「同時代の詩を読む」(71)-(75) 中西邦春、柳坪幸佳、雪柳あうこ、山本有香、十谷あとり

(71)

「雑草について」        中西邦春

雑草って、たくましさとか
生命力の象徴のように言われるけれど
植物のなかでは
とてもか弱い存在らしい

たとえば、深い森のなかに彼らはほとんどいないそうだ
もっと強い者たちに占領されてしまっているから

雑草たちに残されているのは
条件の悪いところ
他の植物が目もくれないところ

コンクリートの裂け目とか、すこしの隙間
そんな誰もやってこない場所にしがみついて
ようやく命をつないでいる

か弱さゆえに選ばざるをえなかった生き方に
人が強さを感じるのはなぜだろう?

強いことと 弱いことは
いったい何が違うのだろう?

今日もあちこちで
弱いものたちが
風に吹かれている

そのか弱さのままに
強く
生きるものたちが
ゆれている

「雑草について」について 松下育男

この詩を面白く読みました。

まず最初の連の、「雑草って、(略)とてもか弱い存在らしい」という言葉に驚きました。そうなのかと思いました。

詩を読んでいてそうなのかと納得することなんてめったにありませんから、そうなのかと思ってしまったらその時点で、もう詩に引き込まれているのです。

それでそのあとに、なぜ雑草が弱い存在なのかというのが説明されているのですが、この説明も無理なく分かるように、的確になされています。無駄のない要領を得た詩になっています。

詩は説明になってはいけない、とよく言われますが、そんなことはないとぼくは思います。読む人の心に入ってゆける言葉なら、決まりなんて何もないのです。なんでもいいのです。学術論文だって、チラシ広告だって、辞書だってなんでも心を打つものは詩なのです。

この詩はまさに、それまで考えていたことを覆してくれる驚きの詩です。だからと言って人に教え諭そうとはしていません。実は……と小さな声で書かれた詩です。

それにしても「すこしの隙間/そんな誰もやってこない場所にしがみついて/ようやく命をつないでいる」のところを読めば、多くの人は、これは自分のことではないかと、思ってしまいます。

そうなんです。この詩は雑草であり、この詩を読む人も雑草のようです。

いったん読んでしまったら、わたしの心の狭くて弱い部分に、おとなしく住みついてしまいそうです。



(72)

「鳥の巣」       柳坪 幸佳

鳥の腹を抱いて眠る夢を見る。野球チームが勝った夜だ。

夢のなかで、「鳥の巣」のがらんどうの脚を見ている。「鳥の巣」と。路面電車の操車塔は長くその名で呼ばれてきたのだ。ポイントは人が手動で切り替えるもの。その時代も遠のいて、少しずつ解体された「鳥の巣」たちだが、どういうわけかその場所にだけは染みのように残っていたのだ。知っている。十日市の交差点だ。十日にも市の立たないその場所にいて、消えていった操車塔だ。

/交信/ /見上げている。雨が世界と交信してゆく/

かつて街では「鳥の巣」たちが必要とされ、忙しそうにコンクリートの太い脚を震わせていた。かためられた時間のにおい。雨のにおい。脚の記憶を思い出す。右に行くか左に行くかと、かつては人が決めていた日々。観覧車のゴンドラならば空に向けて回転をするが、操車塔のゴンドラは動くこともなく世界をひたすら規定していた。だからこそ、わたし自身も電車とともに切り分けられて、切り分けられたわたしを見ていた。時間は記憶を折りこんでいる。あちら側とこちら側にいて、何かがひどく鳴きつづけた日々。
(ご注意ください)(…に、ご注意ください)
知らなかった。
(ファウルボールにご注意ください)

/どうぞ世界にご注意ください/ / 交信/

親鳥はどこにいたのでしょうか。市場はいつ消えたのでしょうか。「鳥の巣」では何羽の鳥が揺れたのでしょうか。ファウルボールが本当に届けられるかはわからない。時間の皺を引きつらせながら夜を向く。知っていたのだ。とうに扉が閉じていたこと。「鳥の巣」が「鳥の巣」のまま抜け落ちたこと。人びとは地上のどこかに散ってしまった。知っている。世界はもはや人の力で切り分けられなくなったということ。

