「現代詩の入り口」35 ー 言葉と命の意味に心震わせたいなら、谷川俊太郎の詩を読んでみよう。
今回は谷川俊太郎さんの詩について、考えてみようかと思います。
*
昨年、谷川さんが亡くなりました。詩の世界にとっては大きな出来事です。
それで、今日は谷川さんの何の話をしようかなと思っていたんですけど、思いつくままに、谷川さんというと何を考えてしまうかを話してみようと思います。気楽に聞いください。
思いつくままに9つばかり話をします。
(ただ詩を楽しんでいただけ)
まず一つ目は、いろんなこまごましたことを取り除いてみると、谷川さんって、ただ詩を楽しんでいただけなのではないか、ということです。
谷川さんってどんな存在だったか、と言いますと、ぼくにとっては、とにかく特別な人、驚くべき人だったんです。なにに驚くかと言えば、語ること、書く事が、どれも、いつでも、なるほどなと感心してしまうことなんです。目を開かれる思いがするんです。
次から次へすばらしい詩を書ける人ってホントにいるんだと思い、ただただ尊敬していました。
それで、なんというか、すごい詩を書いても、それがたまたま書けることって、誰にでもあると思うんですけど、谷川さんだけは、そういうふうには見えないんです。谷川さんの頭脳から出てきたものは、どれも人を感心させ、人を感動させてくれるもののように感じていました。
それはなんと言うか、発想とか思いつきだけででき上がった詩ではなく、その裏には、優れて柔軟な知性と常識に裏付けられていたからなのではないかと思うんです。
ですから、これほど有名な詩人になったのも、あたり前というか、大抵の人は納得がいくと思うんです。
今、有名、と言いましたが、谷川さんは間違いなく有名な詩人です。それで、有名な詩人って、詩を書いている人の多くは自分もそうなりたいと思うと思うんです。
ぼくにもそういった願いはありました。
でも、谷川さんのような詩人は、別に有名な詩人になりたいなんて思っていなかったんではないかと思うんです。
これはぼくの勝手な思いなんですけど、日本の詩の狭い世界の中で、自分が人よりも有名になったとかって、なんというか、どうでもいいことなんであって、そういうところとは別のところで、谷川さんは自分の詩を楽しく書いていただけなのではないか、そんな気がするんです。
詩の世界って、あまり読者も多くありませんし、上も下もない自由な世界でありたいと、どの詩人も平等なんだと、ぼくは思うんです。
谷川俊太郎だって、ぼくらだって、詩を思いついた時の喜びは同じだし、詩を書き始めたら夢中になってその中に入り込んでしまうことも同じです。
谷川さんのすごさは、どんなに有名になっても、大家のような振る舞いや顔をしないということだと思うんです。そしてそれは、無理して威張らないようにしようとしていたのではなくて、同じ詩を書くもの同士は、みな同じ場所に立っていて、上も下もないのだということを芯から感じていて、詩を書く事の楽しさを分かち合いたいと、それを中心に思っていたからなのではないかと思うんです。
ですから、谷川さんはいろんなところへ行って朗読もしましたし、パフォーマンスもしました。対談もしました、詩の話もしました。それが楽しいからそうしていたんだと思うんです。
つまり、自分が偉ぶるために詩を書こうなんてしていないんです。自分のために詩を書いていたのではなくて、自分の詩のために詩を書いていたのではないかと思うんです。あるいは、詩を必要としている人のために詩を書いていたのではないかと思うんです。
個々の詩のすばらしさとともに、詩に向かう姿勢を、ぼくは谷川さんからきちんと学びたいと思うんです。
*
お送りしたテキストには、谷川さんの詩を五篇を載せました。
かなしみ
朝のリレー
鳥羽 1
生きる
あれにしようかこれにしようか散々迷った挙旬に買った結婚祝につけて水尾比呂志に贈る祝婚歌。又は、ハンカチーフの能について。
の五篇です。
(有名な詩が多い)
2番目に思うことは、とんでもなく知られている詩が多い、ということです。
これらは代表作、というか、すごく有名な詩ばかりです。それで驚くのは、こんなに沢山の有名な詩がある詩人って、ぼくには他に思い当たらないんです。昔の詩人なら、北原白秋とか萩原朔太郎とか、中原中也とか、確かに複数の有名な詩を書いて、その詩が詩の世界だけではなくて、多くの人に知られている詩人っていましたけど、戦後では、茨木のり子さんがそれに近いかも知れませんけど、やはり谷川さんだけなのかなと思うんです。
有名な詩がいくつも書けるってどういうことだろう、って考えてしまうんです。そういう詩人って、ぼくと何が違うんだろう。その差は埋めることはできないと思うんですけど、何が谷川さんと自分と違うのだろうと考えることは、案外、詩そのものについて考えることにもなると思うんです。
暇があったら考えてみてください。
(嫌いな人がいない)
3番目に思うことは、谷川さんの詩を嫌いな人って、めったにいないということです。
多くの人に好かれていた詩人であるとともに、谷川さんの詩が嫌いだという人に、ぼくはめったに会ったことがありません。ホントは全然いないと言いたいところなんですけど、たまに谷川さんの詩は面白くないと言う人がいることに最近気づいたので、「めったに」と言ったんです。
谷川さんでなくても、有名な詩人っていますけど、誰かを思い浮かべてみると、その詩人がすごく好きだという人がいると同時に、その詩人のどこがいいのかわからないという人も結構いるものなんです。
でも谷川さんの詩には、ほとんど嫌いな人がいない。そこにはとても重要なことが潜んでいるのではないかと思うんです。
ただ昨年だったか、ぼくの友人の詩人の話を聴きに行った時に、参加者はほとんど老人でしたが、ひとりのお婆さんが、「新聞によく谷川俊太郎の詩が載っているけど、ぜんぜん面白くない」と言っていて、それをそばで聞いたぼくは驚いたんですけど、そうしたら、別のご老人、こちらはおじいさんでしたけど、「確かに面白くないね」と言っているんです。それでぼくはまた驚いて、そうしたらぼくの友達である詩人が、「いや、谷川さんの詩はいいですよ、いいものがたくさんありますよ」というようなことを二人に言って、最初のお婆さんが「そうですかね」とか言って、話が別の方に行ってしまって、谷川さんの詩についての話は終ったんです。
それでぼくが思ったのは、もちろんすべての人が好きになる詩人はいないのだ、というあたり前のことと、それから、その人を好きでないという人がいる、ということに驚いてしまうというのは、逆に言うと、それはなんともすごいことだなとあらためて思うんです。
