詩人 上手宰について
「詩人 上手宰について」
それでは上手さんについて少し話をしたいと思います。
先ほど上手さんの話にあった、壷井繁治賞で上手さんを「かわいそうな詩人」と言ったという張本人の松下です。ぼくはそんなことを言った記憶がないんだけど、もし言ったとしたら、その前段に何か言っていて、万感の思いを込めて「かわいそう」という日本語をつかったのだと思います。
で、受賞詩集の話をする前に上手さんとの出会いというか、なぜ上手さんの授賞式に僕が出てきているんだというところから話します。
上手さんと初めて会ったのは20代の半ばでした。2人とも今よりもずっと無口で、さっき服部誕さんが若い頃は生意気だったと言っていましたが、ぼくも生意気でしたし、上手さんはもっと生意気でした。その頃のことです。
1970年代ですね。ずいぶん昔ですけど。東京の大久保駅近くの喫茶店で会いました。2人ともかなりな自意識過剰で、向かい合わせに座っているのに、ロクに顔もあげないで、詩のことばかり考えていて、会っていきなり詩の話をしていました。一緒に同人誌を始めないかということで集まったんです。だからすごく緊張をしていたし、でもこの緊張には意味があるんだとその時に感じていました。
その詩人と40年以上も経って、いまだに会っているということに感慨深いものがあります。ましてや授賞式によばれるなんて、こんなに嬉しいことはありません。
その時に何人かが一緒に集まって創刊した雑誌が
「グッドバイ」という雑誌で、まあ雑誌の名前からして何かを暗示しているような名前なんですけど、結局、現実もその通りになりました、
最初に「グッドバイ」からグッドバイをしたのが
だれあろう上手さんだったのです。上手さんは「グッドバイ」を去って、別の雑誌を始めました。今度の雑誌の名前は「冊」といいます。一冊二冊と本を数えていく「冊」。いい名前です。ずっと続けて号数を重ねてゆく、その重なりの数詞が雑誌の名前になっています。一冊二冊三冊と重ね重ねて今に至って続いています。詩は真摯にそこに積み重ねられてきました。それ以来、上手さんの多くの傑作は「冊」に載せられてきました。
(詩集を読むときに)
で、さっそく詩集の話に移りたいと思うのですが、ふと考えてみて、人の詩集を読むときに、この詩集のどこがすぐれているか、それを見つけようとか、そんなに理屈っぽいことを考えて読んでいるわけではありません。なにも考えないで読んでいる。だからありのままに感じることができる。そう思うんです。
詩を読むっていうのはひとことで言って、読んでいてぐっとくるかどうか。そこなんじゃないかと思うんです。単にそこなんじゃないかと。上手さんの詩は、とにかくぐっとくるんです。どの一篇も気持ちのいい詠嘆なんです。声高ではない詠嘆。
理屈では何でも言えるんです。詩はこうであるべきだとか、どういった傾向の詩をよしとするかとか、時代を反映しているかとか、他の詩人と比べてどうだとか、話をしようと思えばいろいろとあるわけで、そういうのも意味がないとは思わないんですけど、もっとぎりぎりの本音を言うならば、詩を読んだり、鑑賞するっていうのはそういうことではないのではないかと思うんです。
この詩集が言っていることは、「詩は理屈ではないんだ、論理の外にあるんだ」ということなんです。
この『しおり紐のしまい方』を読んでいると、いろんなところでたくさん線を引きたくなるんです。ぐっときてしまって言葉が出てこなくなるんです。
僕がうれしいのは、この詩集が賞を獲ったことによってこの詩集を読む人が増えてくれるだろうという事なんです。読んでもらえなければどんなにすぐれた詩集もなにものでもないわけです。ともかくも上手宰の詩を読んでくださいとそう言いたいのです。
この詩集のよさは、日本の詩によくあるタイプの
「言葉では言えないけどなんかいい」というのではなくて、「ここがこうだからいい」のだという
納得ずくのすぐれた詩集なのです。
で、ぐっとくるだけで話を終わらすわけにも行かないので、この詩集の秀でたところを4つばかり話をしたいと思います。
(1 多用される擬人法)
一つ目は、誰が読んでも気がつくと思うのですが
擬人法があちこちに使われていることです。擬人といっても人にちょっと喩えるというのではなく
、あらゆるものが、空が、大地が、河が 水が 時が 岸が 言葉が、さらに罪とか罰までもが
生きていることの、ありとあらゆるものが、もともと人であったかのような、命があったかのような丸ごとの徹底的な擬人なんです。
取り憑かれたような擬人法。まるでそっちの方が
もともとの姿であったかのような そんな擬人法なんです。
上手さんは擬人というワザを極めている。そう思います。
ちなみに表題作の「しおり紐」は、擬人で命を与えられてどうしているかというと「途方にくれている」のです。命を持たされたけれども途方に暮れている。あるいは命を与えられたから途方にくれている。人に擬されているものは大抵は途方にくれている。生まれ出たことに途方にくれている。それはいうまでもなく上手さん自身の姿であるのだろうと思うわけです。
