BOOK PARK CLUB広島編に行って
1.記事を読んだ
僕がこのイベントを知ったのは中国新聞の記事によってだった。同居している祖父が中国新聞を取っていて、いつも祖母や母が回し読みしているのだが、時々、母が気になった記事について、僕に紹介してくることがあるのだが、今回もそれだった。母に紹介されて、このイベントの記事を読んだ。
笑顔を称えた優しそうな人の写真が大きく掲載されていた。それが、仕掛け人だった。今田順さん(34歳)、ブックキュレーターを名乗っていた。ブックは本だけど、キュレーターって、何だろうって、思った。
美術展で、何をどう展示するかを監督する人のことをそう呼んでいた気がするのだが。ということは、本の展示を企画・実行する人みたいな意味なのだろうか?新しい職業を自称する人たちが続々と登場する現代に、また妙なのが現れたのか?
僕は疑問に思いながら、記事を読んだ。どうやら期間限定のpop up書店をやるみたいで、今回は、去年に引き続き二回目だと。何でも、中国・四国地方の独立系書店と個性派の出版社が一堂に会し、広島のParco6階の催事で本との出会いを演出するみたいだった。
※ちなみに、調べた所、一回目も同じ場所で行われていたようだ。今年は、どうやら福岡でも同じ企画がParcoで開催されている。以下の情報サイトを参照されたい。
https://fukuoka.parco.jp/pnews/detail/?id=25256
企画の理由には、どうも広島のParcoにあった尖った本屋リブロがなくなったことがあるそうだ。人が新しい本に出会いこと、人と人とが集って、本について語り合う場所。そういう出会いや場所をもう一度作り直すこと、しかも、pop up書店という形で作り直すこと。
これが、目指していることのようだった。
https://libroplus.co.jp/libro/
また、広島人100人が選ぶ「作る私を作った本」も合わせて展示。仕掛け人が登壇するトークショウもやるみたいだ。記事ではない小さい広告には、ポスターのデザインが掲載され、同じ内容でも、より重要なことに絞って、書かれていた。
僕は本を読む方だと思う。
でも、高校三年生までは、本読みではなかったし、小学生の頃は本を読むのが苦手な方だった。周りの人の言葉を理解するのにも苦労していた僕にとって、人が書いた文章を追いかけて、ひたすら意味を拾い続けるのは、当時の僕にとって、苦痛以外の何物でもなかった。
では、高校三年生の時に何か本との出会いがあったのか?
そうではない。ただ、僕は一人になりたかったから、本を読み始めた。何もせず、一人でいるのは、人によっては辛いことだし、疎外感を抱えたままで、時を過ごすことになる。僕がそうだった。だけど、本は一人の時間を潰してくれたし、居場所を与えてくれた。
だから、僕は本を読むのが好きなのだと思う。今では、自分の好奇心に任せて、ジャンルを問わずに読んでいる。だから、自分の趣味や趣向をある程度は把握してもいるし、選書の目も肥えている。
最近は、書店に立ち寄っても、あまり琴線に触れる本が無くなっている気もしていて、どちらかと言うと、図書館の古くかび臭い本たちに惹かれ始めめていて、てんで書店に行かなくなってきていた。
そんな僕だから、独立系書店や個性派の出版社が一堂に会することを知って、胸が躍らなかったと言えば、嘘になる。どんな本との出会いがあるのだろうと思った。できれば、これまでの僕の本の趣味・趣向を破壊し、拡張してくれる本と出会いたいと思った。そんな期待感が僕の心に芽生えた。
2.初期の批評
それから、少し冷静に、イベントについて考えた。
今の時代、人々が本を読まなくなってきている。出版業界も縮小傾向で、特に、雑誌の売り上げが下がり、近年は、電子市場の開拓もあって、横ばい傾向だが、多くが電子コミックの売り上げだ。ただ、ベストセラー本が出ると、販売額が変わってくるみたいだ。
そんな中、pop up書店に置いてあって、紙媒体で、闇鍋風で、マニアックだったり、中身が想像できそうでなかったり、読むのに苦労したりするような本は、特に敬遠されるだろう。だけど、このイベントは、真っ向から勝負を仕掛けてきている。広島市内のParco六階に魔界を作り出す。
いやはや、大胆過ぎる。
これが、本屋リブロの思想なのか?
本が人と人とを媒介する。それは、僕も経験したことがある。友人や家族と、一緒に読んだことのある本について語らったことが。ハイライトを振り返ったり、感想を言い合ったり、様々な角度から考えたり、そうして、本の理解を深め、お互いへの理解を深める。良い経験だ。
その、少しプライベートな交流を、もっと多くの人とできる広場があれば、と思うものだった。
だからこその、広島人選書であり、トークショウなのだろう。最近はインターネットやSNSを、本の交流の場にするものもある。だが、実際に、人と人とが同じ場所に集って、顔と顔、身体と身体を向き合わせ合って、紙の本を手に語り合うのとは、体験の質が変わってくる。
人と人とが会話する時に重視するのは、実の所、話された言葉より、声色や表情、仕草だし、その場の状況だ。
さて、ポスターのデザインだが、これは、どういうことか?
