初心者のための詩の書き方 ― 技術編 (詩を読む)
初心者のための詩の書き方 ― 技術編 (詩を読む)
目次
第一章(好きな詩、好きな詩人を読んでいればいい)
1353 (好きな詩だけを読む)
1433 (好きな詩人だけを読む)
1892 (自分が必要としている詩だけを読む)
1981 (好きなものだけを好きな時に読む)
第二章(自分の目で読む)
1447 (自分の目で読み分ける)
1576 (自分の目だけで読む)
1658 (先入観を持たずに読む)
1950 (勝手な読みでいい)
1956 (自分の目で読む)
1990 (それぞれの詩史、それぞれの好み)
第三章(感想を書いてみる)
1650 (感想を書いてみる)
1922 (感じたことを書く)
2019 (感想を書くことの大切さ)
第四章(詩がわかるということ)
1006 (わかる詩わからない詩)
2122 (詩がわかるとは)
2130 (詩がわかるとは)
2152 (一行だけでもわかればいい)
2153 (部分的にでもぐっとくるか)
第五章(詩の多様性)
463 (分類しながら読む)
1406 (人の読みを尊重する)
1951 (詩の多様性)
第六章(詩を読むことのそのほかの考え)
192 (わが事のようにして読む)
205 (二度読む)
234 (詩を読むとは何か)
384 (努力して読む)
426 (同時代の詩を読む)
458 (時間をかけて読む)
486 (個人的な行為)
588 (読むことの発想)
1322 (ひとりの詩人の中にすべてがある)
1359 (詩を書かなくても、書いている)
1398 (好きな詩をひとつ持つ)
1845 (ちょっと気になることの大事さ)
1961 (すがるようにして読める詩)
2151 (詩をよりよく読むために)
(ここから本文)
第一章(好きな詩、好きな詩人を読んでいればいい)
1353 (好きな詩だけを読む)
よさのわからない詩人がいると、自分の読み方に足りないものがあるのではないかと思ってしまう。その気持ちは大切だけど、気にしたってどうなるものでもない。好きになれない歌手がいたからといって、自分を責めることはない。それと同じ。好きな詩人の好きな詩だけを読んでいて、何がいけないだろう。
1433 (好きな詩人だけを読む)
どこがよいのかわからない詩がたくさんあっても気にすることはない。さまざまな詩をまんべんなくわかることには、それほどの意味はない。好きな詩人が数人いれば、それでじゅうぶん。好きな詩人を存分に抱きしめていること。そうしているうちに、その詩人を通して詩のすべてが見えてくる。
1667 (好きな詩だけを読む)
まんべんなくたくさんの詩を読むのもよいけれど、ほんらいは、好きでたまらない詩をくりかえし読むものなのではないだろうか。なんだかよさそうだとか、人がよいと言うから、ではなくて、読んだとたんにとりこになってしまった詩。生涯繰り返し読めて、時には、全身でもたれかかることのできる詩。
1892 (自分が必要としている詩だけを読む)
若い頃の悩みは、自分が詩を書いているのに、人の詩を読むとわからないものが沢山あるということだった。それはたぶん、詩はこう読むべきという決まりがあると思っていたからだ。でも、実のところそんなものはどうでもいい。私を必要としている詩だけを、自分の読み方で、好きに読んでいればいい。
1981 (好きなものだけを好きな時に読む)
若い頃は、図書室にいるのは好きだったけど、実はあまり本を読んでこなかった。好きな作家や詩人はいた。時たま読んでうっとりできていれば、それで充分。本を沢山読んでいる人をすごいなとは思うが、自分はそういうのとは違うとわかっていた。歳をとっても変わらず、好きなものだけを好きな時に読む。
第二章(自分の目で読む)
1447 (自分の目で読み分ける)
わからない詩があったとしても、それはそれとして傍に置いておけばいい。さしあたってその詩に時間を費やすのは無駄。大事なのは、自らの目で詩を読み分け、よしとするものを信じること。むずかしいことではない。計算も配慮もない所で、好きな詩を好きと言うだけ。それが君だけの詩の世界をつくる。
1576 (自分の目だけで読む)
