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戦争と広告-馬場マコト『戦争と広告』2010年-(その1)

 ※-1 馬場マコト『戦争と広告』白水社,2010年という本があった

 あの戦争の時代においてもそれなりに,企業の広告活動が盛んに展開されていた。しかし,戦時体制下における広告が,また「それなりにもたされた実業的な役割」については,その時代を要請を色濃く反映させる方途に向かわざるをえなかったことも,当然・必然だった状況・事情として基本に踏まえておくべき背景になっていた。

 だが,当時広告業にたずさわっていた人びとが,広告という企業活動そのものを,「諦観としての戦争」を所与とするほかなかった業界事情のもと,しかも自国内に閉塞する問題状況として対面してきたとはいえ,それ相応に工夫を創造的に展開してきた事実も記録されている。

 なお 本稿は,最初2010年11月4日の旧々ブログに記述されたあと,さらに2015年10月2日の旧ブログに再述されていたものを,三度目として復活させる再録となった。ここでの再掲に当たっても,必要な補正・加筆をおこなっている。

     本稿の目次はここでは詳細には記さないが
         およそつぎのような構成となっている

  『朝日新聞』2010年10月24日「書評」
  「柿本照己の書評」
  『東京新聞』2010年10月25日「書評」
   本ブログ筆者の論評
    --以上が「本稿(その1)」の記述である。--
   
   馬場マコト『戦争と広告』のタコつぼ的な議論
   伊丹万作「戦争責任論」
   大東亜戦争・太平洋戦争となっていた第2次世界大戦
    --以上は「本稿(その2)」となって,次回の記述となる--

本稿の目次構成


 ※-2『朝日新聞』2010年10月24日「書評」

 本書,馬場マコト『戦争と広告』(白水社,2010年9月)については,朝日新聞社の本社編集委員四ノ原恒憲が,「戦意昂揚へ,なぜのめり込んだか」という見出しで批評していた。

 我々の生活は,広告に,日々浸されている。商品に限らない。選挙だって,いわばプロの手が入った “広告合戦” だ。でも,その程度なら個人の判断で,無視もできるが,恐ろしいのは,「戦争」と結びついた場合だ。その正当性を訴え,人々を戦場に送り,結果,多くの死が残る。  

 だが,戦時下,最も強力で資金も潤沢な国という広告主の発注に,広告人は抗えるのか。本書は,資生堂を中心に,戦前,戦後を通じて,日本のグラフィックデザイン界をリードした山名文夫(やまな・あやお)の生涯を追いながら,この問題に迫る。

 昭和初期からモダンで繊細な才能を開花させた山名。が,戦線が拡大し,ほとんどの商品が配給制に変わり,企業内で広告の腕を振るう場がなくなる。一方,国は,世論を「聖戦」に向けて “健全” に導く有能な広告の作り手を求めていた。

 企業内の仕事を断たれた広告人たちは,その誘いを受け入れ1940年に報道技術研究会を結成する。委員長は山名,建築家の前川國男や,学者,画家を含め総勢23人。彼らのセンスと技術を全力投入した作品は,ず抜けた表現レベルにあった。

 以降,情報局や大政翼賛会の後援や発注を受ける形で,太平洋戦争の「必然」を視覚化した「太平洋報道展」やポスター,壁新聞などを作り続け,敗戦まで仕事の絶えることはなかった。

 なぜ,広告人たちは,戦意昂揚にこれほどのめりこんだのか。同じ業界に身を置く著者は書く。「時代の空気と時代の水に晒されていないと呼吸が止まってしまうのが,昔も今も馬場マコトプロフィール変わらぬ広告の仕事なのだ」と。憲法9条を語り,「戦争は嫌だ」という著者はまたこうもいう。

 「時代の子」である広告人の業として,自分も戦争が起これば必ず「戦争コピーを書くだろう」。だから,そんな時代を迎えないためにも「戦争をおこさないこと,これだけを人類は意志しつづけるしかない」。この戦時下の物語には,前川を始め,花森安治,亀倉雄策ら戦後文化の先頭を走った人々が多数登場してくる。「戦争」の吸引力のなんと巨大なことか。  

