏「満州支配と労働問題」1979年などが活写している。
註記)隅谷三喜男「満洲労働問題序説 上・下」『昭和製鋼所調査彙報』第25・26号,康徳9〔昭和17〕年1・4月。小島麗逸編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済研究所,1979年,第6章 窪田 宏「満州支配と労働問題-鉱山,港湾荷役,土木建築労働における植民地的搾取について-」
しかし,山本「経営学説の満州国的な理論展開」においては,隅谷三喜男が指摘したごとき「戦時期における満洲支配」の実態は,その影すらうかがうことができなかった。
さて,時代は飛んで,2002年5月になっての話である。
元関東軍2等兵だった池田幸一(「カマキリの会」事務局,大阪府豊中市在住)は,敗戦後,ソ連によってシベリアに抑留された3年間を,「心身ともに極限の体験をした。抑留中の苦しい思いは心中に鬱積し,しばしば夢にみてうなされるほどだった」と告げ,捕虜になった自分たちへの補償〔自国民自国補償方式〕を強く求めている。
註記)「〈私の視点〉池田幸一-シベリア抑留 元捕虜は沈黙しない」『朝日新聞』2002年5月21日朝刊。
満州帝国建国大学教授であった山本安次郎は自身も,ソ連参戦を契機に根こそぎ動員の対象となっていた。そのため敗戦後はシベリアに抑留される目に遭わされ,山本もまた,死線をさまよう強制労働などを体験したのち,なんとか日本に戻れた。
しかし山本は,個人の感傷的次元でその歴史的な体験を回顧するにとどまり,なぜ,自身がそのような目に会ったかを,社会科学者の感覚的理性をもって受けとめていた様子を,学問的な次元に意味転換させて語ることはなかった。
もしかすると,事後に経ることになった華麗な経歴が山本の気持を癒し,和らげることができたのかもしれない。
ここで,山本安次郎よりすこし年長の社会学者,新明正道に触れる。なお山本は1904年生まれなので,上掲の画像は京都大学経済学で定年を迎えたころに撮影されたものと思われる。
新明正道は敗戦後,GHQが占領政策の一環として指令した教職追放と公職追放によって,東北大学の教壇を去ることを余儀なくされた。そのときの心境を詠ったのが,つぎの一句である。
“首一つ コロリと落ちて 今朝の秋”
新明正道は,戦後の1946年正月のラジオ放送で,大日本言論報国界などの国家主義団体の役職者はすべて公職から追放されると聞いた。そこで彼は,東北帝国大学の高橋里実法文学部長に辞表を提出したが,慰留された。しかし,法文学部の大学教員資格審査委員会は新明を「教員不適格者」と判定し,大学総長を経由して文部省に報告された。
その後,東北大学総長となった高橋里実は文部省に新明の「再詮議」を要請したが,実現しなかった。新明は戦時下の思想的な戦争責任を毅然と引きうける決意をもって,教職追放をうけいれ〔約5年間〕,その心境を軽快かつ諧謔に俳句に託して,前句のように表現した。
註記)山本鎭雄『新明正道-綜合社会学の探究-』東信堂,2000年,30-31頁。
新明正道の社会学説についてここで詳説はできないが,彼自身は壮大な社会学研究において,内外の諸学説や諸理論を偶像化することもなく,徹底的に批判し,自己の学説や理論を構築しようとした。新明の墓碑銘は「偉大な真理は批判されることを欲し / 偶像化されることを望まない」と銘記している。
新明正道は日本を代表する理論社会学者として,「行為関連」の立場に立って「綜合社会学」を体系化するとともに,社会学史家として社会学の諸学説を検討し,社会学通史を体系的に著述し,さらに知識社会学,政治社会学,民族社会学,都市社会学などの特殊社会学にも偉大な業績をのこした。
註記)山本,同書,はじめにⅷ頁。
新明正道がとくに,社会学の本質概念として「行為関連」をえらんだ理由は,その歴史的社会概念の意味が「社会の構成主体として」の意味内容を包摂するところから,「文化をとりこみ歴史性をも獲得できる」とみなした点にある。