自分の目で詩を読む、というのは当たり前だけど大事なこと。評判がいいとか、有名だからとか、関係ない。詩を読むというのは、詩と自分の二人だけの行為。他の何ものもそこには入れない。一篇の詩がどれほど入ってくるか、自分の目だけで読んでみる。そうすることによって、詩のありかが定まってくる。
1658 (先入観を持たずに読む)
どんな詩も先入観を持たずに読もうと思う。誰が書いたかとか、どんなところに載っているかとか、関係なしに、その詩のよいところはのがさずに読みたい。そうでないと、せっかくの切実な部分を読み落としてしまう。
優しく荘厳な気持ちで人の詩を読むことは、自分が詩を書くことに密接に関係している。
1839 (自分の目でじかに読む)
詩を“じかに“読む習慣は大切だと思う。有名な詩人だからとか、評判がよいからとか、自分の詩のスタイルに近いからとかの、判断から離れ、詩そのものを読むようにする。裸の詩を裸の私が受けとめる。そのように努力をしてゆくことが、詩を正当に評価する力をつけさせてくれ、さらに書く力にも結びつく。
1950 (勝手な読みでいい)
どんな詩も、自分の好きなように読んでしまっていいのではないか。目の前の詩から、どれくらいその魅力を享受できるか、それだけを考えていればよいのではないか。作者の手元を離れれば、詩はもう読者のもの。自分だけがつかむことのできた感動を、生涯勝手に握り続けていてもいいのではないか。
1956 (自分の目で読む)
自分の目で詩を読む。余計な情報は遠ざけて、目の前の詩と二人きりになって、自分の目だけでよしあしを判断する。仮にその時に良い詩を見落とすことがあったとしても、長い目で見れば、それが詩との一番真摯な付き合い方だと思う。評判を追うのではなく、自分にとっての切実で優れた詩を見極めてゆく。
1990 (それぞれの詩史、それぞれの好み)
ぼくは決して、有名な詩人の有名な詩を否定するものではない。深く打たれてきた詩もたくさんある。ただ、有名な詩人だからといって、そのままありがたく読む必要はない。自分の感性を通過させてから決めてゆく。人それぞれの読みの向きがあってかまわないし、人それぞれの詩人全集や詩史があっていい。
第三章(感想を書いてみる)
1650 (感想を書いてみる)
詩を読んだら、どう感じたかを書きとめておくといい。
感じたことを書こうすると、それまでは思ってもいなかった感想がなぜか出てくる。
感想って、自分の中に溜まっているのではなくて、書くことによって自分と文章の境目から生み出されてくる。
感想を書くことは、むろん詩を書くことに繋がる。
1922 (感じたことを書く)
詩を読む時に「この詩について感じたことを書いてみよう」と思って読むと、いつもより深く理解できるのはなぜだろう。
なんとなく読んでいる時には、表に出てきていない「本気の読み」が、我知らず現れるからなのではないか。
そしてこの「本気の読み」は、自作の詩に繋がってゆくような気がする。
2019 (感想を書くことの大切さ)
詩についての感想を書く、というのは、感想があらかじめあって、それを文章にする、というだけではない。
むしろ、感想を書く、という行為が、その詩をより深く読み解くことにつながり、書くことを決めてくれる。
つまり、感想を書くからその詩がわかり、わかった感想は、自分の詩作のためにもなる。
第四章(詩がわかるということ)
1006 (わかる詩わからない詩)
詩は
わかる・わからないではなくて
感じるもの
と
よく言われるけど
わからないものはわからないのだから
素直にそう言って構わない
さしあたってできることは
わかる詩に凭れかかって
うっとりしていること
そのうっとりが
心を広げてくれて
わからないの内の一部分が
こっちへ引っ越してきてくれる
2122 (詩がわかるとは)
「詩がわかる」という言葉ほどわかりづらい言葉はない。詩のわかり方は様々だ。詩によって違うし、読み手によっても異なる。どこかにたった一つの正解があって、そこへたどり着く行為ではない。読めば気分がいいというのも「わかる」だし、一行に不意に刺し貫かれるというのも、立派な「わかる」だ。
2130 (詩がわかるとは)