 --馬場マコト(ばば・まこと,1947年生まれ)は,広告会社主宰。広告で数々受賞のほか,小説も執筆している。 出版社:白水社,価格:¥ 2,520

 注記)『朝日新聞』2010年10月24日朝刊「読書」,http://book.asahi.com/review/TKY201010260200.html

 補注)以下の画像資料は参考用。  

いじめられっ子をみずから進んで演じて
生きてきたという馬場マコト
 
近影画像
著書表紙カバー

 

 ※-3「柿本照己の書評」

 本書,馬場マコト『戦争と広告』(白水社,2010年9月)は,評者柿本照己(カキモト・テルキ)が,かなり詳細に論評をくわえていた。

 柿本は,著者の馬場が生れた翌年の1948年に山口県生まれ,電気通信大学卒業後,広告代理店制作局を経て独立。クリエイティブ発想法,表現戦略構築を中心に活動。主に広告取材で,世界51か国を踏破。東京コピーライターズクラブ会員クリエイティブ・ディレクター,コピーライター,エッセイストであり,株式会社柿本デルソル事務所・代表取締役。

 この柿本の論評「戦争美化にも喜んで参画できるのが,広告人だ 馬場マコト著 『戦争と広告』」『Book Japan』2010年10月25日,http://bookjapan.jp/search/review/201010/kakimoto_teruki/20101025.html を以下に引用するが,やや長文になる。

 イ) 広告制作者は戦争とどうかかわってきたのか。質の高い国家情宣キャンペーンを作ることで,結果的に多くの人を戦場に向かわせ,死なせた広告制作者たちに良心の呵責はなかったのか。仮にこれから戦争が起きたら,広告制作者はやはり心の痛みもなく,戦争プロパガンダに参画するのだろうか。

 コピーライターでありながら,僕は戦争中の広告宣伝活動についてほとんどしらない。同じ団塊世代の馬場マコトが上梓した『戦争と広告』(白水社)。この難攻不落のテーマをノンフィクションで見事に活写してくれた。「時代と並走する」広告表現者の本質を,これほどまでに剔抉した本はないだろう。僕と馬場マコトは同じ広告代理店で仕事をしたことがあり,畏友である。

 彼は「ストップ・エイズキャンペーン」を打ち上げた輝かしい実績をもったクリエイティブ・ディレクターで,かつて小説「銀座広告社第一制作室」などを出版している作家としての顔も併せもつ。まずは,おそるべき根気で広告人のキアロスクーロ(明暗)を浮かび上がらせた力作に敬意を表したい。

 補注)「ストップ・エイズキャンペーン」を説明した文書は,https://www.wam.go.jp/gyoseiShiryou-files/documents/2003/16645/siryou.pdf にある。

 今日にいたる広告業界の繁栄は,ひとえに先達たちの礎の上で築かれてきた。しかし,広告人は過去にはほとんど興味がなく,いま起こっていることとこれから起こるだろうことを表現する楽しさに夢中なのである。戦前でも同じような人種が広告にとり憑かれていた。

 ロ) 舞台は森永製菓宣伝部にコピーライターとして在籍していた新井静一郎や資生堂宣伝部の山名文夫ら23人の精鋭たちが,立ち上げた「報道技術研究会」である。山名文夫が委員長を引き受けて,広告人による国家情宣活動が始動する。

 徐々に世情がきな臭くなり,一般広告の仕事が激減していたころである。そこで内閣情報局や大政翼賛会をクライアントにして戦意高揚,国威発揚の制作物を「報研」はつぎつぎに受注し,優れた戦争美化キャンペーンをつくりつづけていく。戦争を論理づけ,国家戦略をわかりやすいポスターや展示物などにしていった。

 なかでも山名文夫は,資生堂の唐草模様をデザイン的に完成させ,女性美をイラスト化した作品群をつくってきており,そのアートディレクションは現在でも十分通用するものだった。

ずいぶん異質な素材が同居させられていた


 ハ) とりわけ彼がつくった「おねがひです。隊長殿,あの旗を射たせて下さいッ!」のポスター(前掲画像,本文 9頁)は戦時中もっともインパクトのある広告になり,当然多くの人心を揺さぶった。

 また,大東亜共栄圏構想を認知理解させるために「報研」のメンバーがチームでつくった「太平洋報道展」は,日本最高峰の表現技術レベルだった。彼らの果敢なる広告魂が,日本のプロパガンダを実質的に支えたのである。