註記)小笠原真『日本社会学史への誘い』世界思想社,2000年,255頁。
新明正道が,ナチズムの根柢をなすアーリア主義は科学的根拠をもたず,アジアや日本に対する認識は偏見的なものであると批判した点は(註記),正しかった。
註記)新明正道『民族社会学の構想』三笠書房,昭和17年,51-58頁参照。
しかし,彼自身のちに反省することになった,つぎのごとき主張も繰り出していた。
新明正道の場合,社会学者としてナチズムに対する批判があったが,また日本帝国主義を正当化する議論もあって,正負双方からの評価を受けるべき余地があった。
新明正道は戦争中,「我々が正当に戦時生活の倫理を問題とし得るのは,戦争それ自身の理義がきはめて明確である場合に限られてゐる」と主張したが,戦後,この論点〔の錯誤〕を再吟味しようとする学的理性はもちあわせていた。
註記)新明『民族社会学の構想』142頁。
もっとも新明正道は,「自己内省の問題」として,戦時体制期における転向と敗戦後の転向を率直に告白せず,それらは未決の問題〔「ミイラ取りがミイラになった」〕としてなお残されている。
註記)山本鎭雄『時評家 新明正道』時潮社,平成10年,155頁,〔114頁〕。
山本安次郎の場合,戦争中,大東亜共栄圏思想を経営学的にひたすら正当化していた。しかし,自説に固有だった戦時翼賛経営体制的な理論性格を,敗戦後にみなおすどころか,小声だったが〈国家の立場〉を再度もちだし,それを確言してもいた。
それだけではない。一番問題だと指摘するほかない論点は,「自説そのものを偶像化してしまった」山本理論の思いこみ・過信・自己陶酔である。山本安次郎は終生,持論の絶対化に執着したあげく,成仏したといえる。
山本安次郎は,他者からの批判を絶対的に排斥できる経営「行為的主体存在論」を,神学的境地において提唱さえした。そのためか最終段階においては,形骸化現象のいちじるしい本質論的・方法論的な原理論体系以外,顕著な業績は残せなかった。
註記)念のため,山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年は,学史研究領野の重要な業績であることを断わっておく。
日本の経営学界のなかではフランス経営学を研究する学者が少ないが,山本安次郎はその貴重な1名であった。同じくフランス経営学の研究を展開した佐々木恒男は,山本亡きあと,こう喝破した。
同世代の研究者同士ではなかったけれども,山本安次郎と佐々木恒男は,相互に意見を交換できる学界活動の時期を長くともにしてきた間柄である。
山本学説,とりわけその本質論・方法論の根本的な思考枠組に向けた佐々木恒男の排撃的な裁断は,両者の対話・論争の機会がえられない時期になってから下されたという点に鑑みるに,遅きに失した感をまぬがれえなかった。
2002年度で創立10周年を迎えた経営学史学会は,佐々木恒男を有力成員とするが,同じような成員に小笠原英司がいる。こんどは,この両者間にかかわる問題点を発生させるものとして,小笠原が興味ある見解を披露していたので,つぎに紹介しよう。
しかも,上述のうちあとの見解は,2002年5月経営学史学会創立10周年記念大会の『予稿集』に収録された小笠原「基調報告」のなかでいわれたものであった。小笠原英司はさらに,同『予稿集』の冒頭に配置された「統一論題解題」の文責者でもあった。
佐々木恒男は前段でのように,山本安次郎が理想的な理論目標だからとして,長年にわたり追究してきた「本格的経営学」説=「真の経営学」の立場を,「過去形の檻」のなかに追いこみ,まるで記念物化したかごとき見地を披露した。つまり,佐々木恒男は「かつては」という表現を用い,いうなれば山本安次郎流の理論構想を,現在の地平からするその理論的な位置づけを全面的に否定し,排斥したのである。
