「同時代の詩を読む」(56)-(60) 柳清水 和歌子、高瀬二音、嘉陽安之、清水ロカ、室園 美音
(56)
「レジ待ちにて」 柳清水 和歌子
レジ待ちの列に並んでいる
昼前の混雑したレジ待ちの列は
各売り場の間まで連なって
蛇行してのびている
前の人たちのレジかごを
こっそり確認する
ああ
かごいっぱい
溢れんばかり
カートの下の段には
トイレットペーパーと箱テッシュ
次の人は缶ビールの箱買い
仏壇用の花束まで入っている
きっと隣の方が
早く済んだのかもしれないな
失敗したな
反対どなりの親子は
長くかかるレジ待ちに
子供が飽きて騒ぎ始めた
わかる わかるなあ
子供たちが小さかった頃
大変だったもの
ベビー用カートに載せるのも
大変だった
頑張れ 子育て母ちゃん!
おばあちゃん
豆腐一丁だけで
このレジを待つのは嫌だねぇ
私の前に入れてあげたいけれど
後ろの人に舌打ちされちゃうかも
いつの間にか私の番になっていた
なんだか
自分にバーコードがついていて
さっきまでの自分に
値段がつけられて値踏みされている
気持ちになった
なんて安いのだろう
私の気持ちったら
おおらかに
レジを待てるような自分に
なろうと思う
*
「レジ待ちにて」について 松下育男
作者は、肩をいからして、書斎にこもり、すごい詩を書こうなんて、たぶん思っていません。言語の可能性に立ち向かおうなんてしていません。ただいつもの時間を生きて、ちょっと思い浮かんだことを、普段着の言葉であるがままに書いただけの詩のように思えます。
けれど、こうして書かれてみれば、この詩は何人かの読者の心に触れるだろうと思います。そして、何人かの人の心に触れるということが、詩にとっての生き甲斐であり、最終的にはそういった詩も、言語の可能性に立ち向かった詩と同様に、すごい詩であると言えるのだと思うのです。
ぼくも家内と一緒によくスーパーに買い物に行きますので、どのレジの列に並べば一番早く済むかと、そのたびに悩みます。そして、並ばなかった方の列が先に進んでいるような気持ちになるのです。。
ですから、ここに書かれている気持ちはよくわかります。
こうして、みなが感じることを詩にしようとしたところが、まずはこの詩の成功しているところであると思います。
また、最後から2連目の
「自分にバーコードがついていて
さっきまでの自分に
値段がつけられて値踏みされている」
のところも、予想外の展開で、よくできているなと思います。
どの列に並んだところで、結局何分かの差にしかならないのに、そんなことに揺れている自分の気持ちの、なんと安っぽいことかということなのでしょう。
ふと考えてみればそうだよなと言う気持ちにさせてくれます。
だって、そうでない時には、たくさんの時間を無駄に過ごしているのに、レジ待ちの時にだけ時間がもったいなく感じるなんて、やっぱり小さな人間なのです。
ですから最終行の
「なんて安いのだろう
私の気持ちったら」
というのもよくわかります。
僕個人としては、おおらかになれずにそんなことに気持ちが揺れてしまう小さな心の自分というものが、けっこう嫌いではないのです
読んだ人に、さまざま考えさせられる詩になっていると思います。
(57)
「名前のない夕暮れの話」 高瀬二音
街をゆく人型。噴水の前で、別の人型と待ち合わせ。並んで歩きだすと、二人の隙間がなんとなく逆さまの人型に見えてくる。隙間に産まれたあやふやな人型は青信号でひとり向きを変え、人型たちと別れ、頭を下に空気を蹴って一人歩き出す。街なかの人型と人型の間をすり抜けていく隙間の人型。蝉が鳴くし車は渋滞、暑さは世界を埋め尽くすから、せっかくのおしゃれも溶けて流れる、扇子とハンカチは止まない往復運動。あべこべの人型は誰にも見つからない水の色。揺らぐ皮膚の境界線。そして家へ帰る。
世の中は皆、街に居る。
嘘っ子の人型だけ、オレンジ色に光る黒い稜線を見ながらあの家へ帰る。
*
「名前のない夕暮れの話」について 松下育男