ところで、嫌いな人がほとんどいない詩を書くって、どういうことだろうって、考えてしまうんです。みなさんも、暇な時があったら考えてみてください。嫌われない詩ってなんだろうって。
ところで、お送りしたテキストには、詩の他に、最初にぼくのコメントが載せてあって、
(1)多くの人に感銘を与える詩とは何かを、考えてみよう。
(2)詩にとっての読者とは誰か、ということについて考えてみよう。
(3)言葉の意味をそのまま使う詩、というものを考えてみよう。
の3つのことが書いてあります。
(文体にも言葉の使い方にも癖がない)
これらについても、ご自身で楽しみながら考えてもらいたいんですけど、それで、ひとつひとつに付いて話をするつもりもないんですけど、ぼくなりに考えていることを話せば、これらの問いすべてに関係しているのは、「言葉の意味」ということなのかなと、思うんです。
ということで、思ったことの4つ目は、「言葉の意味」と詩についての関係のことです。
詩の感じ方って、単に意味で読ませるものだけでないのはわかっています。それで、谷川さんの詩にもいろいろありますから、意味以外にも、リズムや文体の面白さや、あるいは言うに言われぬ魅力によって惹きつける詩があることも知っています。でも、大きく見ると、やはり谷川さんの詩って、「意味の詩」だと思うんです。それも、言葉に特別な意味を付け加えるのではなくて、今ある言葉そのものの意味を使って、今ある日本語の文法そのままを使って、つまりはありのままの母国語を使って、書かれた詩だと思うんです。
それって、昨年亡くなった新川和江さんの詩にも共通しているように思えるんです。
妙な癖のない、特別な文体をこしらえるのでもない、どこにでもある日本語で、その意味をそのまま駆使して詩を作り上げている。それが、ぼくがあげた三つの宿題、
(1)多くの人に感銘を与える詩とは何かを、考えてみよう。
(2)詩にとっての読者とは何か、ということについて考えてみよう。
(3)言葉の意味をそのまま使う詩、というものを考えてみよう。
に繋がっているように思えるんです。
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それで、つまりは特別な武器を持たずに谷川さんはみんなと同じ条件で詩を書いてきて、それでも、谷川さん以外の多くの詩人が成し遂げられないことをしてきました。
詩人には二種類いますね。大ざっぱに言えば、クセのある詩人とクセのない詩人です。言葉遣いや文体に、その詩人独特のクセがあって、そのクセが、まさに読む人にとってはクセになって、その詩人に惹かれることってことがあります。
一方、谷川さんには、言葉遣いにも、文体にも、比喩にしても、特段なクセがないように感じます。茨木のり子さんも、新川和江さんも、クセのない詩を書いています。クセのある詩人は、そのクセを魅力として詩を書きますけど、ではクセのない詩人の魅力はどこかと言いますと、書かれている内容そのものですね。言葉にはその言葉本来の役割しか担わせていないのですから、あとは、書いていることの内容、その意味合いで、詩を際立たせているということです。
ですから、クセのある詩人は、どんな詩を書いてもそのクセで読ませることができますが、谷川さんのように、クセのない詩人は、ひとつひとつの詩で、出発点に戻って、なにもないところから詩を作り上げなければならないし、そうすることによって、場合によっては、つまらない詩を書いてしまう恐れもあります。
そういった、とても恐い場所で書いていて、結局、高齢になるまで見事な詩を書き続けたというのは、ほんとに驚嘆に値します。
そしてこれは、ぼくの偏った考え方かもしれませんし、詩は、個別の詩によって語られなければならないことは知っているのですが、敢て言うならば、意味を尊重した詩の可能性は、まだまだ無限にあるのではないかと思うのです。
それは逆も言えて、意味を重視した詩はどこまでもありふれたつまらない詩にもなりうるということでもあります。
生まれた時にはただの普通の日本語なのですから、そこに詩人の特別なクセはついていないのですから、胸をうつのも限りなく、がっかりするのも限りなく、ということなのだと思います。
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さらに、5つ目に考えたことは、谷川さんは詩人のイメージを変えた、ということです。
一週間くらい前にぼくはXに次のように書きました。
幸せになってしまったら詩が書けなくなる、と昔から言われているけれど、
幸せな人も詩が書けると証明してみせてくれたのは、谷川俊太郎さんだった。
若い感性だけが詩を書ける、と昔から言われているけれど、
老人になっても艶やかな詩が書けると証明してみせてくれたのも、谷川俊太郎さんだった。
そう書いたのは、ずっとそう思っていたからで、なんというか、これは詩人というイメージに関することなんですけど、昔の詩人って、どこか普通の人じゃない、っていう感じがしたんです。詩のためには生活なんかどうでもいいとか、破滅的な、退廃的な臭いがしたんです。
でも谷川さんって、それまでの詩人というイメージとは違っていて、いたって普通の人だと思うんです。詩を書かなくても、普通の人として常識もあって、普通に生活して、でも詩は書きます、っていうイメージなんです。
それって、谷川さんだけの問題ではなくて、時代が要請する「詩人」という言葉のイメージそのものを変えてくれたようにも思えるんです。
詩のために生活を犠牲にしなくても、周りを不幸にしなくても、詩は書いてゆけるんだって、そういう感じがするんです。
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(いくつかのポケット)
6つ目に考えたことは、いくつかの発想のポケットを持つ、ということです。
谷川さんの詩を思う時、ひとりの詩人にとっての対極とはなにか。振り幅とはなにか。その核はどちらにあるのか。あるいはその中間にあるのか。そんなことを考えてしまいます。
谷川さんって、詩を作るときにいくつかのポケットを持っていて、原稿依頼があるたびに、どのポケットから詩を生み出すかを選べるようなのです。
先ほど、谷川さんは普通の人だと言ったんですけど、よく見てみるとやっぱり普通ではないなと思うんです。だって、相手によって詩を書き分けるって、普通の人にはなかなかできないと思うんです。つまり、ひとりの人が書けるものは、たったひとつのことで、ほかの詩を書こうとしてもできないだろうと思うんですけど、谷川さんはできてしまうんです。そして、谷川さんにとっては、たった一つのことを書いているよりも、そうやっていくつか目指すものをこしらえていた方が、創作に幅ができ、それぞれがさらに際立つ、ということがあるのかなと思うんです。
