宝石の国の最終巻を読了したので感想を語ってみるよ
宝石の国の最終巻が発売されました。
宝石の国ってSFものとしても仏教的世界観ものとしても楽しめる漫画だったので両側面からの感想を綴っていこうと思います。
◾️SFものとしての感想
SFものとしてみるとジャンルとしてはポストアポカリプスになるのでしょうか。同ジャンルの一般的な作品よりも悲壮感は薄いのですが、一見明るいキャラクターたちがそれぞれに負の感情を抱えているところが興味深いです。
設定としても、人間が骨・肉・魂の3つに分離してそれぞれの種族として生きている世界というのは納得感がありましたし、男性でも女性でもない「宝石」という生物の描写は魅力的でした。
ストーリーについても作中で大半の説明はなされていたので、あれだけ話が広がったにも関わらず消化不良にならなかった点に作者の方の力量を感じました。
◾️仏教的世界観ものとしての感想
宝石の国が仏教を下敷きに描かれているというのはかねてよりネット上で言われていたことですが、最終巻でよりわかりやすく描かれていたように思います。
最終巻まで読了して直感的に浮かんだのは歎異抄でした。いや私仏教全然分からないので実はググりながら書いているわけですが。
明確にそう感じたのは「善い人間は大変で 悪い人間はかわいそう」の台詞です。
これって親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」なのかなと思いまして。
だからフォスは救われるんだよ、というメッセージだと私は受け取ったんですよね。
仏教での「悪い人間」の定義は「普通の人」のこと(と解釈しました)のようなんですね。
もちろんフォスは復讐心から他の宝石たちを壊しまくったので言うまでもなく悪ではあるんですけど、それ以前にそもそもフォスがエンマに「人間」にされた時点ですでに「悪人」、すなわち救われるべき存在だったのかなと。
フォスは自らの行いを後悔して1万年の孤独に耐えた末に解脱して仏になり、すべての月人・宝石・アドミラビリスおよび金剛を救いました。つまり、フォスはフォス以外の者に対して救いをもたらす阿弥陀如来となったわけですが、この時点ではフォス自身は救われていない。
ということはフォスにとっての阿弥陀如来が存在する必要があります。
ではフォスにとっての阿弥陀如来とは何だったのか。
ここは人によって解釈が異なると思いますが、私はフォスがすべての生命を救った後、最初に出会った鉱物だと考えています。
理由はいくつかありますが、例えば「自分は自分」という確固とした芯を持っていたり、皆を救った後虚無感に苛まされていたフォスに心の安寧をもたらしたり、皆の幸せを願ったりと言動が高次元なんですよね。
前述の「善い人間は大変で 悪い人間はかわいそう」の台詞も彼?のものだったと思うのですが、存在が慈悲そのものだなと感じたのも理由のひとつです。
ここでポイントなのは、フォスにとっての阿弥陀如来であって、すべてのものに対する阿弥陀如来である必要はないということです。
フォス自身の本願、「皆に好かれたい」を自覚して救いを求めた結果、自らを救ってくれる存在に巡り逢えたということなのかなと。
ただ、なぜフォスだけが救われるためにこんなに辛い思いをしなければならなかったのか、と思わなくもないですが、運命なんて不平等なので仕方ないのでしょう。
それこそ最初期に月で生み出された格差社会なんてその象徴のようなものですよね。まああれは魂における犯罪者等の比率とか言っていたので地獄に落ちた人たちという表現だったとは思うのですが。
そう考えると、フォスがあのように苦しまなければならなかったのは前世の因果によるものなのかもしれません。
そういえば金剛や兄機を生み出した博士(ママ)が金剛の記憶の中で「なんの力もない鉱物に生まれる夢をみた」と言っていましたね。
もしかしたら人間絶対滅ぼすマンとしての因果を背負ってフォスとして生まれ変わった故にエンマに利用される運命になったのかなと深読みもできそうです。
最終巻が発売されて、結末を知ってからもう一度1巻から読み直したのですが、新たな気づきがたくさんありました。
ここで言語化しきれない深読みやらシンシャ尊いやら色々脳内に渦巻いていますが、まずは感想でした。
アニメ2期やるかなあ、、
私からは以上です。