赤地に、背が緑の本と黄色の衝撃に二つの目が点いている。つまり、本が生きているし、衝撃が、多分、本との出会いの衝撃が生きている。本は印刷されたならば、もう完成し、動くことのない彫刻と同じ状態になるはずなのだ。だが、生きている。
もう一度問う。これは、どういうことか?
今回のイベントのことを思えば、ツチノコのような本との出会いが想定されているのだろうし、そして、本を手に取る我々が、あたかも本が生きているかのように感じる体験があり得ることを示唆している。
人と人とを繋ぐ、人の発想や考えが記された本という生き物なのだ。衝撃は添え物的に、合わせ、画面を埋めるために置いたようだ。
正直ダサい。ダサいよ。
中学校には技術の授業があった。技術の授業では、パソコンを使った授業もあって、色々なことをやった。多分、今の中学生がパソコンで自分なりのポスターを作る課題を課されたなら、もっとマシなデザインのポスターを完成させることだろう。
なんだ、このやっつけ仕事は?
経費や人員、時間や労力等のリソースの不足によって、ポスターのデザインがレベルの低いものになったのかもしれないが、これは、酷い。去年の会場で撮影した写真の方がまだマシだっただろう。
そう、誰でもいいが、イベントの会場で本を手に取って、顔を少しほころばせている、好奇心をくすぐられている、本と出会っている瞬間を描ければ、何だって、良かったはずなのだが、どうした?
いや、あまり酷評するのは止めにしよう。
後、独立系書店や個性派の出版社にとって、Parcoにとって、どういう意味があるのか考えてみた。
独立系書店や個性派の出版社にとっては、自分たちの存在をアピールして、新しいファンを作るチャンスでもあれば、横の繋がりを作るチャンスでもある。
奇書、珍書を扱う書店や出版社は、一度ハマると病みつきになること間違いなしだし、横の繋がりは、本を提供する側にとっても、世界を広げたり、流通の幅を広げたりするチャンスだ。イベントに参加しない手はない。
Parcoにとってはどうだろうか?少し、話の先取りになるが、煌びやかなファッションの店だったり、映えるお菓子屋さんだったり、若者向けの印象が強いParcoに、突然、魔界を開くこと。
もはや映えなケーキにゲソの足を突っ込むような所業だ。若者たちの頭をぶち抜いて、多世代を呼び込むチャンスになりそうだし、文化センターとしての役割を果たし、地域貢献をすることにもなりそうだ。
さて、僕は記事と広告を見て、読んで、ぶつぶつと頭の中で考えるのを止めて、母と一緒に、このイベントに出向くことにした。
3.行ってみた
母も本の虫で、近年は、暮らしの雑誌や本を読むことが多かったが、最近は、また小説を読んだり、教養本を読んだり、読書の世界に舞い戻ってきている。
色々と、忙しかったから、軽く読める暮らしの本を手に取っていたのだと思う。いや、単に、興味の向きがそうだったと判断すべきか?
僕は母の運転する自動車に乗って、広島市に出向いた。僕が自動車の免許を持っていないから、いつも自動車での移動では、母にお世話になっている。
その日は、午前中に、ひろしま美術館でミュシャ展を見た後、昼食をとって、イベントに向かうことになっていた。文化的な一日にしようと、二人とも前々から楽しみにしていたのだった。
ミュシャ展では美麗な絵を見た。マルチアーティストとしてのミュシャが展示を通して明らかにされていた。
本や雑誌の表紙や挿絵、ポスターや食器、装飾品や服飾のデザイン、カレンダーのイラストやお菓子のパッケージに至るまで、印刷技術の発展した都会的な生活の中で、ミュシャはイラストレーターやデザイナーとして地位を確立していったことがよく分かった。
ミュシャの有名な作品がポスターのものだったとは知らなかった。無知もいいとこだ。
少しだけ脱線して、深堀りさせて頂くと、ミュシャの有名な絵画の構図には訳があった。特に、ポスターの絵に注目したい。ポスターのデザインで、ミュシャは一つの完成をみたと考えるからだ。
枠を縁取り、装飾を施して、真ん中に美しい女の人を持ってきて、優美な曲線をふんだんに使い、服飾で着飾り、時には、おどろおどろしさも加え、見る者を引きつける役目を果たしたり、高揚させたりした。当時のポスターコレクターが垂涎したのも分かる。
そうして、ミュシャ展を堪能した後、昼ご飯をとった。チェーン店のうどん屋で、安いうどんをちゅるちゅる食べて、腹ごしらえした後、Parcoに向かった。
商店街の通りを抜けて、Parcoに向かうと、玄関先にでかでかと、あのダサい広告が張り出されていた。もっとどうにかならなかったのか?僕はミュシャ展を見た後だったから、うんざりした。
母にそれを指摘すると、母は苦笑い。それよりも、母は一階の玄関にできている行列の方が気になっていた。
