ベルリンオリンピックのマラソン優勝者孫 基禎の葬儀には日本から弔電の1通すら発信されなかったという「実話」
※-1 昔,孫 基禎という人物がいた
戦前,1936年にドイツで開催されたベルリンオリンピック,このマラソン競技で日本の選手として出場し,優勝した孫 基禎の葬儀(2002年11月17日)が韓国のソウルでもたれていたが,「日本からの参列,供花,香典,弔電はなかった」「ゼロであった」という驚くべき事実があった。
付記)なお,本稿の初掲は2019年4月20日であった。本日 2023年11月16日の再掲のおりに,その間にみつけた資料を追加し,記述した。
第2次大戦前において最後の大会の開催であり,ヒトラーのためになってもいた1936年ベルリン・オリンピック,そのマラソン競技に旧大日本帝国の選手として出場し,優勝した孫 基禎の「葬儀」(2002年11月17日)にさいして,JOC側が歴史に記録した「冷酷無比な仕打ち」があった。と,そのように受けとめるほかない「歴史の事実」が生まれ,その経緯として残された。
当時のJOC会長には2001年9月から竹田恒和が就任していたが,さすがに,ネトウヨまがいの疑似知識人:息子竹田泰和のオヤジだけのことはあって,孫 基禎に対するシカトの仕方も念入りだったのか(?)などと,ゲスの勘ぐりとまでいかなくても,けっこう的を射た推理になりえよう。
最近作の寺島善一『評伝 孫 基禎-スポーツは国境を越えて心をつなぐ-』社会評論社,2019年4月10日発行を読んでいたら,びっくりさせられる個所に出会った。
さきに,本書の簡単な紹介をしておく。紀伊國屋書店のそれを引用しておく。
本書全体を通読したい人は,価格は1400円+税なので,自分で購入して読みのもいいだろう。ここではともかく,以上の指摘,「びっくりさせられた個所」を,つぎの画像資料で紹介しておく。
以下は,寺島善一『評伝 孫 基禎-スポーツは国境を越えて心をつなぐ-』の120-121頁と122-123頁の見開き頁である。
日本社会には「村八分」ということばあるが,「孫 基禎の葬儀」に対して「JOC(日本オリンピック委員会)」が残した態度は,これはものすごく完全(完璧!)だと受けとめていいくらい,まさしく「ムラ十分」に相当する締め出し,つまり,孫 基禎という旧大日本帝国元臣民だった金メダリストに対して,「21世紀的な拒否(?)」を意思表示していた。
村八分は日本国内の掟だなどというなかれ,国際社会における普遍的な人間社会の基本精神のありようが問われていた。それも誰であれ,日本と韓国(朝鮮)との関係「歴史の因縁」が非常に深くあった人物にかかわる話題であった。
さて,当時(2002年11月)において,すでにJOC会長に就いていた竹田恒和は,孫 基禎の葬儀の事実をどう思っていたのか? まさか当時,なにも通知も情報もなくて,孫の他界をしりえなかったとは考えられない。
孫 基禎の訃報は,JOCの事務局にもきっと(おそらく)すぐに届いていたものと思っていい。これに対するなんらかの反応や対応が,JOCの内部において一定限度であっても,確実にあったものと推察しておく。そう考えたとしても,大きな間違いにはなるまい。
まさか孫 基禎が死去した事実を,その後においていつまでもしらなかった,などといったこともありえないし,いずれにせよきっと,その事実はただちに伝わっていたはずだし,十分に承知することがらになっていたと推察しておく。前掲の画像資料にもその点に関連する記述があった。
前掲の該当の頁に記述されている事実を読んで触れたとき,なんとも名状しがたい,それもイジマシイというよりは「読む者をして,ただみじめな気分にだけさせる」だけの「JOC」の様子がうかがえた。非礼かつ冷酷だという印象しかもてなかったそれであった。そのなかで,明大関係者の存在が唯一,救いになっていた。
それにしても当時の,竹田恒和君以下,JOC関係者たち総員の,ナント「お尻の穴の小さいこと,小さいこと 」といったら……。
※-2 2023年11月16日の追論
a) 在日組織系の新聞紙『民団新聞』の記事
