「気の持ちようで人は幸せになれるか」
かつて、ヴィクトール・フランクルという人がいました。ご存じかと思うんですけど、オーストリアの精神科医です。ナチスの収容所に入れられて、家族を失い、のちに『夜と霧』という有名な本を残しています。最近、NHKでフランクルの思想についてシリーズで放映していて、それを観ながらいろいろと考えさせられることがあったんです。
ぼくはもともと、哲学とか思想は苦手なんです。ぼくが若い頃は実存主義というのが流行っていて、それでサルトルの本とかいくつか読んだりしたんですけど、表面的にはわかっても、すっと入ってくるものがないんです。サルトルだけでなくて、大抵の哲学者や思想家の本も、少しは読んだことはあるんですけど、どれも理解はしても、それ以上にのめり込みたいという気持ちが出ないんです。
世は七十年安保の頃でしたから、マルクスも少しは読みましたけど、気持ちが入っていかないんです。大学生の時も、そういう自分の欠点がいやで、そこを乗り越えたくて「社会思想」なんて講義があると積極的に出席していたんですけど、やはりどの思想家にも胸を打たれないんです。たぶん、胸を打たれるほどには、ぼくが分かっていなかったからなんだと思うんです。問題は哲学や思想の方にあるのではなくて、ぼくの方にあるんです。
ですから、フランクルの思想もきちんと理解できているわけではないんですけど、また、フランクルの研究者には叱られるかもしれないんですけど、ぼくにとっては、なんというか、フランクルの考えって、ひとことで言うと「気の持ちようで人は幸せになれる」と、そんなふうに感じたんです。
現実は変えられない、でもそれをどうとらえるかによって、人は多少なりとも穏やかな気持ちで生きていくことができる、と、そんなふうに感じたんです。
そんなこと、わざわざフランクルに言われないでも知っていると、感じる人は多いと思います。でも、すでに知っていてもかまわないと思うんです。だって、その考え方って、やっぱりすごく大事だと思えるからです。
ぼくらは今、収容所で食事もろくに与えられないで、不衛生な場所で毎日をすごしているわけではないんですけど、どんな世界に生きていたとしても、、自分の中には、その人なりにつらいことはあります。
たとえば詩を書いていても、思うようなものは書けないし、人の詩を見れば、すごいなと感じて羨んだり、焦ったりするし、人と比較されて、変な言い方ですが、評価で負けることもしょっちゅうあります。
みなさんはそんなことはないかと思うんですけど、ぼくなんか、ネットで結構ひどいことを書かれたりもしているんです。ぼくやぼくの詩が嫌いなら、読まなければいいのにと思うんですけど。
まあ、ぼくのことはともかくとして、詩を書いていてつらい時に、その状況をどう自分の中でとらえるかっていうのは、詩を書いていく上で、大事だと思うんです。
もともと文芸って、評価する人も人間ですから完璧ではなくて、ですから、客観的な評価とか比較というのはとてもむずかしくて、誰もが納得できる正解はないんです。
そんな世界で比較されて、自分はだめだと評価されて、気持ちのよいはずがありません。
また、実は自分の詩は、ある人にとっては大切に読まれているのに、そのことに気付かずに、勝手に自分はダメだと思って元気をなくしている人もいるだろうと思います。
自分の詩がどの程度のものか、なんて誰にもわからないんです。
みんな自分の書ける範囲で一生懸命に書いている、それだけなんです。そうやって書いた詩をダメだダメだと自分で思い詰めるのも、あるいは自分はすごいと思い上がるのも、気持ち一つの問題なのかと思うんです。
それに、自分の詩がどこで、どのように読まれているか、ということは、細々したところまではわからないんです。
そんな時は、気の持ちようで自分を幸せにしてあげてもいいのではないかと思うんです。
「才能や知識はあまりない自分だけど、これだけ心を込めて一生懸命に書いたのだから、どこかに、わかってくれる人がいるに違いない、どこかに、自分のような目立たない人がいて、その人にはきっと届いているに違いない。」
そう信じて、元気を出してしまってかまわないと思うんです。
人からの評価を無視しろ、と言っているのではないんです。それはそれとして受け止めて、でも自分に向きあった時は、自分を救う必要があると感じたのなら、考え方を変えることによって、生き延びてもよいと、ぼくは思うんです。
まず生き延びることが大切だと思うんです。自分を穏やかに、ほどほどには元気にしてあげることが大事だと思うんです。
ぼくにとっては大切な詩ですが、時によっては、たかが詩だと思ってかまわないと思うんです。単なる言い回しの問題ではないかと割り切ってしまってもいいと思うんです。おそらく詩も、許してくれると思うんです。
そしてそれはたぶん、単なる妄想でなく、ひとつの事実に違いないと、ぼくは思うんです。
ぼくはもうこの年ですが、それでもつらくなることはあります。でも、つらい時には、できるだけよいことを思い浮かべることにしているんです。
だいぶ前になりますが、表参道で詩の会があって、そのあとで七人か八人で喫茶店に入って、その中の一人の若い女性が、たぶん高校生だったと思うのですが、その日、結構遠くから来てくれていて、小さな声で、「松下さんの書くものが好きです。松下さんの『現代詩文庫』はいつ出るんですか」って聞かれたことがあって、その時ぼくは、自分の詩を読んでくれた人がここにいた、ということを知って、泣きたくなるほどうれしかった。
思いもしないところでかけられた優しい言葉って、ホントに宝物になるんです。
ちょっといやなことがあったり、つらい思いを持っていたりする時には、その時の言葉を思い出して、心強く思って、その日を眠ることにしているんです。
たったひとつでもよいことがあったら、繰り返しそのことを思い出して、気持ちを穏やかにもって、詩を書いてゆけるのではないかと思うんです。
待っていなくても、気持ちの落ち込むことは起きるし、元気の出ない日はあります。そんなときのために、気持ちのよくなる空想をひとつ、用意しておくとよいと思います。
気の持ちようではどうにもならないこともありますが、気の持ちようで、ともかくその日を生き延びられる日はあるのではないかと、思うのです。
というのが今日の話です。
(「第一回 松下塾」での話から (2024/9/15)
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