読みの横糸 ー 詩のアンソロジーについて
ぼくは詩の教室で、「吉本隆明になるつもりでないんなら、好きな詩だけを読んでいればいいのではないか」と言ったことがあるんです。
つまりね、詩の状況を俯瞰的に書きたいと思っているならともかく、そうでないのならば、ただ好きな詩を読んでいればいいんだと、思うんです。
好きな詩を読んでいれば、自然と少しずつ読みたい詩人も増えてくるし、その方が楽しいし、それでいいんだと思うんです。
でも、そうしていると、やはり、いつも同じ人の詩ばかり読んでいることになります。もちろんそれでもいいんですけど、ずっとそうしていると、どうしてもちょっと飽きてくる。
それとね、好きな詩だけを読んでいると、なんというか、だんだん頑なになってきます。
詩というものはこういうものだという思いの、狭い世界の塀を高くして、外を見なくなります。
ぼくなんかも、何十年も詩を読んでいますけど、それで、自分なりにいろんな詩を読んできたつもりでいても、やっぱり読みの傾向が偏ってしまいます。
それで、たまにいろんな人の詩を集めた本、つまり詩のアンソロジーを読むことにしているんです。
そうすると、あらためて、詩っていいなと、素直に思ったりするんです。
それで、詩って、まんべんなく読んでみることも大事だし、ぼくはどんな詩が好きだ、というよりも、詩と言うものがまんべんなく好きなんだ、ということに気づくんです。
好きな詩や詩人や詩集を読むのはもちろん楽しいのですが、ずっと同じ好きなものばかりを読んでいると、やはりどこか、苦しくなってきます。
甘いものが好きだからといって、いつも大福を食べたいわけではない。たまにはお煎餅を食べたくなる時があります。
ある特定の傾向の詩ばかりを読んでいると、好きであるほどに、詩というものが、たまにつまらなくなってきます。
そんな時、優れたアンソロジーを読むと、自分が選んだのではない詩人が突然出てきて、結構新鮮だったりするんです。
アンソロジーを読んで、考えるのは、自分の読みの軌道を正すために、たまに優れたアンソロジーを読む、というのは必要なのかなということなんです。
いつもの読み、というか、自分の好きな詩集を読んでいるのは、言ってみれば「読みの縦糸」です。でも、ずっとそればかりだと、同じ傾向の、その時の自分好みの詩人ばかり読んでしまい、縦軸が緩んできます。歪んできます。
その歪みを正すためにも、優れたアンソロジー、つまりいろんな詩人を貫く「読みの横糸」が大切なのかなと、思ったんです。