自分の本を出すということ

ぼくは子供の頃から詩を書いていて、それで、いつか自分の詩集を出したいと思っていた。

だから、こうして歳をとって、本棚に何冊かの自分の詩集が並んでいることを、幸運だとは思っているけど、不思議だとは思っていない。

このために生きてきた、と思うからだ。

ただ、その横に『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』(思潮社)という分厚い本が並んでいることは、不思議でしかたがない。

この本は詩集ではなく、ぼくが詩の教室で話をしてきたことをまとめた講義録だ。40回ほどの教室で、詩について話したことが載っている。

不思議だというのは、講義録を出すなんて、それまで思いもしなかったからだ。

さらに言うなら、詩についての話をそれほどしてきたこと自体が不思議だ。

ぼくは詩を書いていられれば、それ以上になにも望んでいなかったからだ。

それなのに、これほどたくさんのことを必死に話してきて、それを本にまでしたことは、何度も言うけど、とても不思議でしかたがない。

この本をたまにめくって読むと、なんだかどこか別の人が書いたもののように感じられ、こんなことを書いている人がいるのだな、という気持ちになる。

書いたのは確かにぼくだけど、常にこんなことを思ってぼくは生きてきたのだろうかと、思うことがある。

自分ではない、詩に取り憑かれた誰かが書いたもののように感じることがある。

そういえば何ヶ月か前に、「隣町珈琲」に伊藤比呂美さんの講演を聴きに行った時に、忘れられない言葉があった。言葉通りに覚えているのではないけど、こんな内容だった。

「わたしは伊藤比呂美になってしまえば、なんでもできるの」

つまり、「伊藤比呂美」になる前の伊藤比呂美さんは、何かをするときにたじろいでしまうけれども、いったん「伊藤比呂美」になってしまえば、「伊藤比呂美」が語ることをいくらでも語れる、ということなのだろう。

似たようなことを、ぼくも思うことがある。

分厚い講演録に書いたことは、もちろんぼくが語ったものだけど、それとともに、もともとのぼくが考えていることとはちょっと違うような気もする。

ぼくは松下育男だけど、本を書いたのは松下育男ではなく、「松下育男」をやっている人だ。

だから、こんなに自分の考え方をはっきりと書いてしまっていいのかな、と、今さら心配になってもくる。

ただ、今でもたまに、教室にこの本を持ってくる人がいてくれて、「この本を読んで、詩を書きはじめました」と言ってくれる人がいる。

そうであるならば、そういう人がこの世に一人でもいてくれたならば、ぼくがどのように捉えようとも、この本が出せてよかったと、ぼくはつくづく思う。

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