どうも映えるお菓子屋さんだった。リンゴ飴を売っていた。若い女の子たちが多く、楽し気に友人たちと会話していた。僕は彼女たちを見ながら、高校時代の貧困について思い出していた。
友人たちとどこかに出かけたり、買い食いしたりするようなお金はあまりなかったし、そもそも友人というものがほとんどいなかった僕には、眩しい限りだった。
Parcoの中に入った。僕は初めてだった。エスカレーターで、上階に昇り、6階まで辿り着いた。エレベーターの出入り口付近に、広告紙が置かれていて、BOOK PARK CLUBの広告紙もあった。
僕はそれを手に取り、母と会場に向かった。途中、メンズファッションの店先で、店員さんが押し強く声掛けをしてきたのが、辛かった。僕は押しの強い人が苦手だ。
会場に辿り着いた。会場は空いているテナントのスペースを使っていた。端の方にあるテナントだった。最初に、ざっくりとイベント会場の説明をさせて頂こう。
正面向いて、右手と左手の手前に一本ずつ柱があって、それを囲むようにして、右手の方には背の低い棚が二段作られていて、本が置いてあった。もう一つの方は、同様に背の低い二段の棚が作られていて、本ではなく、後で分かったことだが、リソグラフが置いてあった。
中に入ると、中央のスペースは机が幾つか置いてあって、本がこんもり置かれていた。机を拠点にした本の島ができているようなイメージだ。
中のスペースの右手よりには、プラスチックの本を斜めに立てかける移動式の棚が置かれていて、一冊一冊が表紙を上にして、置かれていた。それは、右手の壁と正面の壁も同じだった。
左手の壁側には、こちらも後で知ったことだが、人が座って、作業をする背の低い机が置いてあって、リソグラフを作るワークショップのスペースになっていた。
机から入口の方にはコピー機があって、奥の方には、壁にリソグラフの用紙と思われる紙が壁に掛けられていて、その先にはレジが、正面に向き合うようにして、ポツンとあった。
僕は、右手の柱から目を添わせていった。柱を取り巻くようにして、背の低い二段の棚があり、本が置かれているのだが、一つ一つの本に与えられているスペースが広く、本が、ファッション店の店先の服のように、ディスプレイされていた。
僕は、その中で、『天才たちの日課 女性編 自由な彼女たちの必ずしも自由でない日常』(メイソン・カリー著、石田文子、金原瑞人訳、フィルムアート社、2019年)に目をつけて、少し本の中身を読んだ。僕に創造的な趣味があるからだろう。
http://filmart.co.jp/books/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8D/daily_rituals_women_at_work/
どうも天才たちの日課を取り上げる二回目の取り組みのまとめで、前回、歴史的な偉人の日課を取り上げたが、男性に寄ってしまったし、それらの男性は、仕事、昼寝、散歩といった、日常の雑事に囚われない、有閑階級的な生活をしていて、描けなかったことがあったとのこと。
つまり、創造的な仕事をしている女性の姿、そして、生活と仕事の間に引き裂かれたり、葛藤したりする、創造的な人物たちの日常を描き出そうとした本なのだそう。その反省を生かして、本書を考案し、出版するに至ったとか。
僕は初めの方から二人程を立ち読みした。オクテイヴィア・バトラー(作家)と草間彌生(芸術家)について書かれた文章だ。どんなことが書かれていたのか?
前者の方には、共感する所が多かった。ある映画を見て、私の方が良いものを作れると確信し、小説を書き続け、様々なアルバイトをしながら、早朝に起きては、執筆をする日々。
今では、朝に集中的に執筆した後は、好きな音楽を聴いたり、ぼーっとしたりしているらしく、家族には、そんな生活を心配されたりすることもあるけれど、それも、自分らしさだと思っているらしい。
どんな所に共感したのか?
僕も小説を書いている。今は、正直、批評や思想ばかりに精を出して、小説を放り投げているが、構想だけは練って、完全には投げ出していないフリをして、誤魔化している。
小説を書き始めた理由は、就職や大学院の受験からの逃避だった。そして、多分、僕にも自惚れがあった。失礼な話だが、芥川賞を受賞した『コンビニ人間』(村田沙耶加、文芸春秋、2016年)を読んで、僕の方が良いものを書けると思ったことがある。
※僕が作品について偉そうな態度を取れたのは主人公がASDだとの切り口による。それを、物象化論と組み合わせたら、『コンビニ人間』的な作品が量産可能だと判断したからだ。本当に、申し訳ない。
それに、僕も今はフリーターで、アルバイトをしながら、文筆で生活費を稼ぐ夢を持っているのも確か。しかし、不安定な状況の中で、アルバイトをしながら、執筆を続けたその精神力には恐れ入る。
好きだから、できたことなのだろうか?僕は、小説の執筆が好きか?