いくつかのポケットというのは、例えば、
散文詩と改行詩をかき分ける、とか、
子どもの詩と大人向けの詩をかき分けるとか、
一般的な雑誌に書く詩と、詩の専門誌(現代詩手帖)に書く詩を書き分けるとか、
切り口を変えて、いくつかのテーマや内容で詩を書き分けてゆく、とか
そういうことです。
それって、ぼくにはできないですけど、どうしてそうするかの理由はわかるような気もするんです。
例えば詩は「現代詩手帖」にしか書かない、ということで書いている人の場合と、その人が前の日は、子どものための詩を書いて発表して、さらに次の日に「現代詩手帖」に書いた場合は、あきらかに詩が違ってくると思うんです。
子どもの言葉や思考を経て、そののちに大人の詩に戻った時には、詩や言葉に、温かみや幅や多様な発想が齎されるのではないかと思うんです。
そういうことを考えますと、いくつかのポケットを持って詩を書いている人って、谷川さんだけではなくて、辻征夫さんもそういったところがありましたし、谷川さんや辻さんほどうまく書き分けられないとしても、ぼくらも意図して、一つきりの方法や内容ではなく、いくつかの種類の詩を平行して書くことによって、それぞれの詩に幅や深さや余裕を持たせることができるのではないかとも思うんです。
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(自分の詩が読める)
7つ目に考えたのは、谷川さんは自分の詩が読める、ということについてです。
自分の詩が読めたから、それがなんだと思うかもしれないんですけど、なんだそんなことかと言われるかもしれないんですけど、通常、人の詩はある程度正当に読めても、つまりよしあしはだいたい分かっても、自分の詩は、書いた本人なのに、というか、書いた本人だからこそ、そのよしあしがなかなか分からないものなんです。
自分では、夢中になって書いたものなので、書いた当初は、傑作に違いないと、たいてい思ってしまいますから、目が曇ってしまうんです。
でも、谷川さんは、そこのところが、普通ではなかったのではないかと、ぼくは想像するんです。
詩を書く自分とは別に、自分の書いた詩を読める自分がいたんだと思うんです。そしてそれは何かと言いますと、知性だと思うんです。知性と言っても、別に学歴とか、試験でいい点がとれるとか、そういうことではなくて、詩の感動する場所を見極めて、ぶれることがない、人の詩も自分の詩も、同じ計りで計れる、あるいは大きな目で世界や人を平等に見極めることができる、そのような知性を持っていたからなのだと思うのです。
意味を大切にして書いている詩、だからこそ、その意味が齎すものを計れるのは、知性なのではないかと思うんです。
冷静に言葉の可能性を見つめ、言葉に何ができるかを常に考え、自分が書いたものの価値を計れる、そのための知性が、谷川さんは際立っていたのではないかと思うんです。
そしてその知性には、血が通っていたとも思うんです。
繰り返しになりますが、谷川さんが、大詩人のような顔をして書斎にこもっていたのではなく、若い人とも朗読で一緒にやっていたり、さまざまな場所に行って語り、朗読したのも、自分のために詩を書いていたのではなく、詩そのもののために詩を書き、朗読し、語っていたのではないか。そしてそのあたたかな知性が、間違いなく私たちに、詩として与えられたのだと、ぼくは思うのです。
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(高みから見ていた)
8つ目に考えたのは、谷川さんは、高みから自分を含めて世界を見ていたのではないかということです。
谷川さんの詩を思う時、最初の詩集『二十億光年の孤独』の衝撃によるのでしょうけど、谷川さんはずっと高みから、この世界や、自分のことや、詩を、見下ろしていたようなイメージがあります。
ずっと高みというのは、空の奥、というよりも、宇宙そのものからです。
目の前の言葉だけを見てるのではなく、その後ろに、この世界、この宇宙を常に意識し、生きていることの意味の総体と、つり合おうとしていたのではないかと思えるんです。
谷川さんの詩は無味無臭で宇宙にただよっています。それでいて僕らの血液にじかに入り込んでもいる、というなんとも不可思議な詩人です。
谷川さんのように、ぼくも、意味を追い求め、自分の詩を見誤らない知性を持ち、血の通った詩行を少しでも、書ければと願っています。
*
(枠を広げた)
9つ目に考えたのは、谷川さんは詩や詩人のできることの枠を広げてくれた、ということです。
いうまでもなく、谷川さんの詩は書斎から町に大きく出ています。新聞の朝刊にどうどうと載っています。地下鉄の壁にも、自然科学や社会科学の論文の中にも、あらゆるところで谷川さんの詩を見ることがあります。テレビでアニメの主題歌も作ります。たくさんの学校のための校歌も作ります。合唱曲もたくさんあります。詩人でない人とも対談をします。朗読もします。絵本も、翻訳も、なんでもやってきました。そしてそのどれもに、谷川さんの魅力的な核がきちんと入り込んでいるんです。
谷川さんは詩人というもののやるべきこと、詩というもののできることの枠を大きく広げてくれました。
つまり、谷川さんが身をもって教えてくれたように、今ある現代詩という枠の中で詩を書いているばかりが、詩人の仕事ではないと、思いもするんです。
*
ということで、谷川さんのことを思いながら、9つのことを話してきました。
1つ目は、ただ詩を楽しんでいる、ということについてです。
2番目は、とんでもなく知られている詩が多いって、どういうことだろうということです。
3番目は、嫌われない詩ってなんだろう、ということです。
4つ目は、「言葉の意味」と詩についての関係のことです。
5つ目は、詩人のイメージについてです。
6つ目は、いくつかの発想のポケットを持つ、ということです。
7つ目は、自分の詩が読める、ということについてです。
8つ目は、高みから自分を含めて世界を見ていた、ということについてです。
9つ目は、詩や詩人のできることの枠を広げてくれた、ということです。
繰り返しになりますが、谷川さんが教えてくれたように、ぼくらはぼくらの詩と、もっと自分の可能性を信じて、詩をさまざまに楽しんでもいいのではないかと思うんです。
詩で、わたしたちの詩で何ができるかを、探りながら、既存の詩を楽しむように、わたしたちの可能性も、一緒に楽しんできたいと、考えるのです。
