詩を書くというのは、手元に幸せを作ること。

今日は、「詩を書くというのは、手元に幸せを作ることだ」という話です。

昨日、床屋へ行きました。ぼくは若い頃から白髪が多くて、今はもうほとんど白髪なんです。コロナの頃はうつるのが恐いので床屋にも行けず白髪のままだったんですけど、コロナが終わってまた外に出て行くことになって、ただでさえ年老いた感じで生きているので、せめて髪くらい黒くして少しは若く見えるようにと思って染めているんです。

それで、散髪して染めるのに一時間以上かかるんです。

ぼくが行っているのは、近所の商店街にある小さな、どこにでもありそうな床屋です。

床屋の主人はたぶん40代のおじさんですけど、どこかにまだ青年のにおいがしている、たぶん独身の人で、お母さんと暮らしているようで、ひとりで床屋をやっています。

床屋の椅子は二つあります。たいてい空いているんですけど、たまに、ぼくが髪を染めてもらって、そのまま染まるのを待っている時に、別のお客さんが来ることがあります。で、床屋の主人が、入ってきたお客さんに、

「今のお客さんがまだ30分くらいかかりますけど、どうします?」と聞くんです。

するとお客さんの中には、「そっちで染めてるのを待っているんなら、その間にちょっと切ってよ。」と言う人がいるんです。床屋の椅子は二つあるので、物理的には可能なんです。

それで、そんな時、床屋の主人は、そばの小さな椅子に座って僕の髪が染まるのをただ待っているだけなのに、「すいません、集中したいんで、それはできないんです。」と言って、断るんです。

それで、「それならいいです」と言って帰ってしまうお客さんもいて、ぼくは申し訳ないことをしたな、もっと空いている時にくればよかったなと思うんですけど、でも床屋の主人はぜんぜん気にしていなさそうなんです。

で、ぼくの染めも、散髪も終わって、立ちあがろうとすると、床屋の主人は「あっ、ちょっと待って」と言って、ハサミをまた持って、ほんの小さな箇所の髪を、またちょっと切ってみたり、そろえてみたりしているんです。

つまり、この床屋さんは自分の仕事がホントに好きなんだなってことが、様子をみているとわかるんです。

集中したい、って言っていたのも本心からの言葉なんです。

床屋さんだから散髪しているのではなくて、ハサミで人の髪を切るのが好きな人が、たまたま床屋をしているという感じなんです。

ぼくみたいな、こんな見栄えのぱっとしないお爺さんの髪なんて、だれも気にしないし、適当に切ってくれても問題ないのだし、僕だって出来栄えに何も言わないし、だれもわからないのに、それでもこだわって、すごく丁寧に髪を切ってしまうようなんです。

その姿が、なんというか神々しくて、いいなと思うんです。

好きなことをやっている人がいちばん幸せなんだろうなとわかるんです。

詩も同じなんです。

というか、まさに詩こそ、誰にも頼まれもしないのに、お金にもならないのに、ただ好きでしかたがないから書くんです。

ぼくはずっと詩を書いてきて、ぼくよりも素敵な詩を書く人に出会うと、「自分よりも才能のある人だな」と思うよりも、「自分よりも詩の好きな人がここにいるな」と思うんです。

詩は、あの床屋のように、手元に幸せを作ることです。自分の幸せを好きなだけ作れることです。

先日観たプロジェクトXで、学校にも行かないで好きなCGを好きに作っていた青年が、つまりは一般的な世間のレールから外れてしまった青年が、その技術と感性を見込まれて「ゴジラ」の映画制作に参加しているところをやっていました。ぼくはそれを観ていてすごく感動したんですけど、あの青年も、手元に自分の好きなことで、自分の幸せを作っているんです。それでどうしたいなんて望むことなく、ただ手元で好きなことをして夢中になって生きていただけなんです。

そういう人が、だれもたどり着けない場所に行けるんです。

結局自分の幸せって、誰かになんとかしてもらうよりも、ほとんど自分の手元で作り上げているんだなと、感じてしまうんです。

詩が気になるのなら、思い切り自分の詩を好きになってあげることです。

好きなことを、とことん書いてみてもいいんだと思うんです。

(詩に対する姿勢)

それで、ぼくの、詩に対する姿勢をこれはもうずっと言っていることなので、これまでにも何度も聞かされている人もいるかと思うのですが、ひとことで言えば、

「詩は競争ではない」

ということです。競争だと思って詩を書いている人がいても、もちろんかまいません。人それぞれです。でも、ぼくはそのようにとらえて詩を書いていきたくはない、ということです。

むろん賞の選考や、投稿の当選にあたっては、競争になることもあるかもしれません。でも、それはその時だけのことです。終わって何ヶ月か過ぎれば、また何もない、詩と二人きりの日になるんです。

ぼくは、賞とか投稿の当選を軽く見てはいません。でも、詩を読んだり、書いたりする、その根本の喜びに比べたら、その時だけの一過性のものでしかないし、ある程度の曖昧さや運も含まれているものと思っています。

競争も大事な時はあるかもしれませんが、競争よりもずっと大事なのは、詩が書きたいという衝動であり、自分の詩をより磨き上げたいという願いであり、人の詩を受け止めた時の純粋な感動であると思います。そこには曖昧さも運も入り込む余地はないんです。

どしんと、詩と取り組んでいきたいんです。安心して詩を好きになっていたいんです。

ずっと遠くから自分の姿を見つめる目を、持っていたいんです。人と競争して目がつり上がっている自分よりも、部屋にこもって詩と二人きりでゆったりと楽しんでいる自分を、ずっと遠くから見つめていたいと思うんです。そしてその気になれば、自分の欲望をきちんと制御できていれば、そうした人生が送れるんです。詩のためにも、そうしていたいんです。

手元に自分の好きなことで自分の幸せをこしらえることが大事なのだと、思うのです

それを忘れたくないと思うのです。

いいなと思ったら応援しよう!