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「オカマ」という言葉について

「オカマ」という実に穢らわしい言葉を浴びせかけられて散々泣いていたことは、悲しいかな「ミー・トゥー」である。小学校低学年の時にも中学年の時にも高学年の時にも散々な目に遭ったことを思い出してしまった。「俺」という人称代名詞が使えないだけでも、この言葉や「おとこおんな」などといった言葉を浴びせかけられて嫌な目に遭った(いまだにこの人称代名詞は嫌悪の対象でしかないので、絶対に使いたくない)。あの時の怒りと屈辱は、今でもまったく忘れていない。中学校に入ってから気が狂ったように英語を勉強したのも、一人称単数の代名詞が「I」だけだということにいたく感動したからだ(中学生の時に通っていた進学塾で使っていた教科書に出て来た「The man with a mask on is dangerous.」という暗記用例文が、いまだに頭にこびり付いている。コロナ禍がいまだに収まらない現状に鑑みると、むしろ「The man with no mask on is dangerous.」だろうなと思ったりもするのだが……)。自分自身を表す人称代名詞の選択で泣かされたりいじめられたりする必要がない英語話者のことが本気で羨ましく思えた。

今では、勝手知ったごく一部の人と話す時には「オカマ」という言葉を自分のことを語る際には自虐半分で使えるようにはなっているものの、こちらのことをはやし立てようと使った相手には猛烈に食ってかかることにしているし、公の場では絶対に使おうとは思わないし、公の場でこの言葉を使ってシス男性やトランス男性やトランス女性やノンバイナリらを馬鹿にする輩がいたら、彼ら彼女らのためにも烈火の如く怒ろうと思う。それが人としての務めであると信じている。

あと、さまざまな属性におけるマイノリティが自分がこれまで自分自身が得て来た利益を守ろうとマジョリティにすり寄ってマイノリティへの差別の存在を否認し、マイノリティの人権を認めさせようとする運動を「行き過ぎたナントカカントカ」だとか「共産主義」だとか「ナチズム」だとか呼んだり、こうした権利獲得運動に賛意を示す者を「活動家」だとか「共産主義者」だとか「サヨク」呼ばわりして悪魔化してとことん貶めるというのも、洋の東西問わず人間の形をしたクズの思考回路あるあるですわな。こういう連中はマジョリティにいくらすり寄ったところで、いいように利用されるだけ利用された末に利用価値がなくなればただちに迫害の対象にされて来たというのに、そんなことさえも分からないあまりの凡庸さと愚かさには乾いた笑いしか出ない。ともあれ、あと何年生きられるかは分からないとは言え、これからはかつてこの「オカマ」という言葉でもってかつてのわたし——そして今生きている我が同胞——を辱めて来た連中への「仇討ち」を、微力ながらも、ただしあくまでも平和的な手段でもって少しでもやってゆこうと思う。それが、己れのジェンダー・アイデンティティとセクシュアリティについてかつてと同様に今も懊悩している自分へのねぎらいにもなってゆくと思う。


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