 終戦後,山名文夫はふたたび資生堂に入り,宣伝文化部制作室長として女性を描きつづけ,多摩美術大学の教授にもなった。死後,優秀なクリエイターに贈られる「日本宣伝賞山名賞」に名を残した。新井静一郎は,電通に入り,常務取締役まで登りつめた。

 彼らは,はたして戦争に加担したと後悔したのだろうか。そこを馬場マコトは丹念に追っている。広告技術者である山名や新井は「戦争犯罪を犯した意識がまったくなく」,「新しい表現によって人を死なせてしまった後悔よりも自分の広告技術が高みに到達できたことへの満足感を感じている」と馬場マコトは結論づけた。

 広告は制作者の匿名性が保たれているので,彼らの戦争責任はバッシングされることもなかった。「いかに新しい広告表現方法で市場を開発するか,オリジナルアイデアが創出できるかにいつもこだわる広告人の価値観」こそが職業規範であり,もたらす結果にはほとんど無頓着なのが,広告人の資質であると馬場マコトはいう。

 ニ) こうした広告人の資質に「だから広告という職業はダメなのだといわれれば,なんの反論もできないのだが」と前置きしながら,「広告の本質は新しい表現の価値観を創造すること」がすべてであり,時代が変わっても広告制作者の思いは変わらないだろうと書いている。

 そして,あとがきで「時代の子」を名のる馬場マコトは,「自分もその時代にいればなんのためらいもなく国家情宣の仕事を受け,山名文夫や新井静一郎よりも優れたコピーをつくるだろう」と断言する。

 だが,馬場マコトの初心は違っていた。「行政広報,自衛隊,原子力などの国家情宣の仕事と被害者を生み出す職種の仕事をことごとく断ってきた」のに,厚生省によるエイズ防止の国家的キャンペーンや借金地獄を生みだしたサラ金などの広告をしてきて,みずからの禁を破ったことを告白している。

 広告制作者は,商社と同じく「ラーメンからミサイル」までさまざまな商品や企業の広告表現に挑むことで,表現の熟達者になれることを本能的に知っている。あらゆる毒を貪婪(どんらん)に飲みこむことが,広告業界の掟であるのだ。あれはイヤ,これはイヤでは,広告業界にいる意味はない。一方,クライアントを獲得するためには激しい競合を繰りかえし,市場原理に沿って先鋭的な表現をしていくなかで良心が摩耗していく。

 ホ) 企業が反社会的行為をしたり,情報を捏造したりすれば,必ずメディアや消費者からバッシング受ける。広告とは別次元なのだ。ひたすら与えられた課題のために戦略をつくり,アイデアを考え,広告にして発信することが僕にとっても職業上の宿業だった。

 戦争を起こさなければ,戦争コピーを書かなくてすむ。馬場マコトは戦争は嫌だといいきっている。広告表現者の良心は時代潮流の上に浮く病葉(わくらば)ほどの軽さではあるが,それゆえにたまには俯瞰し,沈潜もできる立場にあるのだ。

 馬場マコトは矛盾に満ちた広告人の業を描いてくれた。「広告屋」といって一抹の侮蔑をもってみている人たちに鏃(やじり)を投げつけた書である。「死の商人」といわれる武器製造企業グループの広告活動にも手を染めた極悪人の僕は,この本で救われた。「善人なほもて往生をとぐ,いはんや広告人をや」である。 

 

 ※-4「髙島直之の論評」

 本書,馬場マコト『戦争と広告』(白水社,2010年9月)は,※-2で触れた朝日新聞の前掲書評より1日遅れて,東京新聞(中日新聞)2010年10月24日,http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2010102403.html からも論評が寄せられていた。評者は髙島直之(武蔵野美術大学教授である。見出しは「〈図案〉の力が担った国家宣伝」である。

髙島直之・画像

 山名文夫(あやお)の描く化粧品広告のイラストは,髪に唐草模様が絡みつくようなアール・デコ風の女性像によってしられる。本書は,この山名の存在を軸として「広告図案家」がそれまでに培った技術をもって,第2次世界大戦の国家情報宣伝の報道に応用し戦争協力をしていった,その活動の意味を問うノンフィクション・ノベルである。