※-1を書いたのは9年半以上も以前であったが,その後「『評伝 孫基禎』出版...歴史修正主義に抗う-日本人研究者 民団関係者ら支援」『民団新聞』という記事があった。今回この再掲版でこの記事追加しておくことにした。以下に引用する。
--1936年〔に開催された〕ベルリン五輪マラソン競技に出場し,金メダルを獲得した故孫 基禎翁の本格的な評伝「スポーツは国境を越えて心をつなぐ」が社会評論社から出版された。著者は孫 基禎翁の母校でもある明治大学の寺島善一名誉教授(73歳)。
出版不況のさなか,寺島名誉教授の著書が晴れて日の目をみたのは民団をはじめとする関係団体と明治大学を母校とする在日同胞ら個人の賛助があったからだった。
寺島名誉教授は「スポーツと平和」をテーマに36年間,孫 基禎翁について研究を重ねてきた。この評伝はその集大成ともいうべきもの。〔2019年4月〕20日,明治大学アカデミーコモンで開催された出版記念会では多くの賛助団体,個人の支援に感謝の言葉を述べた。
評伝の執筆を思い立ったのは,事実を歪曲したり隠蔽したりする歴史修正主義への憤りがあったからだという。
「孫 基禎は五輪に日本代表選手として出場することを余儀なくされた。表彰に至る過程と,ゴールドメダルに輝いたその後においても,さまざまな差別,迫害がくわえられた。帝国主義日本の植民地支配における,人間としての尊厳を損なう数々の出来事が,どれほどの苦しみをもたらしたかは疑う余地はない。われわれは歴史の事実をしっかり直視し,そこに存在する問題を認識しなければならない」
孫 基禎翁はその苦難の体験にもかかわらず,植民地からの解放・独立以降,日本人に怨念をもつこともなくスポーツを通した韓日交流に全力を注いできた。「孫 基禎の生涯をたどることにより2020年東京五輪の理念を構築してゆきたい」と寺島名誉教授は強調した。
支援者を代表してあいさつした民団中央本部の呉 公太常任顧問も明治大学が母校で,出身地の長野県諏訪地方は,植民地時代に孫 基禎翁がマラソンの練習をしたゆかりの地。「私たちは孫先生の生き方から学び,再び不幸な歴史を繰り返さないという固い決意で韓日友好親善の未来を築いていきましょう」と呼びかけた。
孫 基禎翁の子息,正寅さんは「感無量」と出版の実現を喜び,「2020年オリンピックの成功と韓日関係がよくなることを念願している」と語った。また,社会評論社の関係者は「とくに安倍政権を支持する日本の若者に読んでもらい,日本の歴史を勉強してほしい」と呼びかけた。
1400円+税。問い合わせは社会評論社(電話03・3814・3861)
b)「『これからは,2度と日章旗の下では走るまい』-孫 基禎,金メダルを得ての思い」『澤藤統一郎の憲法日記』2019年5月26日,
http://article9.jp/wordpress/?p=12685
昨日〔2019年〕5月25日,ちきゅう座総会に参加したさいに,社会評論社の松田健二さんから『評伝 孫 基禎』(寺島善一著)をいただいて,興味深く読んだ。著者の立場は公平である。
オリンピックやスポーツだけを切りとるのではなく,日本の朝鮮に対する植民地支配の歴史に目を配っている。それだけに読後感はやはり重い。日本人の朝鮮に対する差別意識の底流が露わになっているいまだけに,なおさらである。
著者は,近代オリンピズムの崇高さを強調し,孫と同時代アスリートとの交流を「スポーツで築き上げた友情は,国境を越えていつまでも不変」と讃えている。大島謙吉,オーエンス,ハーパー(英・孫に続いてマラソン2位)らとの交流は確かに感動的なのだが,現実の厳しさのほう方に圧倒される。
国威発揚のナショナリズム,人種差別,そして商業主義の跋扈というオリンピック事情は,1936年当時も現在も,さして大きな変化はないのではないか。
来年(〔ここでは〕2020年〔のことでさらに1年延期になっていたが〕)の五輪は,歴史修正主義者〔安倍晋三〕が首相を務める国の,民族差別主義者〔小池百合子〕が知事の座にある首都で,開催される。本当に,東京五輪開催の積極的意味はあるのだろうか。
プロ・アマを問わずスポーツ隆盛のいま,若者たちに訴えたい。かつて理不尽な仕打ちを受けていた朝鮮人アスリートがいたことを。日本が朝鮮を植民地としていたが故の悲劇である。その代表的な人物が,孫 基禎なのだ。
