水上勉の「寺泊、わが風車」を読んで
水上勉さんの本で一番、記憶、心の琴線に触れたのはこの本です。この短篇集には、「寺泊」、「太市」、「千太郎」、「棗」、「冬日帳」、「リヤカーを曵いて」、「山寺」、「踏切」、「雪みち」、「短い旅」、「わが風車」、「墨染」、「また、リヤカーを曵いて」、「ながるる水の」の14篇の短篇が収められています。
表紙の裏面に次のように書いてます。
「雪ふりしきる越後の漁船、・・・行きずりの(私)の眼に映った男女の情景に人生の断面を鮮烈に入り取り、川端康成賞を受賞した名編「寺泊」、幼女と妖女の同居する女との出会いと離別を、心に明滅するまま綴った「わが風車」など全14篇収録。過ぎし日の(私)の生に触れ、忘れえぬ刻印を残したさまざまな人への限りない愛惜をこめつつ、自己の(根)を執拗に見つめ直した作品集」
この本も二十年前に読んだ本ですが、心に沁みる物語ばかりで、愛惜を感じさせ、昔の日本人の心性を思い出させます。
解説に次のように書いてます。
「私は、水上勉の小説を読んでいると、よく、かつて柳田国男が考えていた「常民」のイメージを思いうかべる。柳田は、四角い文字(漢字)をつかって仲間どうしの話をしたがる知識人よりも、まるい文字(かな文字)をつかって話す側の人間に身をよせる必要性を説いているが、水上勉は、まさしく、そうした後者の側から身を立て、その無名の『常民』がいとなむ、さまざまな生き方を、その身をとおして表現した人間である」
「スレッズ」に写真を投稿したように、文学、特に日本文学を考えた場合、柳田国男さんなどの民俗学を学ぶことは、日本人の過去、現在、そして未来を考える一つのベクトルになると思う。
明治以来、柳田国男さんがいう「常民」(急速な近代化の表層部分の下に、なおも古くから連続する日本の心性に根ざしており、したがって「近代」化の作業の一つのあらわれというべき、西欧のイデオロギー、思考の枠組みからとらえにくい人々)の存在を忘れかけていて、水上勉は、こうした人々を描いた作品が多いです。
過去の歴史的構造をと捉え、その構造を現代の小説に活かすことは、作品に深みがでます。形式的なイベント、文化を導入し、歴史が断続的だと、その延長線にどうしても歪みが出やすくなると思う。柳田国男さんの著作、水上勉さんの作品のような価値観を見直すことが求められている現代なのかも。・・・