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さて、ここからは谷川俊太郎さんの詩を読んでゆきます。10篇あります。
川俊太郎さんの詩 10篇
「二十億光年の孤独」
「かなしみ」
「二つの四月」
「朝のリレー」
「鳥羽 1」
「生きる」
「かっぱ」
「ほほえみ」
「あれにしようかこれにしようか散々迷った挙旬に買った結婚祝につけて水尾比呂志に贈る祝婚歌。又は、ハンカチーフの能について。」
「なんでもないものの尊厳」
の10篇です。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」1
「二十億光年の孤独」
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
(中略)
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
✳︎
「二十億光年の孤独」について 松下育男
本日から谷川俊太郎さんの詩を読んでゆきます。許可をとっていないので、基本、作品は(ホントに短い詩を除いて)抄録にします。もし可能なら、谷川さんの詩集を買って、ここにとりあげる詩の全文を読んでください。その方がずっといいと思うから。
さて、本日は1回目です。
この詩が載っている谷川さんの第一詩集『二十億光年の孤独』は、1953年に出ています。三好達治の推薦文とともにさっそうとデヴューした谷川さんの詩は、当時確かに驚きをもって迎えられたことだろうと、容易に想像されます。
戦前の湿った叙情詩が、日本の敗戦とともにその軟弱さのゆえに批判されて、詩誌「荒地」や「列島」の、強固な思想をバックグラウンドに持った詩が提唱されていた頃に、この詩集は、戦後詩の別の入り口から、思想を前面に出すことなく、乾いた叙情を示してくれました。
そして特筆すべきことは、この詩が、戦前の湿り気を払拭しているにもかかわらず、読み手に、さしたる抵抗感もなくそのままの姿で理解され、味わってもらえたことです。特段な勉強をせずとも、この詩を読む人は、この新しい詩の魅力を、理屈からではなく、詩そのものから受取ったことです。
詩の基本は「わたくしのささやかな感じ方」です。そのささやかさを、共有するところに、密かな詩の喜びがあります。それなのにこの詩は、「わたくし」から出ていません。いきなり「人類」全体を歌おうとしています。
いったい、人類の詩なんて大きなものを書いて、くだらない詩にならないなんてありえないことだと、ぼくは思ったのです。どうどうと「人類は」なんて書けるのは、人類の一人ではありえないと思ったのです。
ところが、谷川俊太郎という青年は、「人類は」と詩を始めました。
それで人類はどうしたかと言うと「ときどき火星に仲間を欲しがったりする」とあります。なるほど人類全体のことを歌おうとしているのだから、そこに他者を持ってくるとしたら、隣の部屋の人ではなく、火星人なのです。いえ、この詩を読んでいると、ぼくはどうしても人類が火星人を思っているのではなくて、地球が火星を思い、手を伸しているように感じてしまい、そのような絵が思い浮かんでしまうのです。
それで、他者である火星人も、地球人を思っているのですが、火星人は普段何をしているかと言いますと「ネリリし キルルし ハララしている」とあります。これは地球語に直すと、言うまでもなく。「眠り起きそして働き」しているということなのでしょう。
ここを読むと、ぼくは火星人が鞄を持って朝、会社に向かっている姿を思い浮かべてしまうのです。懸命にハララしているのだろうなと、思ってしまうのです。
そんなことを思ってしまったら、もうこの詩にとらわれているということです。
そして3連目、忘れられない行が出てきます。
「万有引力とは
ひき合う孤独の力である」
この2行を読むたびに、ぼくは繰り返しすごいなと、ただただ感心してしまうのです。言葉ってすごいな、詩ってすごいな、と単純に俯いてしまうのです。地球人が孤独感から火星人を思い、火星人が同様に地球人を思っていることが、双方を引きつけあっていて、それが万有引力だなんて、なんとすごい発想なんだろうと、思うのです。
「万有引力」という言葉に血が通ってきて、微かに震え始めてでもいるようです。
もうひとつこの詩ですごいなと思うのは、最後の連の次の二行です。
「二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした」
最後にくしゃみが出てくるなんて、この詩をそこまで読んでいた人は、思いもしないだろうと思います。これほど大きな世界に広がった視点が、一気に口元のくしゃみに収斂してゆきます。
なんというダイナミックな動きであり、途方もないアイデアかと思います。
そしてぼくはこれまで多くの人の詩を読んできましたが、たまに、戦後の詩には、最後でくしゃみをするという詩を、見かけることがあります。
意識しているかどうかは別にして、明らかにその人も、谷川さんのこの詩に、内心びっくりして、そのびっくりがつい出てきてしまったのだろうなと思えば、影響を受けてしまったことも仕方がないかなと思うのです。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」2
「かなしみ」
あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
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「かなしみ」について 松下育男
この詩について何かを語る日が来るとは思いませんでした。この詩は、どこか、詩の原型のような気がするのです。この詩が、日本語の詩というものの大元の型であり、その型をもとにしてすべての詩が発生していったのではないか。そんな気がするのです。これだけの長さの詩の中に、詩の魅力がぎっしりつまっていて、あるいは、ぼくが生涯、詩に取り憑かれたその源が入っていて、詩のまぶしさそのもののような気がするのです。
この詩には、これまでの人生でさまざまなところで出会いました。詩の雑誌や詩集だけでなく、例えば経理関係の本の前書きや、どこかのだれかのエッセイや論文の中の引用として、ちょくちょく目にしてきました。
詩の中では、遺失物係の前に立って悲しくなったと書いてありますが、この詩自体は、なにも遺失物係に行かなくても、日本語の本の、いろんなところで見つけることができるのです。