山名文夫・画像

 山名は1920年代に挿絵画家として出発し,化粧品会社の広告スタッフになり,1930年代には日本文化の対外宣伝グラフ誌のデザイナーに,日中戦争前にもとの化粧品会社に復帰した。「挙国一致」の戦時体制への傾斜で,化粧品など贅沢品の生産が中止となり,陸軍受注の石鹸製造などに代わっていく。

 会社は軍需生産で活況となるが,広告スタッフの仕事がなくなる事態は,山名を戦争協力に誘った大手製菓会社の広告部員にとっても同じであった。

 化粧品も洋菓子も1920年代モダンを象徴する商品であり,山名のリズミカルで優美なペン画はそういった時代に受け入れられたが,戦時下では必要がなくなった。しかし山名は,対外宣伝誌「NIPPON」で学んだグラビア構成の基本を生かして情宣戦の一翼を担った。

1941年2月「銀座の資生堂ギャラリーで開催された
《太平洋報道展》」へ出品された山名文夫作品

 本書は,山名たちが,それまで女性や子供たちを対象とする商品広告から,内閣情報局や大政翼賛会をクライアントとする世論形成のための国家情宣に移動する流れを丹念に追跡する。

 そして「どうすれば人に伝わりやすいか」を広告制作の課題として実務・実践を優先し,さらに高度化していこうとするデザイナーの意識が「戦争と広告」を容易に無批判的に結びつけることになった,と結論づけている。

画商から売りに出だされていた時の画像から

 著者が指摘する,山名の同僚でもあった挿絵画家の岩田専太郎が小説家と組んで江戸の妖艶美の世界を描き〈娯楽〉に徹していく立場は,山名の「公への奉仕」との比較として興味深く,本書全体に陰影を与えている。 

 

 ※-5 本ブログ筆者の論評

 1) 馬場マコト『戦争と広告』2010年9月の主張と問題点

 本ブログの筆者がこの馬場マコト『戦争と広告』を読み終え,本書のエッセンスは「あとがき」(225-232頁)にあると感じた。この箇所は当然,最後に読む箇所であったが,核心の記述が書かれていると受けとめた。

 本ブログの筆者は,この「あとがき」で馬場が主張するところを,さらに掘り下げるための議論をおこないたい。なお,四ノ原恒憲,柿本照己,高島直之の各論評のなかには重複する中身が出てくるが,これは行論上,避けえなかった点として寛恕を願いたい。

 まずさきに,この馬場『戦争と広告』に対する基本的な批評点を述べておく。

 馬場は,資本主義経済社会における広告業・広告人の「資本の論理への服従」ともいえる「彼らの全生活」が,日中戦争から大東亜戦争に深まるに連れ,「軍隊の理屈への盲従」のほうに入れ替わっていく様相を描いている。

 しかしそのさい,いずれの時代状況においても「経済生活を成立させる権威筋」には従順であって,そのうちに「軍事的な権力」にも奉仕していった広告業界の立場を,「当然の立場・行為」として擁護する基調で,馬場は議論している。

 そこには,歴史の必然的な流れのなかに自分たちの仕事の一切〔ならびに一身〕を委ねきった《諦観》がみてとれる。いいかえれば,歴史に対面していたときの,自分たちの「しかたなさ:そうするしかなかった足場」を,問答無用に当然視するような「奇妙にも超然たる態度」が,露骨に表出されている。

 別言すれば,万事をあなた・他人まかせした「達観的な境地」が開陳されている。それも,自分たちの業界が深く関与し,能動的に創造してきた「戦時期における出来事」,つまり戦争と対面してきた広告業・広告人がその歴史の形成に参画していった事実が出来させて諸結果は,それらはそれらとして,けっして「無罪放免できる・される」ほかないところの,「歴史に刻まれた,たまたま不可避に〈善悪〉を兼ねてしまった業績」とみなすだけに終始している。

 広告人はあの戦争の時代に,いったいどのようにかかわってきたのか。

 戦争という異常事態をもって他律的に発起させられていた,受動的に与えられた仕事ではあったけれども,みずからも能動的にその仕事には励み,日本帝国に対して〈忠良なる赤誠心〉を存分に発揮してきたつもりであったと,要はいうだけなのである。自身の業界史を回顧するその口調が,なぜか,他者には「第3者」的であって,素っ気なく,冷たく突きはなしたいいかたになっていた。

