呪術廻戦がボーボボだと言われている件についてそれが許せない厄介オタクのお気持ち表明
もしこの文書を読みたい方は、今後この意見が変わる可能性があることを踏まえてお読みください。この文章は自分の思考の記録として残させてください。
※この文章は、『ボボボーボ・ボーボボ』を自分の生きる意味として執着している非常に厄介で不気味な鬱状態の人間が書いています。
※ヘイトとも取れる表現が含まれるかもしれませんが、呪術廻戦をヘイトする意図は全くありません。
呪術廻戦がボーボボのパロディをしたらしいが、自分はそれで盛り上がる世間が許せなかった。怒りとも怨みとも憎悪とも似たぐちゃぐちゃした感情がふつふつと湧き出して耐えられなくなった。だから、この気持ちは一体なんなのか、なんでこんな気持ちが湧くのか整理するために文章に残すこととする。
自分語り:澤井啓夫『ボボボーボ・ボーボボ』との出会い
思春期の自分は家庭や学校の荒れ具合からメンタルを少々やってしまっており、ヒスっては自傷行為を繰り返し死ぬんだ!と声高々宣言する、なのに死なない面倒な生き物になっていた。毎日こんな感じでうだうだネガティブな言葉を口から垂れ流すので、見かねた母親が私に与えてくれたものが『ボボボーボ・ボーボボ』(以下『ボーボボ』)だった。
その時は別に『ボーボボ』に対して特別な感情があるわけではなかった。あの太陽みたいな生き物やところてんじみた生き物が、強烈なアフロが頭の中にしばらくこびりついてはいたものの、読んだ漫画の一つとして私の中に『ボーボボ』が組み込まれただけだった。
時は同じく思春期、多分鬱状態が悪化していたのだと思う、死を決意して部屋に閉じこもっていた時、私は2度目の『ボーボボ』を手に取った。逃げるようにという気持ちではなく、死ぬんだから最後に自分の本棚にある漫画をもう一回読んでおこうという気持ちだった。
そこで『ボーボボ』に光を見た。
すごくどうでも良くなった。紙の上でハジけるだのギャグの連発だのツッコミだの繰り返している連中が世間のことを全てどうでも良くさせた。こんなふうに生きている生き物が存在する世界で、自分がわざわざ難しいことを考えて死ぬことを選ぶ意味なんて全くないように思えた。無意識に本当は自分は死にたくなかったのかもしれない、そう考えるきっかけを『ボーボボ』がくれた。彼らが生きてていいなら私も生きてていいと思えて、私は笑った。
こういう体験をする人たちは意外にいるようで、Twitter(現X)では定期的に『ボーボボ』が鬱に効いた! みたいな内容がバズる。
そこから私は『ボーボボ』に救われたような思いになったのはなぜなのか? を探すために大学に入り、『ボーボボ』を研究しようと決めた。何度も読み返し、卒論は笑いの理論で『ボーボボ』を分析したら新しい笑いの理論ができるのでは!? なんて子供じみたものでなんとか卒業でき、現在も『ボーボボ』研究をしたいと文献を漁っている。その根底には自分を救ってくれた『ボーボボ』に対する信仰に近い気持ちがあって、『ボーボボ』が「好きで好きで大好き」で、『ボーボボ』を学問にしちゃえばボーボボを研究してます! という体で一生『ボーボボ』といられるんじゃない!? という邪な気持ちもあった。夢みたいな時間だった……。
世間はそれを厄介オタクと呼ぶんだぜ
自分の生きがいが『ボーボボ』にすり替わった時、あまり望ましくない変化が自分の中に起こる。自分のアイデンティティは『ボーボボ』と真剣に向き合っていることであり、真剣に向き合うためには『ボーボボ』という原典が1番大切であり、だから原典が何かしらのやり方で解釈を変えられようとしていると自分が考えた時、まるで自分のアイデンティティが崩壊するように感じて激昂してしまうという変化だ。最悪。
澤井啓夫が何も言わないこともある。自分の解釈が合っているのか世間の解釈が正解なのか澤井啓夫は何も言わない(まぁ作家=漫画であるという軽率な結びつけはよくないし、その考察のしがいこそ漫画の面白さであるとも思うけども)。だからひたすらに私は自分が信じる『ボーボボ』の姿に縋るしかない。私の信じる原典の解釈が変わると、私の研究(何度も言う通りそこまでのことはしていない)がボロボロと崩れて自分の人生が無かったことになってしまうように思える。
そして私はそれが本当の『ボーボボ』な姿かどうかはさておき、自分の信じたい『ボーボボ』を守りたいがため世間に逆張りし続けるモンスターになってしまった。暫くそうやって自分のことばかり考えて生きてきたから、自分を客観視した時に自分がバケモノになっているなんて気づきもしなかった。李徴ってこんな感じで虎になったんだろう。
自分は鬱状態なので、『ボーボボ』以外生き甲斐がないと思い込んでいる自分にとって、ここを否定されることは死活問題だ。生き甲斐が信じられなくなった自分には価値がない、生きる意味がないということに直結する。それに必死で抗うために『ボーボボ』の1番の理解者は自分だ! と主張したい自己があったのだろう。(もちろんそれは違うことは自分でもよくわかっているし、他にも実際「有識者」を語るような人はTwitterにもよく見受けられるし、こういう感覚は誰でも持ち得るものであると思うのでこの気持ちを持つくらいは許して欲しい……ごめん……)