それで、この詩の魅力は何だろうと、とても素直なところに戻って考えてみると、つまりは、タイトルにもあるように、人のかなしみがむき出しで描かれているところにあるのじゃないだろうかと、思うのです。人のかなしみとは、大人になれば誰もが感じる「ここに自分があることのかなしみ」です。言い換えるなら、「いつかここにいなくなるものとしてのかなしみです」。いえ、大人にならなくても、子供のころからそんなかなしみに包まれて私たちは生きてしまっています。
「過去の駅」の「過去」とは生まれ出たその瞬間を言うのでしょうか。そのようでもあり、もっと漠然とした「これまでのいつか」であっても構いません。
さらにこの詩は、人のかなしみだけではなく、動物や植物がここにあることのかなしみでもあり、さらに、空や雲や海や岩や、命のないものの、ここにあることのかなしみをも歌っているのではないかと思うのです。
それにしても、これほど短い詩で、ほぼ暗記してしまっているのに、読み返すたびに、透明な駅の遺失物係の前に立たされた気持ちに繰り返しなるのは、私たちが遺失物そのものでもあるような、そんな気持ちを持っているからなのでしょうか。
✳︎
「谷川俊太郎さんの詩を読む」3
二つの四月
僕は四月に学校にあがった
四月にどんな花が咲くか僕は知らない
僕は四月に学校にあがった
ぞうり袋に名札をつけて
僕は四月に女と別れられなかった
四月にどんな花が咲くか僕は知らない
四月は雨が多かった
僕等は毎晩お茶を淹れた
四月に人さらいは電柱のかげで笑っていた
四月に敷布は冷くしめっぽかった
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「二つの四月」について 松下育男
本日の詩も短いので全文を載せます。
とても簡単な言葉で書かれた詩です。そしてこの詩は二つの場面を描いています。二つの場面は時間的な隔たりを持っていて、おそらく同じ人の、子供の頃と、大人になってからのことが書かれています。
説明をすればそれだけの詩です。その「それだけ」というのが、この詩のすごいところです。普通は、対比するそれぞれの違いを際立たせるように緻密に描こうとします。
でもこの詩は、とてもあっさりとした書き方で、どこかデッサンの下書きのような、鉛筆でサラッと描いたような書き方です。
その「サラッと描いたような」ところがすごいのです。
一人の人の、子供の頃のある日と、大人になって異性と同棲しているある日が、放り出されるようにして、詩の中に転がっています。
感情語は一つも見られませんが、この詩を読む人は、二つの場面それぞれの中に入り込み、あたかも自分の人生の一コマのように、まざまざと追体験をしているような感覚になります。
どこかだるげで、無表情で、さほどやる気もなく、という日々で、人生の大半は出来上がっているのだと、考えもします。
さらにこの詩は、学校に入る、という「始まり」と、「女と別れようか」という「おしまい」も対比して書いてあります。
どんな始まりにも終わりはあり、人生そのものにも終わりがある、ということでしょうか。
さて、この詩を読んで驚くのは、たったこれだけの言葉で人の一生描いてしまっていることです。
様々な枝葉を切り落とせば、生きるとはこのようなものではないかと、感じてしまうのです。
そういった感動をもたらしてくれるにしては、なんと力の抜けた詩であることかと、そのことにも、僕は谷川さんの非凡さをつくづく感じてしまうのです。
ところで、「人さらい」にさらわれたら、どこへ連れて行かれるのでしょうか。
わたしはさらわれたから、今、ここにいるのでしょうか。
✳︎
「谷川俊太郎さんの詩を読む」4
朝のリレー
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
(後略)
✳︎
「朝のリレー」について 松下育男
これはまた、なんと視界の広い詩かと驚きます。そしてその視界の広さが、私たちの感覚をも広げ、清々しい空気が胸郭に流れ込んでくるのです。
カムチャッカの若者が吸った空気も、メキシコの娘が吸った空気も、いちどきに、詩行の隙間を通過して、こちらに流れ込んでくるのです。
そして、たった二行ずつ書かれているそれぞれの若者の日常や考えていることが、我が事のように感じられてしまうのです。詩というのは、なるほど端から端まで細かく書かなくても、その核心を届けられるものなのだなと、改めて思うのです。
さらに、それら各所の若者の目を通しているだけではなく、さらに上方から地球を眺めるように、
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
と、俯瞰しています。つまり谷川さんというのは、「二十億光年の孤独」を持ち出すまでもなく、単に複数の視点を持つだけではなく、同時に、地球全体、人類全員をも包括する眼差しを持っているのだということがわかります。
戦後の詩はとにかく個人の感じ方に重きを置いて書かれてきたように思います。世の中を支配する感じ方や考え方よりも、自分はどうなんだ、ということの方が信じられる、という思いからなのだと思います。ただ、それだけでは、どうしても「私が、私が」という身勝手な方向へ向かってしまう恐れもあります。
そういった個人の感覚を残しつつも、谷川さんの詩は、個人を超えた視点をも合わせて持っているのではないかと感じるのです。
それにしても、地球が自転してゆくことを、
ぼくらは朝をリレーするのだ
とは、実に見事な捉え方かと思います。どこか、人類の全てが、リレーのためのバトンを手に持っている感じがしますし、読者の手のひらにも、バトンの湿り気が感じられてもくるのです。そしてその湿り気は、前の走者の汗であり、悩みであり。愛であり、迷いであるのだろうと、想像できるのです。
いえこの詩では、バトンなんてありふれた発想で詩を締め括ってはいません。前の走者から受け取るのは、目覚時計のベルだと言っています。
優れた詩というのは、幾度も読み手の予想を超えてきます。
そしてこの詩を読んだ後の日々に、私たちは、目覚時計の響きの中に、たくさんの人の、吐息やため息をも、聞き取ることができるようになるのです。
✳︎
「谷川俊太郎さんの詩を読む」5
鳥羽 1
何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ
本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない
(中略)
この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!