ともかく,山本安次郎と佐々木恒男は〔そして本ブログ筆者もそうであったが〕「かつては」,一定期間にいっしょに学界活動をしてきた,そういう仲間同士である。しかしながら,佐々木は事実として,その時期においては山本学説を否定的に評価する論説を公表したり,直接・対決的に論争を挑む発言をしたりしてこなかった。
換言して明確に指摘すると,佐々木恒男は山本安次郎が現役で元気にまだ活動中の時期には,真っ向から批判を提示しなかった。山本が他界してからと判断するほかなかったゆえ,ともかくも,そのような「山本学説批判」は「時期を逸していた」としかいいようがない。
他方,小笠原英司は,熱烈な山本学説の信奉者であった。小笠原は,山本『経営学研究方法論』丸善,昭和50年を,「わが国経営学理研究のバイブルとも言える」と激賞,大絶賛した。
註記)小笠原「経営哲学の体系」50頁。
こうなると,山本学説を全面否定した佐々木とそれを心底より崇敬する小笠原とのあいだには,みのがすわけにいかない「見解の完全な断層」が生じていたことになる。
ところが,山本学説の理解や認識,解釈に関して,両者のあいだで議論・批判がかわされたり対話・論争がおきたりしたことを,筆者はこれまで聞いたことがない。
同じ学会内においてこれほど意見の異なる経営学者同士が,学問的次元において平和に共生する姿を,他の世界に住む人々がしったらどう感じるか。
※-8 経営学者の戦争責任
1) 経営倫理学からみた経営学者
「本稿(その3)」は冒頭で,経営倫理学は「企業のよい生きかたを問い,それを吟味する学である」と定義してみた。
戦時中の建国大学ではそもそも,「研究の自由」という概念がまったく保証されていなかった。国家目的に合った研究論題を設定する範囲内で,研究体制が保証されていたに過ぎなかった。
実をいえば,満州国に建国大学が創設された昭和13年は,日本において「大学の自治」の否定がなされたその年である。
註記)斉藤利彦「『満洲国』建国大学の創設と展開-『総力戦』下における高等教育の『革新』-」,学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』第30号,1990年3月,129-130頁。
満州国民経済=軍事立国体制の要請に応じて山本安次郎が用意した経営学説は,国策会社:特殊会社などのめざすべき「目標:〈企業のよい生きかた〉」を提示する,なおかつ「それを導入するための規範学」としての《公社企業論》であった。
だがそれは,戦後における日本産業経済に再登場できず,理論上ほぼ完全に撤収された。なぜか? この答えは簡単である。
企業体制論としての公社企業論の提唱は,まず学問の理念において「国家の立場」に立ち,つぎに理論の構想において西田幾多郎の哲学論,すなわち「行為的主体存在論」を活用していた。
けれども,戦前において「国家の立場」を絶対的な前提とみなした公社企業論は,満州国の「企業の悪い生きかた」を理論的に合理だとする基盤を,政策論的に当初から正当視しつつ構築する,その経営学論的な思考の方途をめざしていた。
それでも,山本経営学説の基礎論のうち「行為的主体存在論」にかぎっては,そっくりそのまま戦後にも継続していき,堅持されてきたのである。
だが,この経営哲学論の発想は,そもそもの本質論的からして「国家の立場」〔「全体主義的国家民族主義」〕と結着しつつ登場していた,という歴史的な事実は,みのがすわけにはいかない問題性であった。
現に,戦後しばらく経つと山本安次郎は再び,その「国家の立場」の必要性を,それも小声だがささやき出していた。それも当初は主に「注記中での記述」のかたちでいいはじめていた。他者の目線から観るに,こうした「論説の足跡」じたいが,もとより黙過できない作法の記録になっていたと批判されても当然であった。
ここで新明正道にもどり,もう一度いわせてみたい事項がある。