まだ分からない。ただ、書くことにとり憑かれているのは、確かだ。僕は毎日文章を、文字を書いている。それを、止めることができないでいる。書くことは祈りにも似て。
僕にも、呆け癖というのがある。多分、過集中の反動なのだろうと推察する。創造的な仕事には、過集中を伴う場合があって、その分の休息が必要になる人がいる。
また、休息している時のデフォルトモードネットワークが、記憶の整理や創造性に関わっていると分かっている今日、戦略的な呆けというのが考えられる。最近の僕は詰め込み過ぎているので、戦略的な呆けが必要だ。
草間彌生の方は、逆に、共感できなかった。幼い頃から、幻視や幻聴に悩まされ、生涯、通院と入院と付き合ってきた彼女は、今も、病院で入院しながら、目と鼻の先のスタジオで、朝から晩まで仕事をしているらしい。
僕には朝から晩まで仕事をする気力などないし、そんな情熱を傾けられる対象も、情熱そのものもない。躁鬱的かつ抑鬱的な所を除けば、軽度の発達の特異性があるのみ。掬いとれるものはなさそうだと思った。
続いて、僕は、本の島の周りを回遊し始めた。そして、足元の木箱に、性やスキャンダラスな事情や、エロティックな事柄についての、本や雑誌の詰め込まれているのが見えた。
Parcoに、こんな本や雑誌が置かれている事態そのものに、背徳感があった。僕は少しじっと見た後で、目を背けた。僕にはリアル書店でエロ本や性にまつわる本をじろじろと見たり、手に取ったり、買ったりする勇気はないのであった。
それから、別の島に移った。そこで、僕は二冊の本と出会った。『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』(原武史、講談社学術文庫、2001年)と『アマテラスの誕生』(筑紫申真、講談社学術文庫、2002年)とである。
僕は手に取って、裏表紙に書いてあったあらすじを読んだ。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151107
前者の本は、近代日本の隠された思想史を描くもので、『日本書紀』や『古事記』、その他の書物を研究する国文学において、平田篤胤に端を発する思想史を追ったもの。
それは、アマテラスを主宰真とする<伊勢>系の主流派を形作ってきた思想に対置される、スサノオやオオクニヌシを主宰神とする<出雲>系の思想の系譜と歴史的な抹殺を追ったものだった。
どうやら近代日本の「国体」や「近代天皇制」において、<出雲>系の思想が抹殺されたらしい。
後者の本は、タイトルの通り、『日本書紀』や『古事記』に登場し、<伊勢>系の主宰神とされるアマテラスオオミカミの誕生を追ったものだ。古代日本においてあまねく存在していた太陽神が、いかにして、天皇の祖神とされたのかを描く本だそう。
原本はかなり古く、1962年のものらしい。僕が二冊をセットで出会ったのは、偶然ではなさそうだ。かなり深い繋がりのある二冊である。
そもそも僕はどうしてこの二冊に注目したのか?
僕が思想屋だからだ。思想屋?思想家は自分の思想を編むことをするが、僕の力量はまだ不足している。思想屋というのは、単に、思想マニアという意味に他ならない。
ただ、僕には知りたいことがあって、思想を学んでいる。マァ、全てを知りたいって、そういう、哲学的に興味のある青年なら持ちがちな情熱を持っているだけと言えば、そうなのだが。
さて、僕の回遊はまだまだだ。ふらふらと歩いていると、次に目に留まったのは、『JUTAKU:JAPANESE HOUSESS』(Naomi pollock、Phaidon Press Limited、2015年)だった。
デデンと書かれたタイトル、そして、縦じまが虹色に積み重なっていて、そこに、住宅が並んでいる、少し強烈な表紙が、目に入ったからだ。僕はその分厚い本を掴み、持ち上げ、中を覗いた。
中身は日本の地域別(関東や近畿など)に住宅が紹介されていて、愉快な住宅がかなりの数選出されていた。
例えば、鋭角でも、鋭すぎるケーキの形をした住宅。例えば、ケーキを横倒しにして、その上に、イスやら、木やら、人が遊べる斜面を擁した住宅。例えば、立方体を幾つも合体させた住宅。例えば、ピラミッドのような外観をした住宅など。
僕は思わず、吹き出してしまった。
日本の個性的な住宅が紹介されているだけの本なのに、これほど面白いのはどうしてだろう?きっと、単に人が住む場所としての果たすことが期待される機能以上に、遊びが重視されているからだ。外観が興味深く、そこでの暮らしも面白い。
僕はその分厚い本を置いた。僕は自分の懐事情と、その本への好奇心のレベルを加味して、買わないことにした。次に行こうと思った。
次に目に留まったのは、もはや名前も忘れ、インターネットでも、どう検索して良いのか分からない、あるアーティストの日記、または、創作メモだ。ほとんど詩に近く、大胆に大きく書かれた英語を見て、日記や創作メモって、こんなだっけと、首を捻った。
何故って、僕も日記を書いている、日記所有者だからだ(『未来日記』風に言って)。
僕が使っているノートはB5サイズのもので、大体、6mmか7mmのものを使っている。無遠慮に、無造作にノートを買いあさった時期があったせいで、少しラインの細かさにばらつきがある。
今は、基本、ボールペンでノートを書き、図を書く時だけ、鉛筆を使用している。日付を書き、違う日付になると一行開けて、びっしりと書く。その際、まとまった文章は書かない。書く時もあるけど、基本は、考えるために書いている。
確かに、他の人がどんな道具を使って、どう日記をつけているか、どんな創作メモを書いているのか、僕は知らない。今一度、僕も他の人の取り組みに目を向けて、日記のつけ方を見直すべきだろうか?