✳︎
「鳥羽 1」について 松下育男
「鳥羽」という連作詩の最初の詩です。
この詩で驚かされるのは、「何ひとつ書く事はない」と、言い切っていることです。何ひとつ書くことはない、と書くところから書き始めていることです。
ただ、詩というのは何か書くことがあるから書くこともありますが、本来、何も書くことがないから書き始めるものであり、そういう意味では、詩のもともとのあり方を改めて宣言しているようにも思います。
そうではあるのですが、やはりこの宣言はすごいのです。なぜといって、詩というものはそういったものだと、多くの人は内心わかっていても、その感覚が、詩の一行になるとは気づかないからです。
つまり谷川さんは、谷川さんだけがわかっていることを書いているのではなくて、多くの人がわかっているのに書くまでもないと切り捨てている感じ方を、あえて詩に書く、そういった才能を持っているのです。
そして、そういった、みんながわかっているけどそれが詩になると気づくことは、谷川さんだけではなく、朔太郎や中也や、特別な詩人に共通のことであり、さらに、詩だけのことではなく、芸術全般について言えることではないかとも思うのですう。
そしてこの詩は、昔から言われている「幸せな人は良い詩が書けない」という言葉に対する真っ向からの反論でもあると思えます。
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ
なんてことを堂々と言ってのけることは、それまでの詩人というもののあり方、感じ方を、大きく変えるものであります。
詩を書くのに、幸せも不幸せもないのだ、という、思えば当たり前のことを言ってくれているのです。
幸せな人にも優れた詩は書ける、という言葉自体はさほどのことを言っているようには見えませんが、そういった気持ちから書かれた詩は、明らかにそれまでに書かれてきた詩とは違った表情を持ち、違った可能性を持つことができるのです。詩という表現の幅を、この詩はグッと大きく広げてくれたのだと、ぼくは思うのです。
そしてこの詩の最後では、多くの解釈のできることが書かれています。
この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!
この最終連から、詩のメッセージ性の否定ととることもできます。最初の行にあるように、詩というものが何ひとつ書くことがないところから生まれるものであるとしたら、あらかじめメッセージを伝えるために書かれた詩は否定されるべきではないか、という考え方です。
けれど僕は、必ずしもそういった狭い意味にとる必要はないのではないと思うのです。この日、この時の、一瞬の感覚を強調したまでなのではないかと、どうしても感じてしまうのです。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」6
生きる
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
(中略)
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
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「生きる」についての感想 松下育男
それにしてもタイトルに「生きる」とつけるとは、なんと正面から詩と向き合っているのだろうと、ぼくは詩の本文を読む前から感動をしてしまいます。
そして読んでみれば、まさに「生きる」とはどういうことかを、谷川さんは無謀にも書こうと試みています。もしも学者であったなら、「生きる」とはどういうことなのかを書き表すために、何千冊何万冊の本が必要だったのでしょうが、谷川さんはそんなに多くの本は必要ないようです。何千冊、何万冊の、生きるを解説した書を、たったの数十行で、まさに生き生きと書ききってしまおうとしています。こんなこと、並の詩人にはできません。いえ、谷川さん以外にだれもできないだろうと、ぼくは思うのです。
では「生きる」「生きている」ということを、谷川さんはどのように書き表しているでしょう。
第一連では、自分の感覚から始めています。自分の感覚が、生きるということと、どのように繋がっているか、ということです。なるほど、手元から始めている、ということです。さまざまな外部との通路です。
それはのどがかわくということ→口とその奥の内臓
木もれ陽がまぶしいということ→目
ふっと或るメロディを思い出すということ→耳
くしゃみをすること→鼻と口
あなたと手をつなぐこと→手
二連目は、外の世界で感動するものを並べています。詩の中にきちんと「美しいもの」と説明しています。
それはミニスカート→服あるいは人
それはプラネタリウム→宇宙
それはヨハン・シュトラウス→音楽
それはピカソ→絵画
それはアルプス→自然
三連目は感情と感覚です。
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
四連目は時の経過やその時々の出来事です
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
そして最終連は生き物がそれ自身を生きるということです
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
ということは谷川さんにとっての「生きる」とは
①感覚を持っているということ
②美しいものに感動をすること
③感情を持っているということ
④時の流れの中にあるということ
⑤命をその素晴らしさにおいて全うすること
ということになるのでしょうか
ぼくは両手をひろげて賛成をします。そして、こうして「生きること」「生きている」ということを解説してみて感じたのは、これらがそのまま「谷川さんの詩を読むこと」の鮮やかな説明でもあることに驚くのです。
谷川俊太郎の詩を読むとは、
感覚を持っているということ
美しいものに感動をすること
感情を持っているということ
時の流れの中にあるということ
命をその素晴らしさにおいて全うすること