「国家の立場」に立つ「行為的主体存在論」は,戦時体制〔第2次世界大戦という非常事態=異常環境〕のなかでこそ,明治開国以来の日本の哲学的伝統を活用する〈経営学用の哲学的思考〉として構想されていた。
山本学説も,1945年8月の敗戦という冷厳な結末を突きつけられたさい,その依って立つ国家思想の土台を喪失させられ,つまり,その理論体系を支えてきた現実的な基盤:主柱を溶融・倒壊させられていた。
2) 経営学者も加担したあの戦争
ピーター・F・ドラッカーは「全体主義に神は存在しない。しかし,全体主義は自らの矛盾を解くために,悪魔,超人,魔術師を必要とする。ここにおいて,邪を正,偽を真,幻を現実,空虚を実体にかえるために,『指導者』が必要となる」と喝破した。
註記)ピーター・F・ドラッカー,上田惇生訳『「経済人」の終わり』ダイヤモンド社,1997年,224頁。
ドラッカーは,全体主義を経済人の終焉のあとに現われたひとつの強力的な変革への試みだったとみたるが,これによって真の非経済的秩序が創造されるものでない,と宣告した。
註記)新明『民族社会学の構想』276-277頁。
それゆえ,ここで山本安次郎に問われるべき問題点は,「各人〔=山本学説〕における行為関連の記憶と習慣である」
註記)新明『社会学の基礎問題』267頁。〔 〕内補足は筆者。
若槻泰雄『日本の戦争責任-最後の戦争世代から-』原書房,1995年(小学館,2000年)は,山本安次郎のように戦時中の学問を展開した人間に対して,そうとうきびしい口つきで,こう批判した。
「大東亜」戦争は,日本人の多くにとってなお「正義の戦争」かもしれない。当時の日本は,「大東亜共栄圏の建設」が「世界平和の確立に寄与する」という大義名分をかかげ,「自衛の確立のために南方に進出する」といったが,実に勝手な理屈だったとしか思えない。
註記)田原総一朗『日本の戦争』小学館,2000年,443頁。
満州建国は,勝手に他人の国から広大な土地を分轄して,これを「聖業」といっているのだから世話はない。この聖業はやがて大東亜戦争となり,泥沼化してにほんは敗北した。満州建国こそ帝国主義であり,その地で日本官僚群が試みたものこそ,資本主義の枠であったではないか。
註記)中島 誠『アジア主義の光芒』現代書館,2001年,202頁。
ある論者は,西田哲学の論理を「非統合の総合」と解釈し,「自己の論理」と「他者の論理」,自国の文明と他国の文明をともに生かす思想的な特徴を有しており,したがって,文明史的には,自国中心主義におちいることはありえず,他方,外来文明に完全同化することもありえない。オリジナルな西田哲学の秘密は,この論理構造に索められるのではあるまいか,と仮定する。
註記)荒井正雄『西田哲学読解』晃洋書房,2001年,まえがきⅱ頁。
この西田哲学解釈は好意的なものであった。だが,この解釈にしたがうにしても,山本安次郎流の西田哲学論:「経営行為的主体存在論」=国家の立場に立った戦時経営理論は,基本設計上のその出立点からして決定的なミスを犯していた。「実に勝手な理屈」をこねまわしていたのである。
※-9 総括-なにが問題で,なにが責任で,なにが欠落してたのか-
山本安次郎より20年あとに生まれ,太平洋戦争の末期に徴兵された若槻泰雄〔前出〕は,戦争の時代を生きぬいてきた〈戦時派の倫理観〉を,こう自覚する。
山本安次郎に問われるべきは,あの戦争の時代を生きた経営学者の倫理問題である。いいかえれば,戦後における「経営学者のよい生きかたを問い,それを吟味する学」より発せられる疑問である。
以上の記述は,つぎの3点に整理しておく。
a) 戦争の時代に学問した「経営学者」の倫理的義務に関する問題。
b) 次世代の経営学者に影響を与えた「経営学者」の倫理的義務に関する問題。
c) 結局,満州帝国建国大学教員時代,経営学研究をとおして「悪い生きかた」をしてしまった山本安次郎の,その後においてなしうる贖罪〔=「よい生きかた」に関する倫理的な問題〕は,なんであったのか?