だからこそ、わたしたちは穏やかな顔で笑うのだろう。野球チームは勝ちつづけるし、ファウルボールはいつだってサインとともに届くのだろう。電車の軌道にうすい夜が貼りついてゆく。見えない市場が点滅している。笑うことは求められている。だからこそ、不眠症と嗜眠症を窓辺に並べる。わたしたちはただ笑っていよう。

/交信 /どこにいますか

もういちど、その時が来ると思いたかった。
「次の交信まで」
「さようなら」

笑い声が沈んでいく。
眠っている。

いっしんに、雨が降る。

「鳥の巣」について 松下育男

傑作だと思います。かつて路面電車に行き先の指示を出すための操車塔が立っていて、その塔の中にいる人が手で指示をしていたということのようです。その印象的な場所と、その町(おそらく広島か)の野球チームの試合が重ねられています。

一編の詩の中に、かつての路面電車と、操車塔でポイントを変える人と、野球場でのファウルボールと、作者の想念が、幾重にも重ねて描かれています。その重なりが時間の重なりにも、空間の重なりにもなって、見事な詩を構築しています。

さらに十日市という地名から、当時の市場も想像の中に浮かび上がります。とても印象的です。美しい情景です。

「かためられた時間のにおい。雨のにおい。脚の記憶を思い出す。」とか、「わたし自身も電車とともに切り分けられて、切り分けられたわたしを見ていた。時間は記憶を折りこんでいる。あちら側とこちら側にいて、何かがひどく鳴きつづけた日々。」とか、長く引用したくなるほどに、素晴らしい描写です。

ある時代の情景がめくるめく詩に展開していて、それらの情景がなくなったここに、今のわたしがいる、という詩です。何度も読み直して堪能できる、すばらしい詩であると思います。



(73)

金魚草            雪柳あうこ

午後の玄関はいつだって、時が降り注ぐやわらかな水底だった。ぼーん、ぼーんと、柱時計が午後二時を告げるのを合図に、わたしはいつも金魚に変じた。土間の植木鉢に咲く金魚草の狭間でそっと尾を振ると、たゆたう水はほころび、金色の陽光は水底に波模様を描き出す。安心して少し息を吐くと、小さな空気の泡が連なって天井へと向かっていく。こぽぽぽ、こぽぽぼ。
玄関の引き戸はいつも網戸にしてあって、誰が来てもすぐにわかる。ごめんくださーい、と野太い声がするたびに、わたしは水底に咲き乱れる花々の間に身を潜めた。金魚草はレモンイエローの花を掲げて、わたしを午後の片隅にそっと隠してくれる。空気が漏れないように、口を閉じて必死で息を殺す。こぽ、ぽ。客は祖母が育てている胡蝶蘭の蕾を確認すると、値段がどうのこうのと言いながら帰っていく。気配が去ると、わたしはほっとして花々の間から顔を出す。水底の向こう、遠くの鉢植えからヴィオラが目配せを返してくれた。こぽぽぽ。
祖母は蘭の花を確かめていて、ふと思い出したようにわたしを振り返る。いつも一人でさみしかろう、これで遊ばんね、と祖母は花切り鋏をわたしに手渡す。わたしは金魚をやめて両肢を生やし、声を取り戻す。はぁい、じゃあ、おままごとしていい? よかよ。祖母は納屋から、祖母の父が使っていたという古い木製のおかもちを土間に持ってくる。午後の光にくろぐろとひかる古木を軋ませながら、中に詰まっていたたくさんの弁当箱を取り出す。花たちが一斉に息を吞む。
蘭以外は、庭と玄関にある花を好きなだけ千切っていいと言いおいて、祖母は畑へ行ってしまった。わたしは生えたばかりの肢を少し持て余しながら、午後の土間でぐるりとあたりを見渡し、それから金魚草の色とりどりの花先を、ちょきんちょきん、千切った。金魚のままだったら花たちの金切り声が聞こえただろうけれど、多くを受け取れない人のかたちはこんな時だけ便利だ。大きく息を吸って、吐く。
時が光となって降り注ぐ中、わたしは午後の底で、古びた木製の器に花を散らし、ひとつひとつ、遠き亡き人たちに弁当を拵えた。材料が足りない。鋏を握る。わたしは人だ、と言い聞かせて午後の水底の花々を千切る。レモンイエローの花をたくさんつけた金魚草。花弁の一部がめくれたヴィオラ。千切るとすぐに茶色くなってしまう梔子。南天の実り。ピンクのゼラニウム。真っ赤なダリア。群れるオレンジ色のポピー。葉牡丹は一枚ずつ引き剥がしてレタスの代わりにする。石壁に自生していたスミレも、パセリに見立てて端に飾る。
祖母が畑から戻ってくる。あら、きれいにできとるね。いただきます。この黄色かと、おいしかね。おばあちゃん、今日はお弁当、たくさんできたよ。おじいちゃんにもどうぞ。花弁当の一つを受け取った祖母は、仏壇にそれを捧げて線香をあげ、おりんを鳴らした。香が鼻先まで漂ってきて、まだ残っていたえらがぴくりと緊張した。わざと少しむせてみせる。ごほ、ごほ。
おやつばたべようか。すいかが冷えとるけん、上がってこんね。祖母の声にわたしは首を縦に振る。さようなら水底。すでにわたしは金魚ではなかったけれど、ここでしか吐けない、小さな泡が好きだった。こぽぽぽ、こぽぽ、ぼ。ぽ。

