同時代の詩を読む (1) - (5):谷口鳥子、長谷川哲士、竹井紫乙、嘉陽安之、森田直
「同時代の詩を読む」(1) - (5)
ここに載せるのは、ぼくらと同じ時代に生きている人が書いた、とても素敵な詩です。とても素敵な詩を、ぼくがどのように読み、楽しんだかを、詩とともに書いています。詩が苦手な人、あるいは、どうも分かりづらいと思っている人に、「そんなことはないよ、こんなに気楽に読めるものなんだよ」と、明るく言いたいと、ぼくは常々思っているのです。どうぞ、詩を楽しんでください。
(1)
「四年一組」 谷口鳥子
こんどの学校は木の校舎です 木の廊下は
きぎぃ きっ 上ばきの下で音します ときどき
木の壁に「ろう下を走ってはいけません」木の手すりをさわりながら階段のぼります 教室は二階の右はじ 担任は男先生です 同じ苗字の人が多いので先生は下の名前で呼びますが転校生は苗字 先生の話は よくわかりません こくごも さんすうも しゃかいかも りかも りかはあたしの名前です ともだち 三人もできた こんど
うぢざ来い
みきさんちは校庭のまん前
ふすまあけると 畳にうつぶせに毛皮
父さんうっだ熊だ
奥のドアあけると 床屋 の奥に校庭
べごっこ見だごとねて言っでらったべ
まゆこさんちは山行きのバス乗って 四つ目のバス停降りて 歩きます
木の小屋 へんな臭いして 柵 の先に真っ黒の でっかい牛
鼻の穴 ピンクに黒いてんてんのベロ 垂れるよだれ 鳴き声!
耳うわんうわんしてしっこでそうになる
なんもだ
んだんだ
めんけぇべぇ
マドレーヌ知っでらが
れいこさんちは駅前のバス停を左に入って 通りの二軒目
『すなっく みずうみ』のドアあけると 甘い匂いして お母さん
そろそろお店の時間みたい
ごちそうさま またあしたぁ
くらくなると明るくなってく道 帰ります
ミートセンターの角を右
(左ざ行ぐなよぉ)
*
この詩で好きなところはいくつもありますが、まず「先生の話は よくわかりません こくごも さんすうも しゃかいかも りかも りかはあたしの名前です」のところがなんともいいです。思いもしない展開です。無理がなくて自然でおかしいのです。なかなかすごいです。
それから、校庭の真ん前にある友達の家というのも、情景が目に浮かぶようで楽しくなります。家の窓をあけるとすぐ校庭があるって、なんだかシュールに感じます。
そういえば僕が子どもの頃は、夜、銭湯に行く時に、道すがら友達の家の中が外から部屋の奥まで見えて、友達の家族が何をしているのかが丸見えでした。家の中と外が繋がっていて境目がないように感じました。そのことをこの詩を読んで思いだし、とても懐しく感じました。
三人の友達のことにも、すごくリアリティーを感じるのは、ホントのことを書いているか、あるいはホントのことを素材にしているように思えるからなのだと思います。現実がその背後に見える詩って、それだけで背骨が通っているようで、安心して詩の中に入り込むことができます。
この詩が好きです。
(2)
「ベイビーブルー」 長谷川哲士
幼妻は赤児を置いて裸足で逃走
俺はただ待ち尽くす無能な男
ユメが湧く 地の底から
その血の如き 脈々とした震え
それは赤ン坊の夜泣き
疲れる事など無かろうしゃくり
暫し待て ユメ渇き
飢え苦しみに呑み込まれ
待つ事を待つ
連続五拍子 赤ン坊の絶叫止まず
コングラチュレーショーおおン
ユメの果て
希望の内臓に虱沸き
往年の永ちゃんの如き
ロックンロールシャウト夜泣き
絶叫ミュージック幕引きさせるべく
深夜のドライヴ
泣くなよベイビー
コンビニパーキングの看板命令なんかに随わず
前向き駐車いたしません
どうやって前向きに成れと云うのか
夜泣きしたいのは私です
寄り添う赤児のユビ握りしめながら
割り座して脱力
の 深夜のパーキング
*
「ベイビーブルー」について 松下育男
この詩を読んで真っ先に感じたのは、僕とは違う筋肉で詩を書いているということです。指先だけでなく、全身で詩を書くことができるのだということです。それから、あまりにも若すぎる人にはこの詩は到底書けないだろうと思います。
この詩を読んでいると、いろんな箇所でひとこと言いたくなります。ツッコミどころのたくさんある詩って、それだけで楽しいし、素晴らしいと思います。
読んで楽しい詩って、考えてみるとそんなにはないのです。
いつもとは違う場所にある詩。そんな気がします。
「夜泣きしたいのは私です」
しみるな、と思います。
とにもかくにも、これはなんとも素敵な詩です。
(3)
「プリン」 竹井 紫乙
帰ってくるまでプリンは置いといて。
私の仕事は花びらです。
朝から晩まで花びらです。
川を流れる
橋を渡る
大勢の他人と一緒に
流れて、流されて、流して
花びらを全うする
しごと だから。
だからプリンを冷蔵庫に残しておいて
ください な。
花びらの仕事にはきまりがあって
期間もあって
ふあんてい。
だから
簡単にばらばらになったり
踏みつけられたり
千切られたり
する。
プリンはかためが好みです。
しっかりした形で、揺れないで
スプーンがぐっさり刺さる感じの
プリンは絶対置いといて。
恋人は部品なの。
唇、目、鼻、背中、腕。いろいろ集めているの。
部品をくっつける必要はないわ。
だって部品のままだからこそ、いいんだもん。
部品のままを、愛してる。
カラメルソースは焦がしてね。苦いところが美味しいの。深い茶色の焦げた色。
甘いばかりじゃ駄目だから。
