35番③ 人はいさ心も知らず 紀貫之
花山周子記
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之 〔所載歌集『古今集』春上(42)〕
詞書
この「あるじ」について、他の鑑賞に倣って「女主人」と読んだ場合にも実のところ、私はそれらの鑑賞に多少ひっかかりを覚えている。
この「親しさゆえの当意即妙のやりとり」というのはこの歌の多くの鑑賞文のなかにまるでテンプレートのように出てくる一節である。この歌に限らず古典和歌の鑑賞に「親しさゆえの当意即妙」は年がら年中出てくる言葉ではあるし、当意即妙というのは、状況に応じて即座にきかせる機転、気の利いた対応というほどのことで特段それ以上の意味は持たないのだけど、それにしても「親しさゆえ」というほど親しいものを私はこの歌に感じない。
和歌においては、実際のところは恋愛関係になくとも、こういう場合には、〈あなたの心はわかりませんが、わたしはこんなにあなたを思っていましたのに〉などと返すのが常套という気がする。これは別に男女に限ったことではなく、相手が同性であってもひとつのコミュニケーションの型として、相手からの憎まれ口にリップサービスすることで一つの型が完成するのだ。このケースでいえば相手の方の「かくさだかになむやどりはある」はそのコミュニケーションの型にちゃんと則ってもいるわけだけど、貫之の返しは、
人はいさ
と大上段に、一般化する。この歌は目の前の相手を遮断して屹立してしまっている。この歌に藤原定家は「余情妖艶」を見て取ったから百人一首に取ったのであろうと憶測されているけれど、この歌に艶なんてあるだろうか。むしろ相手の常套的な挨拶を払いのけるようにして、自然界の不変を賛美する。あなたになんか会いに来たわけじゃありませんよ、わたしはこの変わらないふるさとを楽しむために来たのです。とでも言い渡しているようである。
いや、これはわたしの読みがそれこそ、和歌の「当意即妙」を解していないだけなのかもしれないけれど、それにしても、貫之のほかの歌の場合、
たとえば、この貫之の返歌は同じく自然界の季節の話を持ち出しながら、むしろ自分のほうの心の不変を率直に伝えている。
(つづく)