そのものを描くことだけが詩ではありません。そのものとそのものの「関係性」を執拗に描くことも詩になります。時に「関係性」はそのものよりも美しい詩になります。「関係」というのは、もともと詩的にでき上がっているのです。
この詩はとても奇抜な発想からできあがっています。それとともに、頭の中の凝り固まった感じ方を溶かしてくれるような発想です。
「地」と「図」の関係です。美術的な思考ですが、こうして文字にしてみてもこの関係はなかなか効果的に受け止められます。むしろ文字の向こうに、絵よりも鮮やかな情景が思い浮かべられます。
「並んで歩きだすと、二人の隙間がなんとなく逆さまの人型に見えてくる」のところは、実にスリリングです。
そしてこの詩に描かれている隙間(地)の人は、もうひとりの自分であるようにも感じられてきます。だれしも自分の中に、自分ではない自分を持っているのかもしれません。時に自分を持て余し、時に自分にたどり着けず、時に自分にすがりたくなるのもそのためかもしれません。
自分が帰ってゆく家とは別の家に帰ってゆくもう一人の自分とはだれなのでしょう。
その目鼻と心を想像し、眺めて飽きない一枚の優れた絵画のように、この詩を読みました。
(58)
「アルファベット」 嘉陽安之
習ってもいないのに
どうして
低学年の子どもたちは
大きなSになって
学校に向かうのだろう
見て花が咲いてる
ほんとだ
ねーこっちに変な虫いる
来て来てって
遅刻しないでね
高学年の子どもたちは
Iになって
足早に学校に
向かう
大人になるって
ただ
目的地へ向かう
一本の線になること
その途中の
さまざまな声や匂いや
色を忘れて
ママに何度も手を振って
学校に向かった
女の子が
泣きながら戻っていった
忘れ物した男の子の
のんきなUとは違う
鋭くかなしい
Vが
通学路にいつまでも
ささっている
*
「アルファベット」について 松下育男
わかりやすい詩です。
アルファベットの文字の形を通して、子供たちの並んで歩いている形を表しています。さらに子供たちの動く軌跡をも表しています。
詩の最初の方はIとSの比較で、ああこういう感じ方ってよくあるなと思って読んでいました。でも読み進むに従ってUがでてきて、ここまでは、そうか、これもよくある感じ方かも知れないなと思います。
ところが、そのあとに思いがけずVがでてきて、Vにぐっと来ました。
Uのところで終わってしまう詩は多くありますが、そこで止まらずに、さらに詩を深めているところが、この詩の秀でている所です。とことん書く事が大事なのだと、教えてくれています。
最後のところで
「鋭くかなしい/Vが/通学路にいつまでも/ささっている」とあります。
このVは、女の子がもどる道の折れ曲がりの角度のまま、読む人の心にもするどくささってきます。
おそらくこの女の子の帰り道のVは、これからの人生の中で幾度か表れて、でもしっかりと超えてゆくのだと思えるのです。
(59)
「かりびと」 清水ロカ
お客としてしか男
に接してくれない人たち
を通り過ごしてきた
今夜の寝床は狭い日本家屋の民宿で
(その前は紀州の海岸沿いの廃屋にいたのだった)
遠くに川があるようだが
見に行ったことはない
少し空気が薄い気がする
山奥だからか、ここはどこかはどうでもよくなっていた
誰とも話をしない日々が続きすぎて
ブラウン管のテレビをつけた、
色彩が欠けている
ものくろーむのひとびと、
ドキュメンタリー
は退屈だと切ろうとした時
にスイッチをまわす手
がとまる
彼が失踪する前になぜ声
をかけてあげれなかったか
怒ったり泣いたり口ごもったり
している男女数人がかわるがわる
男の話題をしていく、時間制限
はたった15分、
なつかしい、見知ったかおだなあ、
で、男はひさしぶりに会話をしたかった
なんでもない暖をとりたかった
その揺れが心凍った男
をテレビの中へ
とまねき入れた
身内友人知人は見当たらなかった
男はテレビ用セットの黒電話
のダイヤルを回した
繋がった肉声が、
今どこにいる?帰ってきな、
もう、帰ってくるな、
ちゃんと生活できてるの?
あの人は生活を捨てたんですからね、
罪を置いてどこをふらついてるんだよ?
