詩を書く理由
「詩の教室」で詩を読んでいると、「この人は、この詩を書いている時はさぞ楽しかっただろうな」と思われる詩が時折あります。書かれている詩の内容が明るいか暗いかということではなくて、あるいは、詩がうまいか下手かではなくて、そういうことは別にして、書いていることが楽しかったのだろうなと感じられる詩です。
それって、詩を読んでいると、展開などから、こちらにも伝わってくるんです。なんだか書いていることが好き勝手な方向へ向かっているなとか、言葉がカチッと嵌まった感じなのだろうなとか、よくこんなに書きたいように書いているなとか、そういうのが、読んでいるとひしひしと感じられてくるんです。
「書いていて楽しい」と感じることは、「なぜ私は詩を書くか」という疑問に対する、最も明解な、まぎれのない答えなのかなと思います。詩を書くことの、究極の目的なんじゃないかと思うんです。
詩を書いていて楽しい思いを抱けるって、生きていることにも、ささやかでも役に立ってくれている、ということだと思うんです。
書いたあとで、その詩は褒められるかもしれませんし、全く人に通じないかもしれません。それは書いた本人にも、詩にもわかりません。
でも、結果がどちらにしろ、書いている時に、書いている人を幸せな気分にしてくれる詩、というのは、それだけで、書かれる意味はすでにあったということです。
書いている時に楽しかったかどうか、という判断はとても大事にしたいと思いますし、その喜びを読んでもらう詩があってもよいかなと思います。
ぼくが歳をとってもこうやって詩の教室をやっているのも、難しい理屈や理由があるからではないんです。もうすぐ詩の教室が予定されているなと思うと、やっぱり嬉しいし、そのための準備も楽しい。だからやっているんです。
なんかね、毎日暮らしていると、嫌なことや傷つくことは次々にあるけど、楽しいこと、嬉しいことって、滅多にないです。ですから、外から楽しいことなんて、待っていてもほとんど来ないから、自分で、一人でいるときに、夢中になって自分を楽しくさせてあげることがあるって、すごいことなんじゃないかなと思うんです。
楽しいかどうか、というのはごまかしようのない判断基準です。詩を書くことも、生きてゆくことも、判断に迷った時は、たいてい、胸に手をあてて、素直になって、そこで決めてしまっていいのかなと、ぼくは思うんです。