それは,自覚されたのか? なぜ,自覚できなかったのか?
経営学者山本安次郎はあの戦争の時代に生きていたのであり,「死者に対して負債がある」「我々」の1人であった。しかも,「国家や軍の指導者」と同じ立場に立ってもいたゆえ,「政治的・道徳的な責任がある」「民族や国民」の1人でもあった。
山本安次郎は,社会科学者であって恐らく,岸 信介や椎名悦三郎,笹川良一などと政治的立脚点を同じにする者ではない。だが,無意識的・結末的ではあっても,彼らに似た足跡を残した。
戦後日本の政界で,岸や笹川が有力な人士であったように,経営学界での山本安次郎は,京大経済学部の教授にもなっていた関係上,それなりに注目される存在であった。
辻井 喬〔堤 清二〕は,戦争の時代を,以下のように回顧する。
不破哲三は,敗戦の1945〔昭和20〕年8月までれっきとした帝国臣民意識の所有者だった自身を,こう回顧することになった。
8月14日,「明日は敗戦の放送がある」という “情報” がどこからか私たちのところにも流れてきましたが,私は頭から問題にしませんでした。現実にどんな状況を目にしても,日本は敗けるはずがないと国民に思いこませるのが,「神国」思想でした。
ですから,日本の敗戦は,「神の国」思想で育てあげられた私たちには,本当の衝撃でした。
その私たちにとって,8月以後,日本の戦争が不正義の戦争,侵略戦争だったということを,まぎれもない歴史の事実をもって知らされたことは,それ以上の衝撃で,子どもながらに,価値観の百八十度の転換を経験した,歴史的な一時期でした。
註記)不破哲三『歴史教科書と日本の戦争』小学館, 2002年, 125-126頁。
辻井 喬や不破哲三が信じこまされた旧皇国精神は,こういうものであった。
また西川長夫は,自分自身も深く存在的にかかわざるをえなかった〈戦争の世紀〉を,つぎのように回顧した。
戦時中の経営学者山本安次郎は,戦争に「敗けるはずがない」と宣託されていた「神国日本」にまつわる迷信を,当時において寸毫も否定する社会科学者ではなかった。
そしてまた,だから「当時のナショナリズムの背後に個の自由を押しつぶすおそろしいファシズムの力がはたらいていることを見抜くことができなかった」
註記)『務台理作著作集第5巻 西田哲学論』こぶし書房,2001年,301頁。
結局のところ敗戦後になっても山本は,「無自覚な帝国主義者・植民地主義者であり続けた」。(←前述,西川長夫からの引用)
満州国の建国当初において高揚された国家理念は,「王道楽土」と「五族協和」であった。ところが,前段のごとき皇国精神にしたがえば,満州国における真実の理想は,日本国民「大和一族」がそのほかの「4民族」を隷属させ,協和を強いる国家体制にあったのである。
戦後になって展開された山本学説の本性は,そのような人間理解と時代背景との組みあわせに注目し分析することによって,「的確な理解」と「明晰な批判」が可能となる。
満州国の建国大学に生きた経営学者山本安次郎の主観的な「自分史に関する認識」じたい関しては,「地獄への道は善意で敷きつめられている」〔ダンテ『神曲』〕という文句が,みごとにあてはまっていた。
すなわち,結果責任に対して,動機の純粋さを対置し,善意が悲惨な結末をもたらした意図と結果の乖離にたたずむどころか,石原莞爾もふくめて五族協和の理想を実践した当時の日本人にとって,「遅れた〔日本の〕東北農民」よりさらに「遅れた満州」を文明化するアジアの盟主日本という使命感こそ,自民族中心の植民地思想であったことに気づいてもいない。
しかし,満州移民の旗ふりと移民団長としての責任を終生負いつづけた富樫直太郎という人物は,「日本人がわがままやったですなあー」という所感を述べていた。
