映画『バグダットカフェ』から人生を考える
映画「バグダットカフェ」を観た。
言わずと知れた往年の名作。1987年制作のアメリカとドイツ合作映画。日本では1989年にミニシアターで封切られ、ロングランの人気を博したらしい。
以下、ネタバレあります。
主人公のジャスミンは、夫とアメリカ旅行中にケンカし、ひとりでバグダットカフェのモーテルに滞在する。
バグダットカフェ、モーテル、ガソリンスタンドを切り盛りするのはブレンダ。彼女も、夫がケンカして家を出てしまう。子供たちは彼女を手伝うこともせず自分勝手に過ごしている(ように見える)。気が利かない(ように見える)従業員。いつもイライラして怒鳴ることしができないブレンダ。
「なぜ?なぜ私だけがこんな目にあうの?」
ブレンダの怒りの底に哀しみが見え隠れする。
そのほかにもモーテルに長期滞在するタトゥー彫師や、モーテル近くのトレーラーに住む謎の画家など一癖も二癖もある登場人物が出てくる。
そんな彼らの日常に、ジャスミンはしっとりと入って行く。客でありながら、モーテルの部屋や乱雑なオフィスを掃除して整理したり、カフェでコーヒーの淹れ方を教えたり。
言葉は少ないけれど、彼女は決して誰も否定しない。
ファッションに興味のある子どもとは一緒にオシャレを楽しんでみる。ピアノが好きな子どもの演奏に静かに耳を傾ける。画家のモデルになってみる。タトゥーを入れてみる。
言葉ではなく態度で、行動で皆を肯定していく。
そんなジャスミンに、ブレンダさえも穏やかに心を許していく。やがて2人はカフェでマジックを始めると評判を呼び、カフェは人気店になっていく。マジックを楽しむ人たち。そこには、以前はなかった人々の笑いが溢れていく。
特に魅力的な人物が出てくるわけでもないし、心に残るセリフがあるわけでもない。ただ、謎の女性ジャスミンが、ブレンダ一家や周囲の人たちをマジックのようにいつの間にか温かな渦に巻き込んでいく。
ジャスミンが彼らを変えた、と言うよりは、もともと彼らが持っている「人生を楽しむ力」を引き出したように思う。すでに持っているのに本人ですら気づかない魅力、生きる力、人生を肯定する能力を、ジャスミンがいつの間にか引き出していた。マジックのように。
人は「変えよう」とすればするほど抵抗が生まれるものだと思う。悪いところを指摘されればされるほど意識が向くし、より大きくクローズアップしてしまう。体温と同じように、意識や習慣には恒常性があり、どんな悪癖であっても「変えよう」とすればするほど抵抗を生む。
ブレンダも、当初、自分が守ってきた日常が、それが誰にとってもどんなに苦しいものでも、ジャスミンによって変えられていくように思い、ひどく抵抗した。ジャスミンを罵り、傷つけた。
しかし、ジャスミンは抵抗も反抗もせず、ただ一言、答えることで、ブレンダの怒りを逃がしていく。
その時、ブレンダは気がつく。
「私を傷つけていたのは、私を苦しめていたのは私自身だった」と。彼女の世界が大きく動き出していく。
自分勝手な行動ばかりしているように見えていた子どもたちは、それぞれ好きなもの夢中になるものがあって、実はそのことを母ブレンダに認めてもらいたい、共有したいと思っていること。
気が利かないと思っていた従業員は、店を愛し、存続できるよう気を配っていること。泣いてばかりの赤ん坊の愛しさ。孤独な常連客の家族のような温もり。今まで見えていた世界が大きく動き出す。
人は関係性の中において存在する。この世に自分しかいなければ自分など存在しない。従って、どのような関係性を結べるかで、人生は大きく変わっていく。
ブレンダをはじめとするバグダットカフェの面々は、ジャスミンという異邦人により、その関係性を書き換えられた。しかしそれは彼らを変えたのではなくて、本来、彼らが持っているもの、望んでいるものを引き出し、結び直したに過ぎない。
だからこそ、タトゥー彫師は結び直された関係性を疎ましく思い、自分の意思でバグダットカフェを出ていく。そして、それはこの映画の救いにもなっている。関係性は一つではないということ。答えは一つではないからだ。
もしかしたら、ジャスミンはどこにでもいるのかもしれない。ここにも、あそこにも。今、目の前にも。ジャスミンという無の中心は、いつだって誰にだって、何回だって世界を動かすことができることを囁いている。
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