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96番 花さそふ嵐の庭の 入道前太政大臣
2017年10月18日/今橋愛記
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり 入道前太政大臣〔所載歌集『新勅撰集』雑一(1052)〕
歌意
花を誘って散らす嵐の吹く庭は、雪のように花が降りくるが、実は雪ではなく、真に古りゆくものは、このわが身なのだった。
この歌が本歌としている小野小町の
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに
がすきで。どれくらいかというと、
あ、あ、
ちっ、て。しまった ももいろもわたしも
ぼんやりと雨をみているうちに
こんな翻案をしてしまうくらいなのだけれど、
小町の歌には、桜が散って、わたしのすがたもおとろえてしまった。という女の人の憂い。というか、
作者が絶世の美女小町の為、さっきの翻案をつくるときなんかは、美しい女の人に生まれ変わったような気分で、うっとり
だったのだけど。
今回の歌は、持っている注釈書なら「自らの老いを実感し」という、その文字。
「老い」というその言葉に対して、現在40歳の自分には、何というのか実感として使うには、まだおこがましい。
というか、もちろん白髪は増え等々のことは日々あっても、まだ、わかった顔をしたらあかん言葉や。という認識があって。
ちょうどこのところ読んでいた『寂しさが歌の源だから 穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈』(馬場あき子/角川書店)だったら
この前あげてくださった〈さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり〉という歌ですけど、五十代ってまだ身体的にはむしろ盛りの力があるのに、みょうに年齢的な意識の圧力があって、しかも傍には老いゆく親の姿があるという、「ここはどこだ」という人生の途上感がある時期なんです。
傍につねに老人を見ていたのね。父も老いていくし、母も老いていくし。老いていくとき何が心残りになっていくとか、そういうのをじっと見ているんです。すると心に老いが入ってくる。
「老い」について書いてあるこんな部分に、どきんとする。
〈さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり〉。
実感としてこの感じが解るようになるのだったら、年をとるのも悪くないなあと思ったり。
「心に老いが入ってくる」なんて言葉、自分の中には まだないなあと思ったり。
何か ははー(あたまをさげている)ってなるっていうか。何ていうか。
そんなこんなで、自分は、まだ数がいってない。という感じが拭えないまま。でも、この歌すきで。
花さそふも、嵐の庭も。降りゆくが古りゆくとかかってるの なんかは特に。
降りゆく花を透かせて、そこに自分を見ている。そのとききっとぼんやりしている作中主体のひとみの感じ。その全体。こころがすき。何度も、すきすき書いたが、これを好み。っていうんだろう。
大臣の最高位、太政(だいじょう/だじょう)大臣にまで登りつめた作者藤原公経であっても、憂える「老い」って いったい。
まとまらないが、数がいってない者なりの翻案。
今から20年くらい後に、夫とふたりで温泉にでも行っているのをイメージしてつくった。
旅館の部屋の窓から見える嵐の庭。ぱちっと来ないので20年くらい後の自分への宿題にします。かしこ。
さくらかと
目をやらず きみ
ちがいます。
ふりゆくものは わたしたちです。 今橋 愛