「私は詩がわかる」
というのは
「私にはわかる詩がある」
ということだ
「私は詩がわからない」
というのは
「私にはわからない詩がある」
ということだ
それ以上ではない
だから
詩がわかる
という人は
じつは詩がわからない
詩がわからない
という人は
じつは詩がわかっている
安心していい
2152 (一行だけでもわかればいい)
詩を読むことは必ずしもその詩全体を受け取ることではない。全体の意味がわからなくても、たった一行に打たれれば立派に読んだことになる。その一行をたずさえて生きていってかまわない。作者の意図するところとは違っていてもかまわない。詩を読むとは、読み手によってその都度作り変えられること。
2153 (部分的にでもぐっとくるか)
雑誌に載っている詩にはとても難しい詩が多い。昔からそうだ。そんな、歯が立たない詩をどのように読むか、とたまに聞かれる。
一つだけ言えるのは、読んでみて、その詩が部分的にでも心に引っかかるものをもっているか、どこかにぐっとくるか、そこに気をつけていれば、その詩の価値が見えてくる。
第五章(詩の多様性)
463 (分類しながら読む)
知らない詩人の詩は
読みながら
分類をする
まず一行目が
日本語を壊す詩人か
そうでないか
それから二行目が
前の行を引き継ぐ詩人か
そうでないか
この分類があることを
詩を読みなれない人は
理解できない
このスリリングな前段階は
おそらく詩以外では
経験できない
1406 (人の読みを尊重する)
もう60年も詩を読んでいるのに、実のところまったくよさのわからない詩人が少なからずいる。こんなのどこがいいんだとか、だから日本の詩はだめなんだとか、思いがちだけど、そんなことはない。詩の読まれ方は多様であるべきだし、人の読みを尊重しなければ、自分の読みの価値もなくなる。そう思う。
1951 (詩の多様性)
自分とはまったく違ったタイプの詩を受け止めることはむずかしい。けれど、嫌悪感や違和感を抱く、ということ自体の中にも詩作の根がある。無理をして好きでもない詩人の詩を読む必要はない。ただ、そこに何がしまわれているかを知らずに過ごしてしまうのはもったいない。詩の多様性を見つめていたい。
第六章(詩を読むことのそのほかの考え)
192 (わが事のようにして読む)
人の詩を読むときには、ただ漫然と読むのではなく、自分だったらここはこう書くだろうとか、この言葉はどこから持ってこられたろうとか、考えながら我がことのようにして読んでいたい。詩人になったら純粋に読むという行為はもうできない。
詩人は別のいきもの
立てば姿が
そのまま
一行の
詩になる
205 (二度読む)
詩を読む時には一度きりの読みでは足りない。日を変えてもう一度読むと、そうだったのか、そういうことだったのかとわかってくることがよくある。一度目の読みできれいに剥がされてゆくものがあるようなのだ。初めての日には、詩もわたしも恥ずかしくて目をあげられなかったのかもしれない。
234 (詩を読むとは何か)
「詩を読むとは何か」
詩の読み方
というものがまず私の前にあって
それを個々の詩にあてはめているわけではない
考え方はおそらく逆
個々の詩がまず私の前にあって
その個々の詩が私に
その詩の読み方を示してくれる
あるいはこうも言える
あらかじめ詩は私の前にはない
私に読まれ
それが詩と了解されることによって
詩は成立し
それがそのまま読まれるということになる
詩を読むとは
なにものでもなかった書き物を
私が詩と了解すること
まさにそのことをいう
詩というのはそのような意味で
ひとつのジャンルではなく
ある種の評価である
これが詩である
と言う思いこみの器に言葉を流し込むことは
詩を作ったことにはならない
それは単に詩のあやうさを失った
何かの複製でしかない
あるいは
何ものともよべないものなのだ
果てのところで揺れているもの
それだけを詩と呼び
それ以外は決して詩と呼んではいけない
384 (努力して読む)
あらかじめ何らかの知識や思想を知らなければ読み切ることのできない詩って、ある。素直に読んでいるだけでは核心にたどり着けない。待っていたら詩が謝って変わってくれるならいい。でも人生そんなことはない。読者が努力して読む。その努力の間に、それまでの詩の理解の狭さに気づくこともある。