僕は本を元の位置に戻して、別の島へ。そこで、こちらを見ている視線に気づいた。もう放って置いてくれ、構わないでくれと訴えかけている、鋭い目をした赤ん坊だった。
それでも、どこか愛らしくて、そんな拗ねないでと、構ってあげたくなるようだった。近づいてよく見ると、彫刻だった。『Leave me alone』(山崎龍一、芸術新聞社、2009年)だ。この本は、彫刻家の山崎龍一の初めての作品集らしい。
https://www.gei-shin.co.jp/books/isbn978-4-87586-179-9/
現場では包装がされてあって、中身は見れなかった。だけど、強烈な印象を脳裏に焼き付かせた。これまで彫刻にあまり目を向けてこなかったが、だけど、これからは目を向けてみようかと思った。
それからは、ぶらぶらとしながら、例の『出雲』と『アマテラス』を買うかどうか悩んでいた。フリーターの懐事情のさもしさを甘く見てもらっては困る。
記憶に残っているのは、代わりに読む人という変わった出版社の名前、『ニャロメのおもしろ数学教室』(赤塚不二夫、新講社、2011年)と『原っぱと遊園地 建築にとってその場の質とは何か』(青木淳、王国社、2004年)くらいだ。
何だって、代わりに読む人なんて名前なんだ?代わりに読んで、解説してくれる動画配信者やブロガーが跳梁跋扈する世の中だから、こんな出版社も現れたのか?自分で読め。いや、登山だって、山のマップやガイドがいた方が良いとは思うし、本も?自分で読め。
ニャロメって、誰だ?確か、ある作品に登場する喋る猫の名前だった気がするのだが、どの作品だ?多分というより、絶対に世代じゃない。しかし、興味が惹かれたのは、やっぱり数学に未練を残しているのか?
僕は高校生の時、理系を選択しなかった。理系科目の方が得意だったのに、文系を選択したのだった。それは、理系のクラスに男子が多いことに依った。僕はホモソーシャルが怖かったし、苦手だった。そのために、今でも後悔している。
『原っぱと遊園地』は国語のテストの評論で出たことがある。遊園地は場所のモードや遊び方が決まっていて、遊ぶ人たちが創意工夫する余地がない。だけど、一定以上の娯楽性を保証してくれる。
原っぱはモードも、遊び方も決まっていないし、ゼロから色々と組み立てなきゃいけないし、娯楽性の保証がないが、創意工夫を凝らす余地がある。確か、そんな話だった気がする。正直、覚えていない。
そうして、時間が経って、母がそろそろ帰ろうかと声をかけてきた。僕は悩んだ挙句、例の二冊を買って帰ることにした。その時、リソグラフ作りのテーブルを横切ったが、何を作っているのか分からなかった。
レジで対応してくれたのは、ギャルだった。いや、偏見を助長するような言い方で申し訳ないのだが、ギャルだった。アゲアゲハッピーなメイクと髪型をしていて、こういう本のイベントに参加しているのが不思議だった。
いや、人は見かけによらないし、偏見もいいとこだ。
僕はそういう意味で頭をガツンと叩かれた気がしつつ、先に会計していた人の後ろに並んだ。僕の前の人が会計をしたのだが、5000円以上のお買い上げだった。しかし、その人が買おうとしていたのは二、三冊。
どうやら画集か何か、高価な本を買ったようだった。本の値段はピンからキリまである。僕の買おうとした二冊の合計金額は800円ぽっきりだった気がする。安上がりでよござんす。
僕はおずおずと二冊を差し出して、会計をしてもらった。僕は社交的ではないので、店員さんにもビクビクする性質だ。向こうも向こうで、事務的に対応してくれたので、ホッとした。
いや、日本の接客とは、良しにつけ、悪しきにつけ、そんなもんだ。でも、それで、助かる人もいるのだ。僕は会計を済まして、母の所に戻ろうとした。すると、コピー機がうんうん言っていたので、そちらを見た。
コピー機の前には、他の店員さんが二人ほどいて、その日のその時間帯は全て女性の店員さんだと分かった。こういう性別で人を見る習慣は身に沁みていて、頑固な汚れみたいだ。
コピー機で何かを印刷しているらしく、来店した客と店員さんたちが談笑していた。そして、その店員さんたちはギャルではなかった。おばさまたちだった。いや、だから、何なのだ、という感じなのだが。
僕は母とイベント会場、そして、Parcoを後にした。商店街を歩く。商店街には古本屋があって、中には人が入っていた。相変わらず古本屋らしく、古い本がどっさりと置かれ、詰められいて、僕が愛してやまない異世界が作り込まれていた。
だけど、僕らはそれを通り過ぎて、自動車を停めた駐車場まで歩いた。本屋が街からなくなる寂しさを想うと、確かに、辛いものがあるなと、ちょっと感傷的になった。
4.批評本編
さて、体験談を語り終えて、僕らしく、振り返りでもさせて頂こうと思う。まずは、BOOK PARK CLUBに感謝を。僕は十分に楽しめたし、新しい出会いもあった。新たな本を見つけ、新たな自分を見つけることができた。人との交流はどうだろう?