 ここまで来てとなるが,馬場『戦争と広告』の要旨と目次を紹介することにしたい。

【要 旨】  広告依頼主は内閣情報局。仕事は戦意高揚を図るポスター制作など。山名文夫,新井静一郎ら「報道技術研究会」の精鋭たちがとり組んだ,最前線の成果から考える,戦争の悲しい宿命。

 1 三つの文章と三点の図版
 2 プラトン社と岩田専太郎
 3 「NIPPON」と名取洋之助

 4 資生堂と福原信三
 5 森永製菓と新井静一郎
 6 報道技術研究会と山名文夫

 7 情報局と林謙一,小山栄三
 8 大政翼賛会と花森安治
 9 それぞれの戦後

  あとがき
  参考文献

馬場『戦争と広告』の要旨と目次

 2) 「あとがき」の主張:その1-戦争責任問題の所在-

 馬場マコトは「団塊の世代」であるがゆえ,「権威に楯つくことを是として,学生時代を過ごした」。だから「就職しても」「被害者を生み出すような職種の仕事には携わらないと」決めていた。

 ところが,東京都衛生局が1992年にテレビCMで始めた「ストップ エイズ キャンペーン」(前段にその関連文書を,リンク先住所でのPDFで紹介した)という企画に広告人として参加した馬場は,「そんな自分と交わした約束はすぐに反故になった」と告白する(225頁)。

 一躍,世間の注目を集めるような「いちばん時代的で,だれもが注視することが確実なキャンペーンの前で,自分の職業規範はこんなにもやすやすと崩されるものか,自分はいかに信念のない男かと,つくづく思いしらされた」。

 「いまいちばん熱い国家情宣キャンペーンを差しだされ」「なんの躊躇もなくそれに飛びついたのは,広告という職業人のもって生まれた業以外のなにものでもない」(226頁)。

 このように断わったうえで馬場は,さらにこうもいっている。「それが広告のもつ本質なのではないか」。「広告によって受ける影響よりも,新しいコミュニケーションの技法を開発できるかだけが,広告の価値基準となる」。

 つまり「広告というビジネスはいつも時代におべっかを使いながら,自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいなか,自分の思想もなにもあったものではない」。「時代はなかなかの暴れ者で,ちょっと油断すると振り落とされてしまう」(227頁)。

 馬場は,「戦争の本質」,そしてこれをおこなう国家主体が権柄づくで発揮する「その恣意・乱暴」を,先刻重々承知のうえで,広告の発注主となった国家・地方自治体などの強引さ・傲慢さを認容している。

 くわえていえば,戦争の時代に立ち会って示した,過去における職業人=広告人の「そうした姿勢」に関しては,時代に流される生きていくほかない彼らではあったものの,つまり,権力主体や資本家・経営者の指ししめす方途に唯々諾々としたがったにせよ,権力者・経済者の意を汲んで,与えられた目標に率先向かい,〈積極的に開拓していく気概〉を発揚していたと評価する。

 馬場はこういう。戦争中,内閣「情報局第5課の管轄下にあった広告制作者はだれも,自分の企画力を最大限にして,得意先の課題に応えようとした」。つぎの画像資料は馬場の本,72頁である。

「見よ,東海の空明けて」という場合
そちらの方向からB29がたくさん飛来するようになったのは
1944年11月からのことであった


 これは「愛国行進曲」を素材に使い,広告を出した森永キャラメルの宣伝であった。なお,故・安倍晋三の配偶者:昭恵の曽祖父森永太一郎が森永製菓の創業者・初代社長である。

 「それは広告制作者だけでな」く,そ「の管轄下にあった,文学者,画家,音楽家たちもやはり,自分の文化創造装置を最大化して,作品の創出にあたった」。

 だが「広告制作者の名前はクレジットされないという職業のシステムにある」のに「対して,文学者,画家,音楽家は個々人の名前でその時代を生きたために,きびしい戦争責任を追及された」(228頁)。

 本(旧)ブログはすでに,芸術家にかかわる戦争責任の問題をめぐって画家については,藤田嗣治(ふじた・つぐはる,Leonard Foujita または Fujita, 1886-1968年)をとりあげ,音楽家については,山田耕筰(1986-1965年)をとりあげた(ただし現在はいずれも未公表の状態なので,いずれ復活,再掲したい)。