そうであるならば生きるとは、「一篇の完璧な詩を読むこと」、とまで言ってしまっては、意味を押し込みすぎているでしょうか。それもぼくの、「生きる」ということなのです。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」7
かっぱ
かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった
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「かっぱ」についての感想
この詩は『ことばあそびうた』という詩集の中に入っていて、つまりはこの詩のように、言葉で遊んでいる詩ばかりが載っている中の一篇です。こういった語呂合わせというか、駄洒落というか、似た響きの言葉を並べて遊んでいます。
なんだそんなことかと、言うのは簡単ですが、ではこういった詩を書いて見ようとしたって、なかなかこんなふうには書けるものではありません。
だいいち、多くの詩人は、言葉を飾ろうとか、言葉を神秘的にしようとか、言葉で雰囲気をかもしだしてやろうとか、というようなことでやってきていますが、言葉ときちんと遊んだことなんて、ほとんどありません。
ですから、こんなふうに言葉と遊んでいる詩を見ると、ただただ感心してしまうのです。
そして、うまいなと感心することも感動の一種になるのだと、この詩や詩集を読むと分かってくるのです。
音が似ていることやリズムを重視した詩ですから、おのずから漢字よりもひらがなやカタカナが多用されることになります。
ちなみにこの詩を漢字やカタカナを混ぜて書くと
河童かっぱらった
河童ラッパかっぱらった
トッテチッテタ
河童菜っ葉買った
河童菜っ葉いっぱい買った
買って切って食った
となるでしょうか。これはこれで面白いと思うものの、やはりぜんぶひらがなの方が想像力がかき立てられる気がします。
河童、ラッパ、菜っ葉
という日本語がここに並ぶのは、むろん、発音に類似性があるからです。そうしてここに一つの文章ができ上がるというのは、ある意味で、全く繋がらない関係のものを一つの詩の中で繋げてしまう、つまりはシュールレリズムの詩と言ってもいいのかも知れません。
そうしてでき上がった情景や世界を、ぼくらは想像の中で楽しむことができます。狭い部屋の中で、ラッパ吹きを職業とする河童がひとり、とぼしい生活費の中から菜っ葉を買ってきて、涙ながらに切って食った。
なるほど、しんとした心にも、読みようによってはなるわけです。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」8
ほほえみ
ほほえむことができぬから
青空は雲を浮べる
ほほえむことができぬから
木は風にそよぐ
ほほえむことができぬから
犬は尾をふりーーだが人は
ほほえむことができるのに
時としてほほえみを忘れ
ほほえむことができるから
ほほえみで人をあざむく
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「ほほえみ」について 松下育男
ぼくはだいぶ昔に生まれたので、戦後それほど多くの年月は流れておらず、まだほとんどの日本人は貧しく、生活といえば、雨をしのげる屋根がともかくあって、食べるものが何かあればそれで充分、という日々を送っていました。そんな中で、両親は必死にぼくら子どもを育ててくれていました。
ですから、当時は家で犬や猫を飼う、なんてことは、思いもしませんでした。犬といえば、原っぱにお腹を空かした野犬が何匹もたむろしていて、道を歩く時には、野良犬を刺激しないように、ともかく目を合わさないようにして、おそるおそる避けて通ったものです。
ぼくが犬のこまごましたことを知ったのは、それからずっと後、結婚して、子どもが生まれて、初めて犬を飼ってからのことです。
今、こんなことを言えば笑われるでしょうが、犬にも、人と同様にとても細やかな感情があるのだと知ったのは、ですから、さほど昔のことではないのです。
この詩は、ほほ笑む、という行為について書いています。いえ、行為の奥にある心持ちのことを書いてあります。誰だって、ほほ笑みたいと思って生きています。誰だって、ほほ笑まれれば悪い気持ちがしないし、その人を好きになります。
そんなに簡単なことですから、誰だって知っているのに、いざ生きてみると、なぜかほほ笑んでばかりはいられない、ということになってしまうのです。そういう状況はじゅうぶんに分かっていても、やっぱりほほえむ、というところに、幾度も心を持ってゆこうよ、という詩なのだと思います。
そして人がほほ笑むように、犬もほほ笑むし、さらに、青空も、木もほほ笑むのだと、谷川さんは教えてくれます。
人だけでなく、動物もほほ笑むし、命のないものもほほ笑むのだという感じ方の、なんとほほ笑ましいことかと思うわけです。
最後に、「ほほえみで人をあざむく」と、ちょっと辛口な、そしてさらにテーマを深めるようなことをつぶやいて、この詩は終っています。
この続きを考えてみましょうと、谷川さんは言っているようですが、そしてそこには重要な問題が含まれていることはわかりますが、敢て、ぼくは特に最後の二行を深く読みたいとは考えていません。ぼくはやっぱり、
ほほえむことができぬから
青空は雲を浮べる
ほほえむことができぬから
木は風にそよぐ
の四行を読みながら、青空のほほ笑みと、木のほほ笑みを想像して、めいっぱい人のほほ笑みを、ほほ笑んでいたいと思うのです。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」9
「あれにしようかこれにしようか散々迷った挙
句に買った結婚祝につけて水尾比呂志に贈る
祝婚歌。又は、ハンカチーフの能について。」
汗をぬぐえます
言葉ではとり返しがつかなくなった時
にじみ出る冷汗を
涙がふけます
みつめれば みつめれば
哀しくなくたって涙はこぼれる
ひろげられます
無の上に
とび出させられます 魔術師のように
美を
くしゃくしゃに丸められます
アイロンがかけられます
女の強い腕があれば
汚せます
血で泥で
そしてまた洗えます 何度でも
(中略)
捨てられます
いつでも
のある天装
とりかえられます