註記)歴史科学協議会編『歴史が動く時』青木書店,2001年,220-221頁参照。
盧溝橋事件,自国のみを正当,無謬とし絶対化する思いあがりと自己中心主義こそが,戦争拡大の重要な要因であり,あの悲惨な結末をもたらした根元である。
註記)肥沼 茂『盧溝橋事件 嘘と真実』叢文社,2000年,291頁。
西田幾多郎の直弟子ではないけれども,西田哲学を読み吸収して自分の思想形成に生かした,西田に劣らず反骨精神の旺盛な面々がいた。
生物学の今西錦司〔棲み分け理論〕,精神医学や臨床医学の木村 敏〔などの理論〕,仏教の鈴木大拙・秋月龍珉,キリスト教の八木誠一などは,単なる信奉者ではない。むしろ,批判するところは徹底的に批判する。こういう人びとをとおして,西田の思想の大きさが逆に証明される。
註記)大澤正人(文)・田島董美(イラスト)『西田幾多郎』現代書館,2001年,12頁。
こういうことである。
西田哲学にでて来る実践とか行為とかいう概念は,……目的論的性格が全く抽象的にとりあげられたものにほかならない。
註記)いいだ もも編・解説,山田坂仁『認識論と技術論』こぶし書房,1996年,177頁。
哲学的概念……は,その心境的あるいは体験的な性格を突破して,現実界の歴史的形成の原理となるということが必要である。そしてそのためには,それは現実の社会科学や自然科学の知識や成果と緊密に結びつく必要がある。西田哲学や田辺哲学に根本的に欠けていたのは,まさしくこのような具体性である。
日本に「国家の国家」たる位置をあたえること……は文化的理念の問題としては問題ないとしても,政治的現実の問題としては大いに問題が生ずる余地がある。
あらゆるものを無限に包容して自己の内に位置づけようとする西田の絶対矛盾的自己同一の立場は,宗教的自覚の世界と政治的現実の世界,平たくいえば,理念の世界と現実の世界を混同する危険性を有している。
西田自身は,一貫して政治や国家の基礎に文化を置いたが,理念的で観想的な文化は権謀術数を弄する現実の政治力学の前にたわいもなく呑みこまれてしまった。
註記)小坂国継『西田哲学と現代』ミネルヴァ書房,2001年,265頁,92頁。
しかし,経営学者の山本安次郎説〔とりわけ戦時期経営学論〕は,学的倫理の問題契機も踏まえて考えるに,西田の哲学・思想に対して,なにか具体的なものをくわえることができたのか? この指摘は,山本理論に対する,もっとも根本的な疑念である。
以上の議論を敷衍しよう。
かつて,山本「自身は,一貫して政治や国家の基礎に文化を置いた」経営学説である「経営行為的主体存在論」を,「理念的で観想的な文化」論=国家の立場に立った戦時経営理論として披露した。だが,この経営学者の学説理論は,「権謀術数を弄する現実の政治力学の前はにたわいもなく呑みこまれてしまった」
務台理作は,西田哲学を論じたさい,「現代の哲学は……科学の哲学と思想の哲学の二つの領域に分かれる」と説明し,さらにこう論及した。
註記)『務台理作著作集第5巻 西田哲学論』から前後して,313-314頁, 331頁, 301頁。
「科学の哲学」は,記号論理学・新論理実証主義・分析哲学などであり,主として基礎科学の根拠を追求し,当然,哲学自身も基礎科学のひとつになろうとする。
それは自然と,論理学やその表現としての言語-記号などの分析と評価に重きをおく。つまり,従来の哲学における用語のあいまい性を,できるだけ厳密に検討整理し,基礎概念を正確にして新しい論理哲学をつくりあげようとする。
「思想の哲学」は,実存主義の哲学・マルクス主義哲学・プラグマティズムなどであり,人間の思想を人間の生活・社会・歴史の条件とむすびつけて,思想の構造,その運動-役割に重きをおく。