孫 基禎(ソン・キジョ〔ン〕),1919年8月の生まれ。当時,すでに朝鮮は日本の植民地とされていた。貧苦のなかで走りつづけて,ランナーとして頭角を表し,世界記録保持者として,1936年8月9日ベルリンオリンピックのマラソンに挑んで,金メダルに輝く。当時のオリンピック新記録。なお,このとき朝鮮人南 昇竜も銅メダルを獲得している。
その表彰式では,「日の丸」が掲揚され「君が代」が演奏された。これは,孫には耐えがたい屈辱だった。後年,彼自身がこう語っている。
「優勝の表彰台で,ポールにはためく日章旗を眺めながら,『君が代』を耳にすることはたえられない侮辱であった。……はたして私が日本の国民なのか? だとすれば,日本人の朝鮮同胞に対する虐待はいったいなにを意味するのだ?」
「私はつまるところ,日本人ではありえないのだ。日本人にはなれないのだ。私自身の為,そして圧政に呻吟する同胞のために走ったというのが本心だ…。これからは,2度と日章旗の下では走るまい。この苦衷をより多くの同胞にしってもらわなければならない」
孫も南も,表彰式では陰鬱な表情をしてうつむいている。孫は,ユニフォームの胸に付けていた日の丸を勝者に与えられた月桂樹で隠している。表彰式での真正面からの写真では,胸の日の丸がみえない。
しかし,斜めからの撮影では日の丸が映ってしまう。この日の丸を消した写真を掲載したのが,8月25日付『東亜日報』〔当時の朝鮮で発行されていた朝鮮人が経営する新聞〕だった。よくしられている「消えた日の丸」事件である。
現地の日本軍20師団司令部が激怒し,ただちに総督府と警察に関係者の緊急逮捕を命じた。こうして,5人の関係者が逮捕され,40日余の残酷な拷問がおこなわれた。そのうえで,東亜日報は無期限発行停止処分,5人は言論界から永久追放となった。
ところで,孫と南の表彰式のあと,日本選手団本部は選手村で祝賀パーティを開いたが,両名とも出席しなかった。「差別と蔑視故の抗議であったろう」という。
その時刻両名はどこにいたか。ベルリン在住の安 鳳根(アン・ボングン)という人物を訪問していたという。あの安 重根(アン・ジュングン)の従兄弟である。
孫 基禎は,このとき安 鳳根の書斎で,生まれて初めて「太極旗」と対面したのだという。
「これが太極旗なのだ。わが祖国の国旗なのだ。そう思うと感電でもしたように,熱いものが身体を流れていった。太極旗がこうして息づいているように,わが民族も生きているのだという確信が沸き起こってきた」
これが,彼の自伝『ああ月桂冠に涙-孫 基禎自伝』講談社・1985年の一節。
その後,孫は徹底して警察からマークされる。とうてい,金メダリストの扱いではない。彼が日の丸を背負って走ることは2度となかった。指導者たらんと東京高等師範と早稲田の入学を志すが,受験を拒否されている。
明治大学だけが,暖かく迎え入れたが,当局はこれを許可するにさいして条件を付けた。「再び陸上をやらないこと。人の集まりに顔を出さないこと。できるかぎり静かにしていること」だという。
明治大学は,箱根駅伝で彼を走らせようとしたが,かなわなかった。息子・孫 正寅の語るところでは,2002年臨終のさいに残した言葉が,「箱根駅伝を走りたかった」だった。
いうまでもなくマラソンは,オリンピックの華である。必らず最終日におこわれる最終種目。この特別の競技の勝者には,特別の敬意が捧げられる。1936年ベルリンオリンピックで,10万の観衆が待ち受けるスタジアムに先頭で姿を現し,最後の100メートルを12秒台で走り抜けたスーパーヒーロー。それが,日本人として登録された朝鮮人・孫 基禎だった。
孫は朝鮮民族の英雄となった。民族の団結や連帯の要となりうる立場に立った。日本の当局は,その言動を制約せざるをえないと考えたのだ。孫に,朝鮮人の民族的な自覚や矜持を鼓舞する言動があるのではないかと危惧したのだ。
明治大学名誉教授である著者は,孫 基禎と明治大学の親密な結び付きを誇りとして書いている。慶應も早稲田も東京高師も,この明治の姿勢に敬意を表さねばなるまい。(以下,若干,後略)(2019年5月26日)
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