人の気持ちにどこまでやさしく触れることが出来るのか。その限度を見極めることに途方にくれているのかなと思えるんです。
(2 理解可能、鑑賞可能)
擬人法の次に2番目に気がつくのは、これらの詩がまるごと理解可能で鑑賞可能な詩であるということです。
詩を読み慣れた人にとってそうであるだけではなく、滅多に詩を読まない人でもそのよさがしっかりと伝わってくる。
だからと言って人に分ってもらうために何かを犠牲にして、妥協して、そのような詩を書いているわけではないのです。
目一杯の表現を駆使して、それでいて多くの読者に入り込める詩を可能にしています。言うのは簡単なんですけど、実際にそのような詩はなかなか書けないんです。
つい自分だけの感慨にふけって、自分だけの思考の奥に潜り込んで、人から見るとなんだかとっつきにくい詩になってしまう、それが大抵の詩なんです。
でも上手さんの場合はそうではない。自分だけの深みに入り込むときに、きちんとまわりを見ているんです。読者を待っていてくれるんです。
この詩集の特筆すべきところは、じっくりと読み解けば理解不能な行が一行もないことなんです。全体が白日の下に晒されているんです。
考えてみるとそういう詩人はめったに思い至らないのです。
(3 徹底的に書き切る)
3つ目の特徴は、書いたことを正確に理解してもらいたいという上手さんのしつこさです。上手さんの詩は時々くどいほど言葉を追加して詩で言わんとすることを徹底的に書き切ってゆく。
その方法はたぶん詩の書きかたの鉄則からは外れているんだと思うんです。
僕は横浜で詩の教室をやっているんですけど
そこでよく言うのは、くどくど説明するなとか、言葉を削れとか、そういうことなんです。
もっと言葉を削って言いたいことをそのまま書かないで、さらっと言って、あとは読者の読みにまかせる。読者の読みが丁寧に補完してくれる。そういうのが切れ味のいい詩だと言っているんです。
でも上手さんの詩はそんな教えを無視している。ひたすら書きたいように書く。書きたいことはいくらでも書く。思う存分書く。しつこいほどに書く。説明だろうが何だろうがかまわずに書く。
自分の書いた詩を読んでもらって意味が分らないと言われるのがいやなのだろうと思うんです。
ただ、書きたいことをしつこくても書きたいだけ書くというのはふと立ち止まって考えてみると、しごくまっとうな態度であると思うわけです。
つまり上手さんの詩には書かれるべき内容がしっかりとある詩だということなんです。
試しにこの詩集の中の詩の言葉をもっとスッキリと削ってゆくことはできます。でもそうすると、やってみればわかるんですけど、詩から輝きが失われてしまうんです。
つまりね、詩を書くための方法はたった一つではない、人それぞれなんだと納得するわけです。
上手さんの詩には上手さんの書きかたがある。それは上手さんが一番よく知っているのだと当たり前のことに気づくのです。
上手さんの詩の魅力はこれでもかと言葉を尽くしてゆく、その尽くしかたの迫力にあるのです。その呼吸の熱さにあるのです。
(4 継続する詩業)
それから最後、4番目はこの詩集の特徴というよりも、上手さんの他の詩集にもまたがってのことなのですけど、上手さんはこの詩集で賞を獲ったわけですが、なにもこれまでの詩集よりもこの詩集が特に秀でていたからというわけでもないんです。
この詩集がすばらしいことは言うまでもないのですが、この詩集以前にもずっと優れた詩を書いていました。上手さんはこれまでもずっと感動的で高度なレベルの詩を維持して書き続けてきた。
☆
維持して書き続けてきたんですけど、それでもその継続して書き続けてきた中で、ひとつ気がつくことがあるんです。上手さんの詩は ある時点で明らかに変わってきました。
変わったのはでも最近ではなく、もうずっと以前
おそらく家庭をもった頃からなのかなと思うのです。
上手さんの詩は、若い頃のとがっていた頃の詩もよかったけれども、結婚をして、子供が生まれて、家庭を持ってから明らかに変わりました。さらに深みのある上手さん独特の視点と言葉を持った詩になっていった。
奥さんや子供とともに、その時間とともに詩も育っていった。そう思うんです。
だから上手さんの詩は、上手さんだけの努力や才能によって生み出されたものではなくて、奥さんや子供達の影響によるところも少なからずあったんじゃないかと思うんです。そうなってからはさらにすごい詩を書くようになった。
☆
話は以上ですが、、最後にひとつだけこの詩集の読み方についての話です。この詩集は一気に読んではいけない詩集です。詩をひとつ読んだらいったん本を閉じる。しばらく読んだ詩にうっとりとしている。それからまた本を開いて、次の詩を読む。そうやって読まれるべき詩集です。そのためにしおり紐が付いているんです。
以上です。