こういう反応を激しく示した例が勉強していた中でもあった。『ユリイカ 詩と批評2』(2005年)の武村知子「黄昏のハジケリスト 澤井啓夫『ボボボーボ・ボーボボ』の悲壮なたたかい」を読んだ時だ。(非常に面白い文章ではあるが、今回は自分が噛み付いたところと噛みついた理由だけを紹介するので、文脈の意図が取れてないだろとかそんな意味で言っていないだろという批判はまた今度にして欲しい)武村氏はここでこのように述べた。
この文章を読んでいる方々は私のブチギレポイントがどこだったかわかるだろうか。それは、『ボーボボ』が「クソマジメ」だということ、そしてその真面目さから『ボーボボ』含めた荒唐無稽が終焉を迎えてしまうということだ。
私はその時点で『ボーボボ』の意味不明さに価値を見出していたので、『ボーボボ』は真面目じゃないが!?!?となった。そしてましてや終わるとまで言われてしまったらもうキレるとかじゃなかった、認めたくないため拒絶した。そのために必死に理由を探してできたのが私の卒業論文だ。『ボーボボ』のギャグを一つ一つ全部数えて、その中で「ビュティ」がツッコミを放棄している点が多くあることを指摘し、その点において荒唐無稽は『ボーボボ』にまだ存在していて終わらない! と未熟な主張をした。現在は色々あってこの文章を受け入れられるどころか新しく信仰するようになっている。
私が感情的に喚くだけではただ泣いている私ができるだけなので、それを拒絶するには正当な理由を作らなければならないし、それを負うのは私の理性の役目だ。
呪術廻戦本誌(未確認)に対する反応に対する反応
ではここで今回の文章を書く発端となった世間の呪術廻戦に対する反応を見てみよう。
まずは感情の私に出力させて欲しい。お気持ちで不快なので読み飛ばしていただいて構わない。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!!!!!!!!!黙れ!!!!!!!!お前らは片時も離れることなくずっとボーボボのことを考えてきたのかよ!!!!!バズ狙いでボーボボの上澄みだけを巣喰って来たくせに有識者ぶってボーボボはロジカルだの澤井は計算してるだの呪術は正統後継者だの抜かすんじゃねぇよ!!!!!!!ソースは!?!?澤井がそう言ったんか!?!?!?『ボーボボ』の良さは理論立てられたものじゃなくて意味不明さじゃないのかよ!!あれがロジカルで生まれているとするならばそれって荒唐無稽の終わりだよ!!!!まだ読んでないですけどTwitterで流れてきた画像だけでもボーボボの正統なコピー品という割にはだいぶ粗がありましたよ!?!?全然モノにできてないよ!?!?!?
所詮みんなバズれる内輪ネタくらいしか思ってないくせによってたかってなんだよ!!お前たちが連載当時同じくらい『ボーボボ』と向き合ってたらボーボボは今でも続いてたんじゃねぇのかよ!?!?終わったあとウダウダ自分は知ってましたってツラしてほんとにふざけんじゃねえよ!!!!!!!あと同人界隈には芥見よりよっぽどボーボボのコピーができている作品を出している人もいますよ!?!?!?!?!?あなたたちが芥見のことしか知らないだけでしょう
私が知らなかった連載当時の『ボーボボ』を知ってて羨ましいよ。当時から読んでるだけで有識者とか自分で名乗っちゃって羨ましいよ、自分はまだ有識者になれないよ。澤井啓夫の気持ちを知ったように話せて羨ましいよ、自分にはそんな勇気はないよ。あと作者の人そんなこと考えてないと思うよ。
落ち着いて噛み砕いてみよう
と、感情に任せて怒ること、憎むことはいくらでもできる。
実際「これは『ボーボボ』では!?」と主張する人、それに同意する人が一斉に現れた作品が世に出たというのは興味深い事実だし、『ボーボボ』らしさと言える代物を私が真面目に勉強するより先に、(それが正しいかどうかは置いておき)たくさんの人々が自分で答えを出していたということも事実のようだ。それは今後の研究の上で検討していかないといけない。
それに気持ちに任せて非難したいがためにツイートを引用するなんて人間性が死んでいる。強い言葉を使ってしまったため非難に見えるが、これらのツイートに私がすべきは非難ではなく批判である。非難して彼らの意見を弾圧することは私の意図ではない。今後の『ボーボボ』研究のためにここに残している。
正直この怒りには自分が全くマークしていなかったところから『ボーボボ』が出てきてしまって研究とか言ってるくせに全然網羅できてないじゃないか、悔しい、あとこれから呪術廻戦1から読むのか時間もないしあんまり興味が湧きそうな話でもないんだが、いう怒りも強い。
一旦落ち着いて、自分が呪術廻戦は『ボーボボ』ではないと主張する理由について考えてみよう。