その辺も含めて、以下では、イベントの批評をさせて頂く。おこがましくはあるが、癖なので。
BOOK PARK CLUBを実行に移すのは大変だったと思う。まずは、企画を立案して、協力者を探さなければならない。この際、個人的な人脈を頼ったのかもしれない。
本人がカフェ併設の書棚を管理していた経歴があるらしいから、そこで培った伝手があったか?しかし、実行委員会はどういう人員と体勢で組まれていたのだろう?不明点が多い。
場所を確保するために、Parcoに連絡。場所代が必要だっただろう。催場を借りること自体は、それほど難しいことではなかったかもしれない。Parcoに相応しくないと判断されるようなイベントでなければ。
独立系書店や個性派の出版社への連絡とイベントへの参加取り付けはどうだろう?一回目が最も大変だっただろう。ただ、広島編二回目でも、新しく開催された福岡編でも、新規開拓もしたはずで。
全体の予定を立てて、具体的な段取りを決めなければならなかっただろう。それは、各地の書店や出版社がどう本を運び入れるか、そして、それぞれが現場のどこに出品するのかも決めなくてはならなかっただろう。
現場を見た限り、机や棚、イスやコピー機等、運び入れなければならなかったものは、本以外にもあったと考える。
BOOK PARK CLUBの基本を抑えた後は、イベントの娯楽性を高めなければならない。
例えば、広島人100人による選書、ワークショップ(リソグラフ、本棚作りなど)、例えば、トークショウ(学者、芸術家など)、その他、付加的なイベント。ここの、予定立てと段取り決め、実行も手を焼いたはずだ。
広告も頑張っていた。SNSやインターネットで発信し、複数のメディアに取り上げてもらった。
僕も、中国新聞が取り上げて、母がその記事を読まなければ、イベントの存在さえ知ることのないまま、通り過ぎていたことだろう。そして、酷評してしまったが、広告ポスターも作って、人を惹きつけようともしていた。
政治的、経営的な手腕には驚かされる。社会人としての真っ当さを見せつけられている気がして、僕は少し、いや、かなり憂鬱だ。
僕も、大学生の時に、ゼミ長をやっていたことがあるが、そこまで大変ではなかった。今も、フリーターをやっている身なので、こうした能力を発揮し、研鑽していく機会がない。ほんとあっぱれだ。
ただ、色々と忙しい中で、資金や労力、人員や時間といった全体のリソースをどのように分配するかにおいて、純粋に達成しようとした機能が多かったためか、ポスターのデザインを含めて、アートへの配慮が少し足りないと感じた所があった。
いや、それにも、理由があってのことかもしれないから、今からは慎重に言葉を運んで行きたい。
リソグラフ作りや本棚作りなどのワークショップは良い。学問や現場でアートに関わっている人を呼んで、話をしてもらったのも良かった。仕掛け人も出てきて、本が人と人を媒介し、本の読みが深まるのを、公共の場で実践してみせたのも、良かったと思う。色々のきめ細やかな配慮を感じた。
だけど、僕が気になったのは、繰り返し指摘して申し訳ないが、BOOK PARK CLUBの広告デザインもそうだが、現場の展示の方法だった。
そもそもキュレーターというのは、政治的、経営的な手腕も問われるものだが、どの作品をどう展示するかにも配慮しなければならない。そうして、作品一つ一つを大切にし、作品を鑑賞する場全体を形作り、結果として、その場を体験した人たちが、作品に触れ、その機会に感謝し、その場に来れたことを喜べなくてはならないと思う。
つまり、その場の体験を、どのように豊かにするかに目配りをする必要があるし、どう実現するかについて苦心・苦慮する必要がある。
はっきりとここで苦言を述べさせて頂くと、僕と母の間で意見が一致しているのだが、イベントの見た目や雰囲気がしょぼかった。地域の公民館で、地元の人たちが自主的にやってる取り組みみたいな(地域の皆さん、ごめんなさい)。
あれは、ない。
まず、考えるべきは、Parcoのモードである。
Parcoは広島市内の本通りの近く、商店街に隣接した場所にあって、一階には、現在、映えなリンゴ飴を売っているお菓子屋が入っていて、都市的で、ハイカラで、流行を生み出していくような場所に思える。中に入った時にも、若者向けファッションのテナントを見て、同様に感じた。
では、Parcoのモードが一体なんだというのか?
『原っぱと遊園地』を思い出してもらいたい。場所のモード、場所がモードを持っているということは、その場所がその場所に来る人々に対して指定する、体験の枠組みがあるということだと考える。
人々は知らず知らずに、場所によって、体験の仕方を決められている所があるということだ。Parcoの中でイベントをやる意味はそこから考えられる。たまたま使えるスペースがあったからでは、アートへの配慮はない。
広告のデザインは現代アート路線だったのかもしれないが、Parcoは玄関に貼ってあったのを見た時、違和感が強かった。
ミッフィーの、目がバキバキになる色遣いで、子どもの手遊びで作ったようなデザイン。Parcoのモードに合わせに来ているのか、それとも、モードを破壊しにきているのか?そもそもデザインとしての力がない。
アートとしてのコンセプトは多少分かるが、それだけ。
現場に行くと、Parcoのモードに合わせたように、整然と、たっぷりのスペースをとって、本が展示されている場所があれば、ごちゃごちゃと、古本屋から書き出してきた本の山があるスペースがあり、リソグラフはその中間的な位置づけでそこにあった。
これに、どんなコンセプトの実現を見ればいい?
本当のカオスとは、カオスと秩序が無造作に混在している状態なのか?僕は少し唖然とした。
持ち込めた展示する棚(広義の本を配置する道具)の数や種類の限界か?はたまた、それぞれの書店や出版社への場所の割り当てや配慮によるたわものか?そもそもキュレーターとして現場の展示の方法を専制的に指示できる立場になかったか、それとも、あまり関心がなかったのか?
