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健康マインド(心に残る言葉❗)安部公房「希望とは、絶望の一形式である」

1951年に芥川賞を受賞した「壁」・1962年刊行された「砂の女」の他「他人の顔」「燃えつきた地図」「箱男」「カンガルー・ノート」。
戯曲「幽霊はここにいる」「棒になった男」「緑色のストッキング」など。

堅固な思想に基づいた実験的な表現を編み出した天才です。

1924年、安部公房は本名(あべ・きみふさ)ペンネーム(あべ・こうぼう)東京都北区で産まれ、満州で育ちます。
父親は医師でしたから恵まれた幼少期だったのでしょうね。

日本に帰国して、旧制成城高校の理科に入学。
ドイツ語教師から実存主義文学を習い、数学は天才とよばれました。
1944年 東京帝国大学 医学部入学。父親は奉天で開業医をしており、戦火の中父親の元に行っていた時に終戦。
父親を発疹チフスで亡くし苦労して日本に戻った。
医学部は卒業しますが、医師国家試験は受けなかったので北杜夫の様に医師と文筆との兼業の道は進みません。

埴谷雄高・花田清輝・岡本太郎らと「夜の会」に参加、始めての出版をします。
同時代の文化人との交流で、思索を深めますが生活は困窮し売血をして凌いだとの事。
日本共産党に入党しています。

1951年 27歳の時に「近代文学」に発表した「壁-S・カルマ氏の犯罪」が芥川賞候補になり、川端康成・瀧井孝作の推挙で受賞。
この超現実主義的小説に「バベルの塔の狸」「赤い繭」を加えて初の短編小説集「壁」が刊行されました。

装幀「勅使河原宏」・序文「石川淳」・桂川寛「挿絵」

受賞後、短編「闖入者」を発表し「人民文学」から「新日本文学会」に参加する。

30歳頃の安部公房

その後、戯曲「制服」「どれい狩り」を発表して演劇の世界でも活動。劇団俳優座により上演される。
長編小説「飢餓同盟」「けものたちは故郷をめざす」を発表。
自身のイメージを小説や戯曲に表現を続けます。
日本共産党とは同調できずに除名されます。

1962年 昆虫採集の途中で迷い込んだ村に閉じ込められる男と村民を描いた「砂の女」から書き下ろし長編に創作を集中する。「他人の顔」「燃えつきた地図」の成果を得ました。

読売文学賞受賞「砂の女」

1973年には自身が主催する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足。堤清二の後援を受けて西武劇場を本拠地として活動を続けます。
当時の劇団員には「新克利」「井川比佐志」「大西加代子」「仲代達矢」「田中邦衛」「山口果林」が居ました。

1980年以後は文壇と距離を置き、箱根の芦ノ湖山荘を仕事場として写真に注力したりエッセイをワープロを使って執筆します。
NECのワープロ開発に参画してヒット機種「文豪」が誕生したとも言われます。

安部公房の書斎

1993年 急性心不全で68歳で亡くなりました。

日本の文壇とは離れ、山口果林さんとの生活に安住を求めて独自の創作活動を続けました。
「急死しなければ、ノーベル賞を受賞していたでしょう!」とノーベル文学賞の委員長が言う程国際的な評価が高かった❗

カメラを構える安部公房

「希望とは、絶望の一形式である」

この言葉の安部公房が放った真意は、私には判りませんが(感情に流されない思索構造を言語化する)彼の意志を感じて心に残ります。

私的には、演劇への傾倒を止めて、文筆活動に専念し、文壇とも折り合いをつけてノーベル賞を受賞してもらいたかった。

安部公房と三島由紀夫がノーベル文学賞を受賞していれば、もっと日本の文学界が躍動したのにと、残念です❗


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