2025/01/16(木)認められるために書くのではなく
詩を書いていて、投稿をすれば、選ばれる人と選ばれない人がいる。また、詩集を出せば、好評で賞をとる人とほとんど無視されて終わる人がいる。
ぼくらがそういった競争の世界にいることは、いやでも知っている。
それで、ぼくはいつも同じことを言っているのだけど、
詩というのは、これがよい詩でこれがさほどよくはない詩だと、順位をつけられるものもあるにはあるけど、ほとんどが、それぞれの人の思いの丈が書かれているわけであって、どちらがどちらよりいいとか悪いとか、というよりも、人それぞれの大切な詩がある、というように、平面的に俯瞰し、享受するものなのではないかと思うのです。
むろん、人それぞれの中でも、わりと多くの人に受け入れられやすい詩と、ほとんどだれにも伝わらない詩があって、それは半ば、才能とか技巧に関連してくるものではあるのだと思う。
だから、もし自分が今書いている詩を、できるだけ多くの、そしてすぐれた読み手に伝わる詩を書きたいと思うのなら、もくもくと努力して、言葉を磨き上げてゆくことが必要ではないかと思う。
結果として、その努力がより優れた詩に結実して、それが人に認められるようになるのなら、自然な成り行きなのかなと思う。
だから、やみくもに、認められるために詩をどうしようと焦ったりするのは、考え方が逆なのであって、自らの詩を突きつめることをひたすら楽しみながら努力して、その結果として、認めてくれる上質の読者がいてくれれば、とても喜ばしいことなのだと思う。
見つめるべき軸は、移りゆく人の好みよりも、常に、私の中の書きたいという単純で素朴な心なのだと思う。