柱時計が二つ音を立てた。ぼーん、ぼーんと、午前二時。夜に沈む玄関を横切り、母屋の厠へ向かう。天井裏では鼠が足音を立てている。ごとごと、ごとごと。ふと土間を見やると、片づけしそびれた朽ちた木製の箱の中で、花々は声もなく萎れている。真夜中の水底は沈黙し、瞳を得た夜がわたしをじろり、と見つめる。
夜の水に満たされた玄関を、尾鰭の名残だけを生やした中途半端な姿のまま,横切る。屍に満ちた夜の中、蕾を閉じた蘭だけが、まもなく売られていくという事実にただ俯いていた。土間に降りると、青い水底が、つめたさでわたしの肢を縫い留めてしまった。かなしみにも祈りにも懺悔にもならない声を吐く。こぼぼ、ぼぼ。金魚草は笑みのかたちのまましなび、白目を剥いてわたしを見ている。夜が手を放してくれないので、どこへも行くことができないわたしの尿意は堰を切り、ひれに似た夜着をただ重く濡らした。

		(初出「詩誌『Rurikarakusa』24」

「金魚草」について 松下育男

すごいなと思いながら読みました。静謐な、ひとつの世界がここにでき上がっています。その世界を、読者は顔を近づけて見入るばかりです。

人から金魚へ、金魚から足を生やした人へ。その人にはひそかに鰭が残っていて、と、こういう発想をすることはできても、それをきちんと作品に定着することは並大抵のことではありません。

読む人の感情や受け止め方の隅々をしっかりわかっているのだろうなと想像するばかりです。

とてもよくできた詩です。

そしてこれほど緻密にでき上がった散文詩を、ぼくは今の詩の世界ではそれほどに知りません。最近の雪柳さんの詩は、どの詩を読んでも驚くべき完成度を示しています。どの言葉も見事に詩を生かすために役立っています。

もしも今日、特に急ぎの用事がないのなら、この詩を読んで、ゆったりと金魚の気持ちになって、命を揺らめかせながら気持ちよく過ごす、というのはいかがでしょう。

「気配が去ると、わたしはほっとして花々の間から顔を出す。水底の向こう、遠くの鉢植えからヴィオラが目配せを返してくれた。こぽぽぽ。」

なんて素敵なんだろう。言葉って、どこまで美しくなれるんだろう。

(74)