花びらだってマスクをするわ。
白、水色、ピンク、真っ黒。
一斉に渡ってゆく花びら。
もう、くたくたよ。
必ず家に帰るから
這いつくばって帰るから
ぼろぼろマスクで帰るから
今日という日を使い果たして帰るから
がたがたの手足で帰るから
涎を垂らして帰るから
きっとプリンは置いといて。
「プリン」について 松下育男
この詩をとても面白く読みました。なによりも「私の仕事は花びらです」の一行に驚きました。すごい発想です。突き抜けています。もちろんさまざまな意味で、自分の仕事や生活ぶりが、漂う花びらのようだという事なのだと思うのですが、「私の仕事は花びらです」と書かれてしまえば、花びらに目鼻がついて、必死に仕事をしている姿を想像してしまうところが面白く感じます。
竹井さんのすごいのは、ほかのだれも書かない詩を書いているところです。とても面白く読みました。プリンへのこだわりやマスクへの言及など、押しつけがましくはなく、それでいてしつこく絡んでゆく。そのへんの加減がとてもうまくできていて、実に素敵な作品です。
「恋人は部品なの」のところも、すごいです。人が好きだ、という時に、必ずどこか部分的に惹かれているところがあるわけで、そのへんの心の機微がよく書かれています。
(流されるものとしての)花びら
(花びらと違って確固としたものを持っている)プリン
(部品としての)恋人
(ぼろぼろで、くたくたな)マスク
これら、触れるものはしたたかに詩を魅力的な方へ引っ張ってゆきます。とても魅力的な詩です。竹井さんの詩の面白さ、自由さを、多くの人に味わってもらいたいと思うばかりです。
(4)
「朝を作る」 嘉陽安之
朝
それほど
広くない通りに
警備員さんや
教員が並んで
生徒の
通学の道が
作られていく
その中を
今日も
中高生を務めに
青年でも少年でもない
現代の真ん中を
生きる者たちが歩いていく
僕も道に立って
彼らの朝を作る
僕の後ろを
通勤の人や
自転車で
幼稚園に子どもを送る
お母さんたちが
慌ただしく過ぎていく
たまにはよっぱらいもいる
昭和の二日酔いがひどそうな
僕は
誰かの朝となり
生徒や通り過ぎる人が
僕の朝を作る
不可思議な広がり
全てを辿ることはできないが
僕は
全身で
感じることができる
この果てしない
広がりを
「朝を作る」について 松下育男
今日の詩は掲載の許可をもらうためにメールをしたら、匿名でお願いしますということなのでそうしました。この詩人は、今までもよい詩を継続して書いています。書くべきことを知っている。そんな感じがします。
今回の詩は、なによりも「朝を作る」という言葉の美しさに打たれました。「僕も道に立って/彼らの朝を作る」。極上の詩行です。卒業式のあとの、在校生が手で作るアーチの中をくぐっているような優しい気持ちになれる詩です。
さらに、この詩の魅力はそこだけに留まらず「生徒や通り過ぎる人が/僕の朝を作る」と、向こう側からの視点も入れてあるところが見事です。朝が波のように押し寄せては引いてゆく。そんな印象を持ちました。朝のすがすがしさをしっかり受け止めて書かれた詩です。
朝は放っておいても来るのではなくて、僕が君の朝を作り、君が僕の朝を作るものなのだ、ということのようです。とても素敵な考え方に支えられた詩になっています。
(5)
「部屋干し」 森田 直
なぐさめあって
乾かない
部屋干しの竿は短いから
気を使いあう
寄り添う
湿る
右靴下と左靴下が
お互いの生温かい呼気を
お互いに引き受けあって
その機転のせいで
一向に乾かない
外に出せば
靴下もタオルもパンツも
どれもはためいてしまう
どちらが表か
わからなくなってしまう
乾燥した眉間にシワを寄せあって
夕方一同に畳まれて
それで部屋に干す
すると正面を向きあって
表情を確かめあって
なぐさめあって
乾かない
「部屋干し」について 松下育男
この詩は、題名にあるように、部屋干しの詩です。部屋干しの洗濯物が乾かない、というそれだけの詩です。それだけの詩だから、それ以上のものをたくさん含んでしまうのです。何が含まれているのかを楽しく探すのが、詩を読むという行為です。
擬人化しています。人に見立てています。なぜ部屋干しの洗濯物がなかなか乾かないかというと、「なぐさめあって/乾かない」のだと書いてあります。冒頭の二行だけで、この詩が読むに値するものであることがわかります。洗濯物が気をつかいあうので乾かないのだそうです。こんな理由、森田さんだけにしか思いつきません。
五連目では、外干しのことが書いてあります。外に干した洗濯物は、はためいてしまう。はためいてしまうから洗濯物同士がじっくり見つめあうことがない。だから乾いてしまうのだということのようです。なんともすごい理屈です。明るく笑えます。
で、最後の連で部屋干しに戻ります。やっぱり部屋干しの洗濯物はなぐさめあって、乾かないのだと念を押すように言っています。
始めから終わりまでずっと面白く読める詩です。長さもちょうどいい。物干し竿のように長すぎもしない。
この詩は、洗濯物ではなく人のことを書いているのだと読むこともできます。一日中に部屋の中にいる内向的な人と、外に出て活動的な人を暗示しているとも読めます。それはそれで面白いけれど、僕はやっぱり、なぐさめあっている靴下とパンツのことを、思い浮かべて読んでいたいと思います。
愛すべき詩です。
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