銀座松屋一階で たとえば
おむつ三ダースと
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「あれにしようかこれにしようか散々迷った挙
句に買った結婚祝につけて水尾比呂志に贈る
祝婚歌。又は、ハンカチーフの能について。」についての感想 松下育男
世の中にはいろんな詩がありますが、その中でもっとも機嫌よく書かれ、機嫌よく読まれるのは「祝婚歌」ではないかと思われます。
生まれ出た時から多くの祝福に包まれている詩です。
書いている人も、誰と誰のための詩なのか、ということがあらかじめはっきりと分かっていますから、何を書けば喜んでもらえるかという明確な方向性が見えています。
けれど、それだけに、多くの祝婚歌は似たような内容になってしまうのが常です。それでも、どこかで見たことのあるような詩でも、なにしろみんなが幸せな場所で披露されるのですから、大抵の祝婚歌は感動的に受けとめられます。
では、谷川さんが祝婚歌を書いたらどうなるのだろう、という疑問に答えてくれているのがこの詩です。友人の結婚に宛てた詩です。ただ、やはりこの祝婚歌は、世の多くの祝婚歌とは違います。
新郎新婦の人となりとか、夢とか、将来とかを、歌ってはいません。もう一ひねりしています。
おそらく、結婚祝いを買う時に、デパート(銀座松屋)で何にしようかと悩んだのでしょう。何を贈れば新郎新婦は喜んでくれるだろうと、さんざん悩んで、一枚のハンカチに決定したようです。
そして、そのハンカチに添えるようにして、なぜハンカチを結婚祝いにしたかという詩を添えたのです。
なんて素敵なお祝いだろうと思います。
むろん、ハンカチを歌ったこの歌は、人間そのものを歌っていて、人生のさまざまな場面を歌い上げています。
つまりは、ちょっと変った祝婚歌のようでいて、新郎新婦の人生を正面から祝福するきちんとした祝婚歌にもなっている、というわけです。
汗をぬぐえます
涙がふけます
ひろげられます
アイロンがかけられます
しばれます
包めます
すくえます
捨てられます
とりかえられます
というハンカチの能に、もうひとつ、「こんなに素敵な詩の、きっかけにもなります」というのを、そっと付け加えたいと思います。
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「谷川俊太郎さんの詩を読む」10 (最終回)
「なんでもないものの尊厳」
なんでもないものが、なんでもなくごろんところがっていて、なんでもないものと、なんでもないものとの間に、なんでもない関係がある。なんでもないものが、何故此の世に出現したのか、それを問おうにも問いかたが分らない。なんでもないものは、いつでもどこにでもさりげなくころがっていて、さしあたり私たちの生存を脅かさないのだが、なんでもないもののなんでもなさ故に、私たちは狼狽しつづけてきた。
なんでもないものは、毛深く手に触れてくることがあるし、眩しく輝いて目に訴えることがある。(中略)なんでもないものを、一個の際限のない全体としてとらえることは、それを多様で微細な部分としてとらえることと矛盾しないが、なんでもな(以下抹消)
――筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのように語ってしまう。その寸法を計り、その用不用を弁じ、その存在を主張し、その質感を表現することは、なんでもないものについての迷妄を増すに過ぎない。なんでもないものを定義できぬ理由が、言語の構造そのものにあるのか、或いはこの文体にあるのか、はたまた筆者の知力の欠陥にあるのかを判断する自由は、読者の側にある。
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「なんでもないものの尊厳」についての感想 松下育男
この詩でぼくが一番好きなところは、詩を書いている途中で、その詩をやめてしまうところです。実際は一行空けて、この詩はうまく書けないということを書いて詩にしていますが、この切り抜け方も、面白なと、感じてしまうのです。
もともと詩というのは、書き手と書く対象の関係がとても近いものです。あるいは、場合によって関係性が変ってゆくことです。まあ、表現というのは詩に限らずみなそうなのでしょうが、特に詩の場合は、なにかを準備しなくても、ありのままの自分を書く事さえできるようなものですから、「何を」書くかと「誰が」書くか、ということがきちんと定義されていないようなものです。
この詩はまさに詩集『定義』の中の一篇であり、「なんでもないもの」を定義しようという試みなのですが、定義してしまうと「なんでもないもの」ではなくなる、という矛盾が生じてしまい、一連目でそのことに気づいて、二連目で反省し、という状況そのものを提示して詩として成立させています。
ただ、実際のところはどうなのでしょう。谷川さんは、「なんでもない」ものが「なんでもなく」ある、ということ自体にすでに気持ちのよい矛盾があることをとうに知っているはずであり、その遊びの一部として、自分のうかつさを装っているように見えます。
普通の人が、自分のうかつさを装って詩なんか書くと、「何を言っているんだか」という感じになってしまいますが、そこはやはり谷川さんの知性が書いたものです。なるほどと思いながら読んでしまう詩ができ上がっているのです。
この詩のはじめのところを読んでいて、ぼくは、「なんでもないもの」というのは、人のこと、多くの、名もなく生まれ名もなく死んでゆく人のことなのかなと、思っていましたが、それも入るのかもしれませんが、必ずしもそうではないようです。
もしそうであったとしたら、いったい谷川さんも「なんでもないもの」のひとつでしょうか。
そうでもあり、そうではない、と、ぼくは矛盾に満ちた感じを持ってしまうのです。
さらにこの詩から、ぼくはずっと「なんでもないもの」を詩に書いてゆこう、と、けっこうな勇気をもらえました。
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ということで、「谷川俊太郎さんの詩を読む」全10回、終了です。
ありがとうございました。