「道でひろった称号」   山本有香

 今日、称号を手に入れた。道でひろったのだ。ひろったといっても、保安官のバッジのような形をしていて裏に私の名前と何かの番号が彫り込まれてあったから問題はないと思う。要は私のためにだれかが道に置いておいてくれたというのが正しい。
 それは買い物の帰りであったから買った野菜なんかが汚れないように、ハンカチに包んで買い物袋に入れて帰った。夕食のあとにめがねふきでふいてみるとずいぶん清潔な感じになったので、冷蔵庫の上に置いて眠った。
 朝になってみると称号はまだ冷蔵庫の上にあった。そこには電子レンジが置いてあるので、電子レンジの前とも言える。表の文字はラテン語のようで読めない。辞書を引こうと思っていると、家の者が洗濯かごを背後に置いてこれ干しといてと言って去った。称号をつけていないのがいけなかったかもしれない。私は左胸に称号をピンどめしてみた。
 洗濯物を干してからおもてに出てみると、ちょうど郵便局員のバイクが来ていたので郵便物を直接受け取った。手紙を手渡すときに局員は私の左胸をちらりと見て、少し驚いた後に敵意のような表情を浮かべた。それは彼が称号を持っていないことを示していた。エンジン音を批判的に響かせてバイクは遠ざかっていった。
 それから十時になったのでスーパーに行った。会計のときに店員がまた私の称号を見た。いつも行っているスーパーのその店員は愛想がよく、なかば顔見知りのような相手だった。「まあ、お疲れ様でした。これからもがんばってくださいね」と彼女はほほえみ、それから「一八九二円です」と言った。釣り銭を受け取って袋に買った物を詰めていると、同じ荷造り台の年寄りが鼻を鳴らして通り過ぎた。
 やがて称号をつけていると、相手が称号を持っているかどうかの見当がつくようになった。それらしい場合は少ないが、まったくいないわけではない。多くの人は見た瞬間に驚いた顔をし、それから羨むような怒りのような表情を向けた。持っているらしい人は笑顔を見せ、理由のない連帯感のようなものをにじませた。
 おそらく称号じたいには何の意味もないのだろう。称号をつけていても家事の担当は変わらないし、買い物が値引きになるわけでもない。会社では少しはほめられたが、給料を上げてくれることもなかった。ただ称号のまわりに、それを見た個人の感情と評価があるだけだった。
 それでも一ヶ月ほどはつけていただろう。ある日郵便受けを見ると、称号保持者だけの集まりがあるからご招待するという意味の葉書が届いていた。場所は駅前のホテルである。大きな宴会場がついていて、会社の催しで一度だけ行ったことがあった。
 ホテルに着いてみると、集まりはこちらという大きな矢印を描いた看板を学生風の男が持っていた。彼は明らかに称号を持っていなかった。卑屈なほどていねいにおじぎをして、こちらですと奥を指した。奥にはまた案内役がおり、私は自分の席まで連れて行かれた。
 部屋は会社のときとは別の広間で、一つ六人ほどのテーブルに分かれて懇談する形式のようだった。私のテーブルは同じような年のころの若者三人に、老人の入り口にさしかかったといっていい夫婦らしい男女がいた。はじめに司会者が本日は称号保持者が一同に会する貴重な機会であるというようなことを述べ、あとは懇談の時間になった。
「あなたはいつ称号をとったんですか」と老夫婦の夫の方が聞いた。
「二年前です。五年かかりました」と若者の一人が答えた。
「私は六年です。あなたは優秀ですね」と夫はグラスをかかげて見せた。
 称号は本来、時間をかけて得るもののようだった。その期間についての質問がテーブルで一巡しようとしたとき、私の答える番が回って来た。私は先月道でひろったと答えた。その途端私のテーブルだけでなく会場の人々が皆静まり返った。やがて老夫婦の妻の方がうすわらいしながら口を開いた。
「あなたそれは比喩でしょう。ご謙遜を」
「いいえ、比喩ではなく道でひろったんです。買い物の帰りに」と私は言い、自分の名前と登録番号が入っていたので問題ないと思ったと説明した。
 妻の方は不愉快な顔をして黙ってしまった。若者たちは称号を持たない者のように私をにらみつけた。別のテーブルの人々が係員まで聞き耳を立てているのが分かった。私は酒をやたらに飲んだ。そのうち休憩時間がはさまれ、私はホテルの外へ出たまま家に帰った。
 以来称号はひろってきたときのように冷蔵庫の上、もしくは電子レンジの前にある。称号をときどき裏返してみると、依然として私の名前と番号がしっかりと彫り込まれている。燃えないごみの日に出してしまおうかとも思ったのだが、名前が入っている以上だれが捨てたのか分かってしまうのでやめた。
 あれからあの集まりを主催した団体から連絡はない。称号を返せと言ってくることもない。それはおそらく称号じたいに意味はないからだ。意味は称号のまわりだけを衛星のようにまわっている。私は称号を電子レンジの下へ押し込んだ。