 文学者が戦争の時代,どのような活躍をしたかに関する研究については桜本富雄がいて,非常に豊富な著作を生産してきたが,ここではその氏名しか紹介できない。 

 3) 「あとがき」の主張:その2-責任転嫁の理屈-

 馬場マコトは広告人として,こうもいっていた。「戦争に傾斜し,加担せざるをえない表現者の資質と,またそうしなければならなければ暮らせなかった生活者としての視点に欠ける」のが,「戦争責任を追及する人々の視点」である「と思う」。

 「文学・美術・音楽界にあっての責任者は,創造者たちの業を利用し,従軍記を書かせるように企画し,強いた〔内閣情報局〕第5部第3課の情報官たちにほかならない」。

 「また『戦う広告』の本当の責任者は内閣情報局第5部第1課の本野盛一課長ならびに林 謙一,小松孝彰であり,大政翼賛会では」「花森安治なのだ」。つまり「広告はいつの時代でも,まず基本的な戦略の方向性を立案し出稿する得意先にすべての責任がある」(229頁)。

 この文章に現わされた戦争責任のありかに対する指摘は,なにをいっていたのか?

 馬場にいわせると要するに,戦時期の広告界を生き抜いてきた〈自分たちの先輩たち〉に広告の仕事をくれた,国家体制側およびその担当責任者たちにもっぱらあるという。この発言は,徹頭徹尾,きわめて強引な責任転嫁である。

 ともかく,馬場のいいわけがたいそう振るっていた。こう説明していた。

 戦争責任,戦争加担を非難するのはたやすい。しかし,それは想像力に欠けないだろうか。戦争の時代を生きた人は,自分の立っている位置で戦いをするのだ。戦いを強要されるのだ,国家によって」。

 「先の戦争によって学べることは,たったひとつ協力することだけである」。「人間はだれも生きるために,戦争に協力するということだ。それは日本という国だけでなく,世界共通の真理だ」(231頁)。

 ここでいったん,戦中から21世紀「2015年夏の話題」に飛ぶ。安倍晋三政権になってからは再び,以上のごとき馬場マコトの意見・立場が好餌になる時代になっていた。

 このブログの記述は最初,2010年11月に執筆されていたが,翌年には「3・11」という,21世紀の記録に特筆される大地震とこれに随伴する東電福島第1原発事故が発生した。

 安倍晋三は原発事故を人間が蚊に刺された程度にしか感じられない鈍磨の感性の持ち主であった。安保関連(戦争)法を成立させ,属国であるこの日本国の立場をアメリカに再確認してもらいながら,それでいて,安倍自身が最大限にこだわっていた「戦後レジームの否定」を,みずから放棄する一貫性のなさを暴露した。

 安倍晋三はいまでは故人になっているが,この「世襲3代目の政治屋」にまともな議論はまったく通じなかった。なにせ,日本の政治・経済を全面的に崩壊させるのに,たいそう偉大な貢献ならばできたボクちん政治屋であったが,まともな為政はなにひとつなしえなかった。

 ということで話題はいきなり,原発「廃炉」の問題に飛ぶ。

 昨日〔とはいってもここでは2015年10月1日〕午後5時台にNHKラジオ第1に出演した,福島原発事故現場で汚染水処理問題に専門家の技術をもって対応していたある人物が,正直にこう語っていた。

 福島「廃炉」は40年の計画で「工程表」を作成し,片付けようとする予定であるけれども,実際にはその3倍以上の時間がかかると。

 その発言を聞いた本ブログ筆者は,このこと:「福島原発事故」の廃炉処理にはおそらく,半世紀どころか1世紀以上かかると指摘された点を聞かされ,やはりそうであったかと再確認させられた。

 素人のわれわれでも,原発のことをある程度勉強すれば,その種の深刻な問題は理解していたつもりであったが,それにしても福島原発事故現場は,21世紀のうちに最終的に完全には収拾できない。そのように専門家が,この原発事故現場の実情を踏まえて確言している。

 この記述を3訂版として書いている現在においても,前段のごとき東電福島第1原発事故現場の後始末に関した問題は,そして,以上で記述した文章がいまから9年前の「2015年10月2日の旧ブログ」におけるものだったけれども,

