21番 今来むと言ひしばかりに 素性法師
花山周子記
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな 素性法師 〔所載歌集『古今集』恋四(691)〕
長月は九月であるが、旧暦では一か月ほどずれるので、九月下旬から十一月のはじめ頃、つまりだいたい十月ということになる。夜が長くなってくる季節なので、「夜長月」がその語源とも云われ、だからこの歌では、そういう長い夜を待たされてとうとう有明の月(明け方の月)が出る時刻となってしまったのだ。
作者は素性法師というお坊さん。まだ若い頃、出家した父を訪ねたところが「法師の子は法師になるぞよき」と言われ出家させられた。ちなみに、その父、僧正遍昭も素性と並び、三十六歌仙の一人であり、小倉百人一首、十二番、
天つ風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ
の歌の作者である。「法師の子は法師になるぞよき」の名台詞と「をとめの姿しばしとどめむ」を並べて読むとなかなか面白い。
さて、素性法師はこの突然の出家によって都に残してきた恋人とも別れることになってしまい、「心にもあらでなりたりければ」と嘆いている。だから、当人にしてみれば不本意なことと思うが、このエピソードには滑稽味が漂っていて、そして、なんだか「法師の子は法師になるぞよき」と言われて出家させられてしまった人の悲哀の人生みたいなものを考えさせられてしまうのだ。
というわけで、作者はれっきとした男性であるが、当時は待つ恋を詠うのは女性という約束事があった。女性のほうは邸にいて男性が訪ねてくるのを待つのである。だから、この歌は女性に成り代わっての歌ということになる。歌合せ(注1)の場で恋の題で詠まれたものだ。
それにしても、と思う。どう考えてもこれは切ない女性の歌ではないのだ。「今来むと言ひしばかりに」の重厚な韻律はまるで髯の生えたおじいさんのようだ。いや、「今来むと言ひしばかりに」だけであれば、あるいは若い女性の切実な心を感じられるのかもしれない。いけないのは「有明の月を待ち出でつるかな」。この長閑な口調には、なにを悠長な、と、ついつっこみたくなる。待たされ過ぎて、すっかり約束したことも忘れてしまって、ふと気づいたときには、数十年の時が経過していた。そうだった、あの人に今来ると言われたばっかりにわしはここにいたのだった、おやおや有明の月が出てしまっているではないか。となぜだか海の岸壁に胡坐をかいて月を見上げる老翁の姿が私にはくっきりと目に浮ぶ。
そんなわけで、老翁の人生の感慨とでも言いたくなるようなこの歌の鷹揚な佇まいがわたしはなかなか好きである。
翻案では「主婦と兼業」を再開した私の心情を歌にしてみた。
何年も腰かけていし石の上に立たんとぞする 有明の月 花山周子
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