だからこれは,マルクス主義のように社会の歴史的運動の法則とか,実存主義のように人間のぎりぎりの存在状況の意味,いわば現実にのたうちまわっている人間存在はなんであるかという問題,とくにイデオロギーとしての哲学問題に重きをおく。
そして務台理作は,「西田哲学に不足していたのは」「歴史的問題を自分に受けとめ問題の中に含まれている革命的要素(最も広い意味での)をとらえ,その実現に向かっていく実践である」とか,「このような革命的実践こそ歴史とのつながりにおけるほんとうの実践の意味である」と,西田幾多郎の〈哲学的思想〉を批判した。
さらに務台理作は,西田哲学の思想はわけても,個性の問題と民族の問題,個人の自由とナショナリズムの問題を十分に解決することができなかった,とも批判した。
山本安次郎経営学説の理論的思想においては残念なことに,そうした西田哲学の問題性が格段に歪曲化され矮小化されるかたちでのみ,理論の展開面において,本格的に全面化していた。
つまり,「現代の哲学」に立脚しつつ経営理論「科学の哲学」を論じた山本学説は,戦争の時代から不可避に特定の掣肘を受けていた。いいかえればそれは,戦時経営「思想の哲学」を語るに当たって回避できない重大な問題,すなわち「人間存在」に関する「イデオロギーとしての哲学」=「国家:皇国の立場」を,それも社会科学の立場から意識的にとりあげ,詮議することがなかった。
務台理作はさらにいう。「歴史を動かすものは思想そのものでなく,思想を生み出してくる太く逞しい歴史の力である」と。
註記) ここは『務台理作著作集第5巻 西田哲学論』332頁。
歴史に翻弄された経営哲学・思想の「具体」論であった山本流「経営行為的主体存在論」の功罪は,現時点から評定するまでもなく,あまりにも明らかであった。
経営学者山本安次郎も,西田哲学流の言辞:「作られたものが作るものを作る」という文句を重用する。だが,「人間の底に帰りつつ,同時にその外に出るという事態が,『表現されたものが表現する』,また『作られて作る』と言われている」(註記)経路を,はたして,山本が学問展開の前提においてまっとうに意識しえていたのか疑問は大きい。
註記)岡田勝明『フィヒテと西田哲学』世界思想社,2000年,198頁。
西田哲学における明証性とは,いわば最初から与えられているものである。西田にとって「直接経験」さらに「自覚」とは,初めからそこにある事実である。
註記)岡田勝明『フィヒテと西田哲学』世界思想社,2000年,198頁。
そもそもにおいてだが,西田哲学に内在する「論理的に必然的な帰結」は,なんであったか。
普遍的なものが世界的なものに還元されたために,西田哲学は歴史的に巨大な過ちを犯した。西田は,日本の天皇の世界性と,西田の場所の理論に想定された普遍性〔これは根源的な世界性でもある〕を混同した。歴史的には,その混同=同一化は,超国家主義を概念によって正統化することにほかならなかった。
西田幾多郎がそのように世界を絶対的なものとしたために,〈他〉はいつも〈同〉に還元されることになる。絶対矛盾的自己同一という西田哲学の核心にある表現法式は,そのことを文字どおりにしめしたものである。
要は,存在のうちのすべての差異が,世界の同一性のうちに解消されることを語ろうとしていたのである。
あの戦争を最終戦争と規定した西田の文章を読んでいくと,同一性は他性を想定するが,他性は同一性に解消されるという理念がすぐにみつかる。つまり,西田の哲学では,〈同〉と〈他〉についての際限のない議論が生まれるのである。
こうした鏡の戯れのまえでみうしなってならないことは,この世界性がみずからのもとで,絶対的なまでに閉じていることである。西田は実際に「世界の自己限定」という表現をよくつかう。それとともに絶対的な構築主義がしめされる。
いうところの,「作られたものから作るものへと矛盾的自己同一に」である。