 2024年9月の今日の段階に至ったいまでも,まだまだ「デブリ(原発事故で溶融した残りかす)取り出し作業」ですら本格的に着手できる段階には至っていない。

 安倍晋三は,日本が2020オリンピックを招致するためのIOCの五輪関係会議席上で大ウソをつき,「この国においては,東電福島第1原発事故現場は “under control” 状態にある」などと,とんでもない宣伝をしていたが,いまだに,そのデブリ取り出し作業そのものにすらとりかかれないでいる現状は,これからさきいったい何年先にまだつづくほかないのか?

 安倍晋三ともちろん同行していた当時のJOC会長竹田恒和は,東京は東電福島第1原発事故現場からは260㎞も離れた位置にあるので,2020年夏季五輪の東京招致については,他の主要国際都市と同様,東京に放射能の心配はないと説明し,安全性を強調した。ひどいいいぐさであった。

 東電福島第1原発事故のことをとらえて「日本:第2の敗戦」とも称されているが,広告問題が前後する記述において「日本:第1の敗戦」を区切りに,あれこれ議論しているにもかかわらず,前者の「第2の敗戦」の本質が歴史観において真剣に反省できないこの国は,後者の「第1の敗戦」に対する真摯な見直しをしなかった「過去の履歴」と無縁ではなかった。

 4) 論理の破綻,その必然性

 さて,ここで2010年11月の記述,馬場マコト『戦争と広告』関連の話題のほうに戻る。

 馬場が力説していた「〈真理〉なるもの」は,はたして,世界に共通し普遍するそれか? 完全に否であった。戦時期の広告界に限定されていえる〈真理〉だという分には,まだ疑いながらも聞いておく余地は,当然にタップリ残されているが……。

 しかし馬場は,「人間はだれも生きるため」であれば「戦争に協力する」のは,「世界共通の真理だ」とまでいいきっていた。戦後に生きてきた広告人の馬場の立場からの発言だとしても,これは,二重・三重の意味で重大な間違いを犯していた。

 a) 戦争に対して消極的にであっても抵抗するために徴兵を忌避し,戦いの場に送りこまれ殺されまいと必至に逃げまわっていた人間がいる。世界中のどの国の軍隊でもいた。日本帝国の時代にも少数ではあったものの一定数はいた。

 たとえば,菊池邦作『徴兵忌避の研究』(立風書房,1977年)を参照してほしい。

 b) 映画『釣りバカ日誌』シリーズの主演格でも有名な俳優三國連太郎(1923 年1月生まれ)は,20歳になっていた1943年12月,自分に届いた赤紙(召集令状)から逃れようと逃避行を試みた。しかし,それに失敗した三國は,幸いにも処罰も受けずに結局,戦場に送りこまれた。

 日本帝国が侵略戦争をしていた中国大陸前線へ送られた三國の所属していた部隊:千数百人のうち,敗戦後生きて復員できたのは,たった20~30名に過ぎなかった。三國の当初の行動は間違ってはいなかったのではないか?

 あの戦争の時代であったから,広告業界も戦争遂行に協力するほかなかったと,断言しきってもよかったのか。それで済むされる話か?

 すなわち,軍部・国家による宣伝戦略の方針・路線に即して,お先棒を担ぐ方途でしか「生きる術」〔=広告人が仕事をし,稼いで生きていく仕事〕がなかったと弁解はできるにせよ,「その道:戦争協力」に進むことが「戦争の時代における〈世界共通の真理〉になっていた」というのは,あまりにおおげさ,かつお粗末な言辞であって,よく解せない屁理屈でもある。

 それらの理屈はいうなれば〈曲芸的な極論〉のたぐいであって,戦争の時代に彼らが記録してきた業績を,みずからが恣意的に作製したつもりの狭隘な歴史観のなかに跼蹐させ,安住させ,息抜きをしてもいる。

 なによりも,馬場の主張:「戦争協力=世界共通の真理」は,過去における世界中の〈戦争の歴史〉を,すべてにわたってそのひとつ・ひとつをつぶさに調べたうえでのものか? 否である。