426 (同時代の詩を読む)
昨日の教室で話したのは、詩にも2種類あるということ。両腕を伸ばして読む有名な詩人の詩と、隣に座る級友のささやかな詩。どうして同じ時に同じ場所にいる人の詩は、こんなに深く染み込んでくるのだろう。同時代に濡れ、同じ場所に溺れることの恍惚。詩は何人に読まれるかを、問題としない。
458 (時間をかけて読む)
詩は時間をかけて読む。一冊の詩誌には様々な定義の詩が並ぶ。これらをいちどきに読み通すのは無謀。一篇を読んだら、次の詩は気持ちを整えてから読む。生まれて初めて呼吸をする時のように、次の詩の一行に向かう。特に優れた詩に出会ったら、しばらくは何も読まない。その詩の中でじっと生きる。
486 (個人的な行為)
詩を読むって
個人的な行為だ
だから
人より広範囲に読んだからといって
偉いわけではない
指し伸ばす指先を握ってくれた詩人から
読み始める
そこから辿っていけるだけの鮮やかな繋がりを
すでに日本の詩は持つ
むろん たった一人の詩人を読み続ける人生も
さわやかにある
588 (読むことの発想)
詩を読むことは
書くことと
違わない
読んでそのまま与えられるものは
まだ読みの
手前でしかないと
思う
読みにもその詩のための
発想が
必要
受け止めるための感性は
作りあげてゆくもの
やわらかく引くことは
かすかに押すことと
違わない
1322 (ひとりの詩人の中にすべてがある)
詩を読むというのは
たくさんの詩人をまんべんなく読むことではない
強く惹きつけられる詩人が
たった一人でもいれば
もとめるものは満たされる
一人の詩人の中には
詩のすべてがある
繰り返し
深く読むことによって
詩とは何かが見えてくる
1359 (詩を書かなくても、書いている)
詩を書かなくても、詩を書く気持ちは体験できる。優れた詩を読んで胸を打たれたなら、それは創作の喜びを同じ量だけ受け取ったことなのだと思う。だから誰でも詩とともにいられる。
生きることは外へ出かけること。詩を書くことは私に帰ってくること。詩を書かなくても、人は生きて詩を書いている。
1398 (好きな詩をひとつ持つ)
さまざまなジャンルの沢山の音楽を聴いているから音楽を知っている、ということにはならない。
むしろたった一つの歌に心を奪われることが、歌のそばにいるということだと思う。
現代詩も同じ。
身をもたせかけられる詩をひとつ持ち、両腕でしっかり抱けることが、詩と共にいることだと思う。
1699 (詩の読み方とは)
詩の読み方を知りたいと聞かれた。
「詩の読み方」というものがあって、それを個々の詩にあてはめているわけではない。考え方は逆。個々の詩がまず私たちの前にあって、それぞれの詩が私たちに「その詩だけの読み方」を示している。「詩」というのはそのような意味で、詩の読み方の現れであると思う。
1845 (ちょっと気になることの大事さ)
詩を読んでいて、ちょっと気になる表現に出くわすことがある。その時、「ちょっと」だからということで、素通りしてはいけない。たいていの大事なものはその「ちょっと気になる」の奥にある。「ちょっと」と感じたのは、単に出会いがしらだったからだ。自分の創作の大事なところにつながることがある。
1961 (すがるようにして読める詩)
ちょっとした気持ちの揺れで、自信を全部なくしてしまう日って、ある。何もかもがうまくいかない。そんな夜に、すがるように読める詩集をあらかじめ持っておきたい。自信を持つとか持たないとか、そんなことはどうでもいい。全てを忘れて没頭でき、次の日へ、ともかくも手を引いてくれる言葉たち。
2151 (詩をよりよく読むために)
詩をよりよく読むためにぼくがしているのは、
(1)詩人や詩に先入観を持たずに読む
ことと
(2)時間をおいて二度読む
ことと
(3)その詩についての感想を書く、という気持ちで読む
ことの3つだろうか。
そして実際に感想を書いてみれば、書いているあいだに見えてくる発見も、確かにある。
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