西田の思想には,世界から外に出るための梯子=尺度のようなものはありえないのである。なぜなら,世界は土台なしに,無のうちに浮いているからである。そして内的な比例(シュンメトリア)をもつことさえできない。なぜなら,すべてのものが,たとえ矛盾したものであろうと,同一性のうちに解消されてしまうからである。
いうところの,「一即多,多即一」である。この表現が象徴するのは,すべての尺度が圧しつぶされていることである。
註記)以上,オギュスタン・ベルク,中山 元『風土学序説』筑摩書房,2002年,100-103頁。
以上に引用したオギュスタン・ベルクが西田哲学の根幹を批判した要点は,山本安次郎の経営学説にも妥当する。山本『経営学の基礎理論』ミネルヴァ書房,1967年の第8章「経営学の立場と経営の立場」が,こう述べていた(なお〔 〕内補足は筆者のものである)。
筆者は,最後にこういうことに関説しておきたい。
日本経営学界で活躍する経営学者のなかには,山本安次郎の哲学的経営理論の放つ魅力に幻惑され,これに追随する方途において経営学研究の道を歩んできた特定の人びとが存在した。21世紀の現時点ではもはや過去に属する話題になりつつあるが……。
もっとも,山本安次郎および「その亜流学者」たちに向けて〔率直・端的にいわせてもらうならば〕,いままで筆者が提示してきた「哲学史的・思想史的な批判」や「学問・理論上の分析」に対して,〈反論〉とか〈反批判〉とかを彼らから返してもらえたことは,遺憾ながら一度もない。
本ブログ筆者が山本安次郎理論に向けて繰り出していた議論や批判が,一顧だにする価値がないというのであれば,それはそれでよい。しかし,それよりも山本安次郎ファンとでも呼んだらよい人たちは,ひとつの経営学説を聖典とみまがったかのような接し方をしていた。
前述にも若干触れたみたが,日本経営学界には,「熱烈な山本ファン」とでも形容したらよい「一群の日本の経営学者」が生息していた。しかも,これはあくまで筆者の観察にかぎった判断としていうことだが,いまのところまで,山本学説の頂上を少しでも乗りこえる方途で理論の進捗をなしえた,と評価されるべき「後継の学者」が登場していない。
換言するに,山本学説を「後継するつもりだったらしい学者たち」は,みずから山本学説を本格的に検討した業績,あるいはそれをさらにいくらかでも新たに画した理論的な進捗のいずれも,産出できないままであった。
その彼らはといえば,本ブログ筆者の披露した山本学説批判に接して,ただひたすら憤るばかりであった。「私たち」の「偉大な先達」を非難するけしからぬ「経営学者〔→むろん筆者のこと〕」がいる,と。
ごく古いある時代にたまたま権威となった学者が,その時代の枠組のなかで達しえた意見(創見?)に過ぎなかったものが,時代を経ることによって大きな権威となっていき,つぎの時代になっても無謬性を誇れる理論でありうるかのように,彼らの頭上に重くのしかかっていた。
もっとも,そのように描写した学界事情は,すでに過去の出来事になっているかもしれない。だがそれにしても,そのような「著名な理論」に,絶対的な権威があるかのように学んできた人たちが,いちおうは自分たちなりに努力し,苦労もしてそれを学んできたはずである。
それでも,この山本安次郎学説(理論)の基本的な立場を批判し,否定するかのような解釈に出合った彼らは,ただ条件反射的に拒否反応を起すだけの反応に終始した。
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【断わり】 「本稿」はこの「その3」をもって完稿となる。
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