例えば、Parcoのモードに合わせるなら、全て、本を芸術作品のように、たっぷりとしたスペースをとって、置くべきだった。
それだと、置ける本の数が少なくなってしまうなら、棚の数を増やし、棚は棚でも、置ける本の数が多い種類の棚を用意し、置き方を工夫し、期間内に、本の多少に入れ替えを行うなどの努力ができたはずだった。
せっかく柱周りに本を置く発想があったのに、腰から下の二段だけ。もっと何段もあったらよかったのにと思った。夢の平置き(斜め置き)スペースが並ぶのは壮観だっただろうと思う。
また、棚は棚でも、柱の周りに作った棚のように、パイナップル型の棚を空いたスペースにも持ち込んで、バベルの塔のように、本を並べるのも良かった。そうして、いかにもハイカラで近代的な場所を作れたら、どんなに良かったか。
または、Parcoに古本屋の特有の本がごった返した状態を作り出し、紙の匂いをぷんぷんとさせ、外見重視のインスタ精神に反逆する、中身重視というよりかは、中身が溢れて、落ち着かない場所を生み出せば良かった。
広告も、ハイカラ路線の広告を修正案として先に提案したが、古本屋路線もあり得た。ただ、最近では、昭和映えが流行っているそうではないか?エモいが狙えたのでは?
ギャルたちに怒られそうな誤用かもしれないが。
しかし、僕の本命はParcoのモードに合わせることでも、古本屋をモデルにしたモードへの反逆でもない。第三の道は、昭和映えのするエモい喫茶風を先に示唆したが、それは、古本屋モデルを少しずらしたもの。僕は昭和映え路線と、前衛芸術路線を提案したい。
前衛芸術路線もまた、Parcoのモードに合わせる時に、モードの読み取りや実現について、射程を少しずらしたものにはなる。だから、本当は、第三の道と峻別できるものでもない。
だって、文化や流行の発信地なのだから。
さて、昭和映え路線は僕の知ったことではないので、昭和映えで検索していて欲しい。前衛芸術路線のことだが、期待しないでくれ。マァ、とりあえず素人の僕が考えたアート的な何かについて書かせて頂くよ。
今回のイベントはアートへの配慮が足りないと口にしてきた。そして、Parcoのモードから考え、現場の展示法について批評してきた。だけど、本題は、モードというのは目的があってのものだ。
つまり、大事なのは、今回のイベントが人と人との交流や新たな本との出会いを演出する目的の下に、開催されていることだ。
アートへの配慮とは、コンセプトを明確にし、コンセプトを強く打ち出すこと。打ち出す際に、モードや展示法などへの配慮を欠かさないこと。そして、実現の際に、どこを妥協して、どこを妥協しないかを考えることだ。
僕が提案するのは、人と人とが交流する仕掛け、本棚アート、そして、本との出会いを演出する仕掛けだ。
人と人との交流を生み出したいのなら、その仕掛けをもう少し増やすべきだった。例えば、本マイスターを配置する。一人か、二人か常駐させて、対話する中で、本マイスターが来場者にぴったりの本をお勧めする。
例えば、初歩的なのだが、掲示板を設置して、来場した人たちがコメントを残せるようにする。美術館の展示によっては、時々見かける単純な仕掛けであり、意外にも熱心に、来場者たちは自分たちの感想や痕跡を残していこうとする。
本マイスターはマイスター個人の力量によるので、実現に困難が伴うだろう。掲示板は容易に実現が可能で、来場者の満足度を上げることができたと思う。これは、すぐにでも取り入れられる仕掛けだろう。
後は、怪盗カードとおすすめカード。おすすめカードについては、広島人100人でやっていたから、特に、提案でも何でもないが、来場者が、自分の知っている本に、お勧めカードを残せるようにしたらと思った。
面白いかと思った程度で、実際の所、あまり役に立たないと思う。
怪盗カードは、本があった場所に、買って行った人が、どんな本が置いてあって、自分は何故それに興味を惹かれて、手を取るに至ったかを残しておくというもの。
こちらも、ちょっと、趣向としては凝り過ぎている気がする。掲示板に、来場したコメントを残すくらいで十分だろう。
結局、中身のある提案がコメントを残せる掲示板だけなのが残念だが、大人たちが知恵を絞ったら、もっと良いアイディアが湧いてくるだろう。実行委員会の方々に期待。
本棚アート。インターネットで検索してみたけど、上手く見つけられなかった。前衛的な本棚作家さん、一体、どこにいるの?僕はあなたの作品を今猛烈に必要としているのに(自分勝手過ぎて、笑える)。
いや、安心してくれ。僕のアイディアもあるから(いや、余計安心できないわ)。でも、重ね重ね伝えておくけど、僕は素人だからね。期待しないで。そうだ、本物のアーティストが作ってくれよ。
例えば、お椀状の祠がボコボコボコと下から泡にように積み重なっていて、その祠の中に、何冊の本が生息しているという本棚。今回のポスターのデザインで、本が生き物にされていたから、本が生き物として、どのような場所に生息しているのかを考えた結果だ。
さて、他には、どんな場所に生息しているだろうか?