「道でひろった称号」について        松下育男

興味深く読みました。

詩の始まりは道で何かを拾ったというもので、その「何か」から物語が展開してゆく、というものです。それほど珍しい始まり方ではありませんが、そしてこういった詩は、たいていの場合は、途中でありふれた内容になってしまいますが、この詩は、最後まで緩みなく書かれています。

道で「称号」を拾ったというのです。それだけで、読者はこの詩の中の世界に入り込んでしまいます。

「称号」という言葉は通常、「何かの権威の意味を持つ称号」であるのですが、ここでは「単なる称号」です。

となると、肩書きを外した称号ということになり、自己矛盾を来たし、それがまた奇妙な感覚をもたらします。

どこか、夢の中のような不条理な感覚で進んでゆくのかなと思っていたら、しっかりとした粗筋があって、称号というものの不可思議さに、最後まで疑問を持った人の、生真面目な思考が続いています。

ここで書かれている称号というものから、どうしても人の名誉欲を考えてしまうのは、ぼくが汚れているからかも知れません。

人との差異を求めたい、人よりも高みへ立ちたい、権威からの承認が欲しいなど、人間の、つらくもあさましい欲そのものを思い浮かべました。

そういった意味で、この詩の最後の方で「燃えないごみの日に出してしまおうかとも思ったのだが」と思い、「私は称号を電子レンジの下へ押し込んだ」というのは、この詩の中の人が、依然、健全な心持ちを持っているのだなと思い、ほっとしました。

* 
   
(75)

「どんなに風が吹いても平気」        十谷あとり

今朝髪をととのえて
合わせ鏡で自分の頭の後ろ側を見た
自分の頭のてっぺんは見えない
手の届くところにあるというのに

わたしに旋毛があるのなら
角があっても不思議はない
旋毛がふたつある人のように
あるかもしれない角が二本

角なんて あってよし なくてよし
あるのであればあるままに
それもだいじな全部の一部
そうか どうしてどこも悪くないのに
頭が痛いのか わけがわかった
見えない角をないものと思って
あっちこっちに平気でぶつけて

「旋毛のあたりの髪が薄いのが気になります
ここがもう少し目立たないようにはなりませんか」
「かしこまりました トップをふんわりさせてみましょう」
硝子と鏡でできた美容室に行けば
ベテランのスタイリストが髪型を工夫してくれる

「わたしの角 生え癖があって横に飛び出してしまうんです
どうしたらうまくおさまりますか」
「そうですね、お客様の角はとてもいい角なので
逆に角を生かしてみませんか」

真夏の美容室の帰りは つばの広い真っ白な帽子をかぶって
がたがたの坂を自転車で力いっぱい駆けおりる
帽子に二つ穴を開け
そこから角を出してあるから
どんなに風が吹いても平気

「どんなに風が吹いても平気」について   松下育男

恥ずかしながら、旋毛を「つむじ」と読むのだと知りませんでした。

それで、そのつむじから角が生えていたら、という仮定の自分を想像して詩にしてしまう、ということです。

つむじに角が生えたら、という発想も面白いですが、その面白さだけで詩が終わっていないところがこの詩のすごいところです。

つまり、「どうしてどこも悪くないのに/頭が痛いのか わけがわかった/見えない角をないものと思って/あっちこっちに平気でぶつけて」ということで、そうか、いつも悩まされている頭痛には、そんな奇想天外な理由があったのかと思えば、おかしくもなり、こんなところが、この詩はとても上手くできているなと思うのです。

これは一般的な話ですが、一つの詩にテーマはひとつでも、そこに含まれる気の利いた発想が二つか三つあると、詩は間違いなく充実してくると思います。

最後も、「がたがたの坂を自転車で力いっぱい駆けおりる/帽子に二つ穴を開け/そこから角を出してあるから/どんなに風が吹いても平気」とは、なんとすがすがしい詩の終わり方かと思うのです。

このどうしようもなく暑い夏の一日に、ほっとして読める、さわやかな一編です。

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