 --本ブログの筆者がしっている範囲内で,つぎのようにいっておく。

 たとえば経営学者のばあい,あの戦争中「職を失い食えなくなる危険を承知しながら」も,帝国日本の政治:軍事姿勢にひそかに反抗する学問を営為し,これが発覚したために牢獄につながれていた者がいる。

 たとえばまたジャーナリストでは,ペンを折られてもなお,その折れたペンを使いながらさらに,天皇制国家が遂行していく戦争体制に抵抗する文章を書いていた者もいる。

 広告人の記録した戦時期の産業生活のみをもって,それも「時代の認識」に関して〈みのがせない問題のある発言〉をしてきた〈彼らの個々の実録〉だけをもって,当時の日本に居住していた「人びとの全体像」を代表させることには,どうしても無理がある。

馬場『戦争と広告』167頁から

敗戦までのその艱難に「耐えたが」その結末はどうなっていたか?

「耐え難きを耐え」(?)などいえた人は当時(戦争中も戦後も)
衣食住に苦労はなかった

 ましてや,広告界の人びとの軌跡が「世界共通の真理」になるとまで断言するのは,歴史そのものを冒涜するような勇み足であった。それは,冒険的という形容されるべき発言の領域を飛びぬけていた。

 結局「禁断の思想」圏にまで足を踏みいれている。「戦争に協力する」のは「世界共通の真理だ」といってもらったら,いったいどこの誰が喜ぶのか,一度でも考えたみたことがあるのか?

 ところで,2024年9月26日現在も進行中である「宇露戦争」のことだが,ウクライナ国民のうち国外に逃亡したとくに男性は,いったいどのくらいの人数になるか? 兵士として徴集の対象になりうる男性は当初,27歳から60歳までであった。

 また,他方のロシア国内でこの国籍をもつ男性たちは70歳代の者まで戦場に駆り出されて戦死しているが,喜んで死んだ者などおそらく1人もいるはずがない。

 話は少し戻ってとなるが(本記述の改訂版当時),2015年9月・10月時点における日本政治の状況を踏まえていえば,馬場マコトの「戦争と広告」論の提示した議論の方途は,大歓迎される要素を確かに含んでいたといえなくはない。

 現状〔当時〕における読売新聞社や産経新聞社の編集方針は,安倍晋三政権に喜ばれる基本姿勢をすすんで示し,朝日新聞社や毎日新聞社,東京新聞社は前2者とは,まるで逆であった。2015年は安保関連法が成立し,施行される年度になっていた。ふつうに戦争ができる国になったのである。

 だが,新聞社の構えるべき態度としては,そのどちら側の方途が「世の中にためになる」かといえば,贅言するまでもない。「社会の木鐸」とは,伊達や酔狂で考えだされた思念ではないはずである。

 戦争中は,朝日新聞も毎日新聞も読売新聞も,みな同じように大政翼賛会の政治イデオロギーしか示しえず,軍部独裁の戦時体制に恭順である経営方針で新聞を発行していた。いまでいえば,読売新聞と産経新聞がまさしくそれに相当する。

 敗戦を機になにが間違えており,なにがより正しかったのは,嫌というほどみせつけられたはずである。「第2の敗戦」を意味したと解釈された「東電福島原発事故」が発生していても,またもや「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ような,日本の国民・市民・住民・庶民たちの生き様であってよいのか?

 まさか「敗戦したという認識,その気分」を疾うの昔に忘れてしまったのか?

 --アマゾンに本書,馬場マコト『広告と戦争』に対する批評が出ている。以下,本ブログの記述内容に近かった論評を紹介しておく。

 イ) ある人は,5つ星のうち1つ評価で,「受け入れがたい」(投稿者 AREN,2011年4月10日)といい,

 ロ) またある人は,5つ星のうち1つ評価で,「戦争に対する開き直り」(投稿者 shizu,2011年3月21日)だと批難する。

 ハ) そして,もう1人がこうまでいっていた。「彼ら広告屋に感情移入した作者の,身内に対する弁護で締められています。広告屋の性だから仕方ないんだってさ。 読み終えて僕はすぐにこの本を焚書にしました (笑)」。

 ここまでで本日の記述はいったん区切ることにしたい。明日以降につづく「本稿(その2)」は,できしだいここ( ↓ )にリンク先住所を指示する。

   ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n0beed99aa596
   

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