お金足りてるかしら、
人は去った男にさまざまなことを
群となって不調和音を
かなでている
ブラウン管の、せかいは
1ミリの厚さもなく、
たいらでぎこちなく、辺りを眺めても
カメラがなかった
「あなたの家族にいちばーん近い夢♫マイホームなら、〇〇ホーム」
コマーシャル。男は番組名に気づいた
(失踪する人たち)
ああ、嵌められた、
出られない
世間にはもう
ものくろーむの町
でさすらいながら
生きていくさ、いや、死んでいるのか
男はテレビフィルムに投影されて
巻かれて
巻かれて
放送局のアーカイヴが
焼かれてしまうまで、
汚れたかなしみの皺
のまま保管されている
*
「かりびと」について 松下育男
昨日の「詩を大事にする会」からの詩です。
「かりびと」という言葉は面白いと思います。狩人のようで、でも多分そうではなくて、仮の人ということなのかなと思います。
この詩、面白く読みました。
一人旅の旅先でテレビを観ていて、失踪人を探す番組をやっていて、自分がいつの間にかテレビの中に入って失踪した人になっていた、という内容です。
おそらく実際は、そのテレビを観ていて、失踪人の気持ちがわかるような気がして、あるいは旅先の自分が失踪人のようだと感じて、テレビに見入ったということなのだと思うのですが、それを自分がテレビの中に入ってしまってそこから抜け出られなくなってしまう、としてしまったのがとても面白い。
つまりテレビの外の世界から見たら、テレビに入ったこと自体が既に失踪人なわけで、そのテレビの中でも失踪人の役割を担わされているという二重構造になっているわけです。
最後、テレビ局のアーカイブに保管されてしまうというのも、よくぞここまで徹底的に書いてしまったなと思います。
詩を読み終わって、もしかしたら誰もが失踪人なのかも知れない、と考えさせられました。それぞれの人生に「保管されている」のだと。
(60)
夜空のX 室園 美音
八年前の夏の頃 夜空でXが起こった
私と娘はそう呼んでいた
日没後の早い時間に西の空に金星と木星が見える
それが日ごとに近づきほぼ同じ位置に来た後は
Xを描くように星の位置が逆転する
それを見た夕餉に二人で一度に金星と木星が見えるのはなぜか考えた
教科書で学習した惑星の並びを図に描いて再現し考えた
並び順で行くと金星が木星と一緒に 見えることに疑問があった
どの位置にあるとき見ているのだろう
お互いの推理が始まる
恒星太陽を頭として 左手が金星 右手が木星
娘の手を地球として
惑星に太陽の光が当たり地球上のある地点で両方の星が見える可能性を
手と体を動かしながらまるで踊るように次の動作を考えた
「それが 限界かなぁ」
遊びのような星の世界への思考の舞踏
最後に二人でたどり着く言葉は「多分ね・・・」
二人の想像の範囲を出ない考えに落ち着くのだった
現実の星の運行は想像を越え果てしない摂理の中にある
今回のXは三月の初め
日増しに近づき三月四日には地球から見える位置が逆転した
あの舞踏の続きは可能だろうか
娘と私の立場のようにヴィーナスがジュピターの上に来た
動いている星は天体の運行に従っている
私も自然の摂理に従うしかない
私は金星と木星の明るさの違いにやっとはっきり気が付いた
時の流れの中で星の物語もホルストのジュピターも
ゴッホの星降る夜も折々に彩ってくれた
太陽の光の反射を受けて重力のいま保たれている距離の中で
そこに今もあると示すように輝いている
娘も
私も
*
「夜空のX」について 松下育男
詩をながねん書いていると、詩を書くことに慣れてきます。
詩をながねん読んでいると、詩を読むことに慣れてきます。
それはそれでよいところもあると思うのですが、やはりその慣れは、詩に対して失礼だと思うのです。
生まれて初めて詩を読むようにして読みたい、生まれて初めて詩を書く時のときめきの中で書きたい、そう思うのです。
そんなことを、この詩を読みながら考えました。不思議な詩です。なにが不思議と言って、表現に媚びていない感じがするのです。書くべきことがあって、それをただ書きました、という潔さのようなものを感じます。
つまり、詩を書くことの「慣れ」から免れていると感じるのです。まだ書き始めだからそうなのか、あるいはずっと書いていてもそうなのか、ぼくにはわかりません。ただ、一つの作品が、詩作の新品さを身につけてここにあると思うばかりです。
ところで、ぼくは夜空には詳しくないのですが、金星と木星の位置が逆転することを「Xが起こる」と呼ぶのは、とても素敵です。
さらに、金星と木星の位置を、娘と二人で舞踏のように舞ってみる、というのはすごく面白い。
娘と二人で無表情に、生真面目に、なにか不思議なことをしている図は、それを想像するだけでとてもシュールです。とても詩的です。
乾いた詩情を感じます。
後半で、金星と木星の立場が変ることを、娘と母親の力関係に喩えて展開するのかなと思っていたら、それほど深追いしてゆかないところも、よいと思います。
真新しい個性を感じます。
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