![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161538487/rectangle_large_type_2_58de7b489bc9f94430089a24e5e61bee.jpeg?width=1200)
健康マインド(心に残る言葉❗)柳田国男「学問だけは、幸いに其の方法さえ誤らなければ、行く行くこの人類の苦悩を、済い得るものと信ず」
ちょっと長いのですが、民俗学者柳田国男の名言です。
1875年に現在の兵庫県神埼郡福崎町に産まれた國男は、兵庫県姫路市産まれの私にとっても(誉)です。
学問の夜明けの時代は日本全国が知識欲にあふれていた時です。柳田はその時代に「民俗学」という新しい学問を創り出しました。
![](https://assets.st-note.com/img/1731377488-6nJWCpZQx4S3PGi0tEOuK8Ac.jpg)
後列左端が折口信夫。(柳田の始めての渡欧記念撮影)
幼い時から記憶力に優れ、養家の蔵書を読破します。
16歳で上京、三兄が東大医学部に在学中だった関係で森鴎外の門を叩たたく。
田山花袋や国木田独歩と交流し「抒情詩」の出版をする。
悲恋に悩み花袋に相談した件を花袋が小説にしています。
自身は東大の法学部政治学科を卒業して、1900年農商務省に入り、東北地方の農村の実態の調査・研究の仕事をします。
この経歴が「遠野物語」につながります。
柳田国男の経歴を見ると、文学的な才能にも恵まれ、恋愛に詩作に没頭しながらも、実務的な法科の勉強も並行して習得して役人としての社会貢献もできる才覚の持ち主でした。
この才覚が「民俗学」を産み出す土壌となっていくのだと思います。
そして、今回の言葉「学問だけは、幸いに其の方法さえ誤らなければ、行く行くこの人類の苦悩を、済い得るものと信ず」
との到達点にたどり着いたのだと感じで、心に残る言葉です。
同時に私は播州平野の自然を思い出します。
![](https://assets.st-note.com/img/1731405683-k3iBWsVgCEzHwUb2oQpKA6aO.jpg)