多くの人がTwitter(現X)で述べていたが、どうやら呪術ボーボボ回(呪術廻戦242話、今回盛り上がった回を以下ではこのように呼ぼう)には「ビュティ」的な存在はいないらしい。その点において武村のことを思い出すなら、芥見下々氏は「クソマジメ」ではないのだ。氏は自分の放つギャグに対して恥ずかしさも何もなく、これこそが答えだという絶対的な自信を持っているのではなかろうか。また、Twitterにおける画像だけでも、ギャグも何もない、白背景に文字だけのコマが見受けられる。『ボーボボ』は短いページを毎週走り抜けるため一コマにガチガチに情報を詰める、まさに毎週ハジケきる必要があったので、この表現は『ボーボボ』とは一線を画す。情報を入れる必要がないコマが芥見の漫画にはあるのだ。白いコマを入れるほどの週刊連載に対する余裕が芥見にはある。それが澤井啓夫のハジケと同じものとは私には思えない。
少なくとも以上のことから呪術ボーボボ回は正統な後継者ではなくオマージュ作品の、悪く言えばパロディの一種にすぎないと考えられる。
だが、そのようなあり方は肯定的に評価もできる。武村知子によればそのような姿勢が荒唐無稽の終焉を示唆するように見える(という意味で私は取った)と言う。だが、ツッコミのいない呪術ボーボボ回はその荒唐無稽さに対するツッコミを読者たちに託しており、その点において荒唐無稽は終わらない。『ボーボボ』が始まってもう20年経ってしまっている。もう新しい形のギャグマンガが(呪術廻戦をギャグマンガと呼ぶべきかどうかはさておき)出てきてもおかしくはない。呪術ボーボボ回は、もはや『ボーボボ』がパロディされるほど過去の作品になってしまったことを暗示し、ギャグの終焉を一度終えた上で新しいギャグのフェーズを始めたのではないか。過去アニメ過去作品ばかり擦り続ける世間に声を上げたのではないか。
武村知子の文章の中には、『ボーボボ』とは、『ドラゴンボール』や『聖闘士星矢』のような正統ジャンプバトルもののことを「好きで好きで大好き」な筆者澤井啓夫が「ムダな熱さ」を持って描き出した澤井流の王道ジャンプ作品の続編なのではないかと述べているように取れる表記がある。その熱い展開を自分で繰り広げることに、照れてツッコミを入れてしまうのが澤井啓夫だというのだ。
それを踏まえるなら、『呪術廻戦』は『ボーボボ』のことが好きで好きで大好きな芥見下々が、その続編を夢見て自分で続編を描き出してしまった作品なのかもしれない。今回の呪術ボーボボ回をもって、とうとう『ボーボボ』は週間少年ジャンプの正統な漫画の系譜に組み込まれたのだ。だとすれば、それを喜ばないのはファンとして名折れだ。私が過去に縋っている間に新しい時代が来たことを祝福しよう。ありがとう芥見下々。でもやっぱり今から呪術読みたくないよ。
まとめ
なんで自分は世間の反応が許せなくて怒って恨んで憎んでしまったのだろうか。
①自分にとって自分が信じた『ボーボボ』というのが自身のアイデンティティの形成に非常に重要だったため、新しい『ボーボボ』の解釈が出ることや、自分と違う解釈が出ることは自身の根底を揺るがす事態であり、生存の問題に関わると考えたため反抗する姿勢をとってしまった。
②自分が『ボーボボ』と長い間付き合ってきたという自負があるので、四六時中『ボーボボ』のことを考え来たのは自分しかいないはず、それをしていないのに『ボーボボ』を語るなという傲慢さがあった。実際語っている人々が四六時中『ボーボボ』を読んでなかったという証明が私にはできない。
③上記から『ボーボボ』の有識者やファンを名乗る人々が次々バズることに、世間がそれに同調している、私が誤っていると責めていると勘違いしてしまった。実際その人たちのバズ意見には主観でそう言った以外の根拠がなく(というかそれがツイートというもので)、澤井啓夫が言っているわけではないので一意見として受け止めるべきだった。
④自分の知識不足や、呪術廻戦にマークをできていなかったことが悔しくそれを認めたくないがために外部に当たってしまった可能性がある。あとこれから呪術を参考文献として一から読まないといけないのがダルい。
以上のことから自分は激昂したのだろう。
ただ私はまだ呪術廻戦該当回を読んでいないし(読んでないのにここまでお気持ち表明できるの怖……)、意見がたくさんあるから、いいねがたくさんついたからと言ってそれが正しい意見とは限らない。今後もボーボボ回が続くかは来週の話であるし、いつか芥見下々氏にインタビューしてどこまで氏が『ボーボボ』に影響を受けているか聞いてみるのも面白いかもしれない。このことを澤井啓夫がどう受け止めているのかも気になるが、頭の中の千代ちゃんが私に声をかける。
「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」
私は研究のための資料が増えたことに喜ぶべきだろう。
追加:あれはボーボボでした
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?