今度は本の刑務所。いつも僕は本屋や図書館に行くたびに、本が罪を犯して、収容されているような感じがしていた。仮釈放の生活と刑務所の生活を行き来しているようなイメージだ。
そして、読む人と出会えなかった本はそのまま刑務所の中。だから、本棚でも、本が整理番号付きのケージに閉じ込められているという本棚を置いてみる。本がチラ見えして、全部見えないのも高得点だろう。
後は、ピラミッドを置く。それと重ね合わせる形で、逆さにしたピラミッドを、45度回転させた後に合体させる。砂時計を形作る。時間を直立させたり、逆さにしたりするイメージ。本は時間に通じているから。
そして、ピラミッドたちは、東西南北、北西、北東、南東、南西、そして、天空に向けて、地下に向けて、面を備えているから、空間もさえ司っている。本が住むにはうってつけの古代建築だ。
合体ピラミッドの本棚には斜めに本を収納する。本が半分顔を出し、外の様子を伺いながら、半分は身体を隠しているというような。
こいつらは、風雪に耐えたり、むやみに扱おうとする人を忌避したりしながら、生活をしている。しかし、手に取ってくれる人を待ち望んでもいる。彼らは彼らを知って欲しいのだ。僕たちはそんな彼らと出会う。
後は、これらの派生形を幾つか考えた。まずは、海底の生態系をイメージして、サンゴの中に揺蕩う本たち、という、本棚というより、本が住まうオブジェ。
次に、本たちにモフモフの生地のリクライニングソファを用意した本棚。そして、プラトンの正多面体で作った本棚である。最後に、本が飛び出してくる本棚。これは、取り扱い注意。
さて、本と出会うギミックについて考えると、単純に、くじ引きを考えてしまう。くじで本を買う。本との出会いに確立や運を差し挟むのだ。悪くない。
後は、本の自販機、本たちを乗せた電車が動くプラレール。プラレールの上には、本の紹介ポップだけで、それを手に取って、店員さんの下に持って行くというのもあり。その程度か。
ただ、何度も言うが、様々なリソースや配慮によって、実現できなかったアイディアや企画は多かったと思う。仕掛け人や実行委員会の無念は、計り知れない。
なので、あまり僕の批評を真に受けないでもらいたい。仕掛け人と実行委員会、並びに、携わった人たちの苦労を思って欲しい。そして、重ね重ね感謝して頂きたい。
いや、感謝しろ。
批評は終わり。長々と好き勝手書かせて頂いたものだ。
5.全て終わって
本論の全体としては、イベントを知り、体験したこと、そして、それらへの批評を書かせて頂いた。僕が今回の体験談を書いたのも、ひとえに、イベントが楽しかったからだ。だから、色々といちゃもんや難癖を付けさせて頂いた。
それに、今の僕はBOOK PARK CLUBに行ったお蔭で、大いに助かっている。『出雲』を読み切り、『アマテラス』を読んでいる途中だが、それによって、僕の思想的な展望が開けてきた。
思想屋の思想的な展望なんて、何の役にも立たないが、僕個人は嬉しく思っている。また、他にも、影響を受けている。
例えば、僕は『ニャロメ』が気になって、数学の教養本を読んでいる。『ぼくと数学の旅に出よう 真理を求めた1万年の物語』(ミカエル・ロネー著、山口知子、川口明百美訳、NHK出版、2019年)と『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(アミール・D・アクゼル著、青木薫訳、早川書房、2015年)だ。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000817702019.html
また、あのイギリス人アーティストの日記を受けて、画用紙に、多くの人にとっては意味不明な図をたくさん書いたりしている。それで、読み解いた思想の本の内容を図解しようとしているのだが、とても楽しくやっている。一瞬、目に留めるだけでも、影響を受けるものなのだ。
もう少し建築や建築思想、彫刻や芸術について調べたいと思っているし、これからも、執筆を止めないで、続けて行きたいと思っている。それも、短期集中型の僕だから、無理せず、ぼーっとしながらね。性については、その、茶を濁すしかないけど、マァ、目を背けずに行こうかと思う。
僕はBOOK PARK CLUBが今後とも続いて、各地に取り組みが広がったり、来場者が増えたりして欲しいと思っている。だから、今後を考えた時に、アートへの配慮ができる余裕も出てくるだろうし、配慮することによって、イベントの体験の質を上げることができると思う。
それが、別に、僕の提案した方法でなくてもいいし、さらに言えば、僕の拙い芸術論も、考慮する必要はない。僕の批評能力やアートセンスはたかが知れているのだから。でも、これだけは覚えておいて欲しい。とにかくアートへの配慮を怠るな、と。
BOOK PARK CLUBはアートに詳しい人やアーティストを仲間に加えた方が良い。そうすれば、もっとBOOK PARK CLUBは来場する人たちが満足するイベントに、結果として、主宰・運営している人たちも満足できるイベントになると思う。
そして、仕掛け人の想いをもっと実現していけると思う。
最後に、もう一つ、苦言というか、僕のお茶目なのかもしれないことを言わせて頂くと、どこの本たちを、どこの書店や出版社が出しているのか、よく分からなかった。もう少し大々的に、書店や出版社の名前を張り出して欲しい。
いや、本当は張り出していたのかもしれないけれど。
僕は本を二冊買ったが、その本を提供している書店のファンになり損ねた。それは、僕のせいであり、後悔なのだが、他人のせいにして、僕のいい加減さと性格の悪さの道標としておきたい。いや、本当にどこの本屋だったんだろう?安く買えたのは古本だったからで、古本屋だと思うんだけど。
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