【教員生活6週間目】国語教育における正解の役割って??😃
こんにちは!
GWも終わり、子どもたちとの日々が再開しました。😉
今週は授業参観もあり、いつも以上に充実していました。
学級通信を作ってみたり、kahoot!を使ってみたり。。
新しいことにも手を付けることができました。
学級通信は、QRコードを載せて写真や動画を見られるようにしたかったのですが、学年で技術的な差が出ないように合わせたほうがいいのではないか、という意見もあって見送りとなりました。
まぁ保護者からの評価にばらつきが出ると面倒というのは一理あります。
また学年で提案してみようかなっ🤞
今回は、「国語教育における正解の役割」というなかなか厳ついタイトルをつけてみました。
私は小学校3年生の担任をしているのですが、普段から国語の授業などで、「間違いなんてないから自分の意見を言ってみて!」と指導しています。
登場人物の心情を考えるときにはよく言います。
子どもたちに間違いを恐れずに挑戦してほしい、前向きなマインドセットを獲得してほしいと思っているからです。
心理的安全性を確保して、奇妙な解釈であっても発信することで、それが全体の学びにつながると考えています。
一方でテストになると、心情を問う問題にも答えは用意されています。
解釈に多様性はあっても、描写や文脈から推測して正解は一意に定まるようにできています。
文中の手がかりや証拠に基づいて、妥当な解釈を導く能力が試されています。
私は授業では、「正解なんてないから思うように書いてみて」と言っておいて、テストの時間になると、「その答えは間違いだからバツ!」と白黒つけていることになります。
それはおかしいんじゃないかと最近思うようになりました。🤔
かといって授業では、考え方の多様性を知ったり、発想の転換をする練習をしたりしたいです。
テストで、「うーん、その解釈も完全には否定できないから◯!」みたいにするのも変な話ですよね。
そもそも国語において、答えがある問題と答えがない問題の線引きってどこなんでしょう?🙃
何を教えたいか、という目的や文脈によって境界線が変化するような曖昧なもののような気もしますし、その曖昧さに教育的な価値が隠れているような気もします。
だからこそ授業ではその曖昧さに注目したいのかも。。
テストでは境界線から遠いところを聞くようにしているのかも。。
なんだか頭がこんがらがってきましたが、なんだか核心に近づいている気もします(ポジティブすぎる笑)
「授業とテストでは目的が違っていて、どちらも大切なんだよ」と伝えればいいのでしょうか?
授業では思考の自由度を高め、多様な解釈を尊重することを、テストでは論理的思考や文中の証拠に基づいた解釈を評価することを、それぞれの目的として伝えると矛盾に苦しまないかもしれません。
もしかすると、正解があるかどうかは一見矛盾しているようで、実はそんなことはなく、曖昧な境界を補完する関係にあるのかもしれません。
授業で培った自由な発想や多様な解釈を、テストではどのように論理的に組み立て直し、妥当性を見出すかというプロセスを経験する、という一連の流れこそが国語教育なのかも!
だとするならば、私は授業の中で、論理的に組み立てて妥当性を見出す練習をさせるべきでした。
よし!ちょうど次の教材は説明文なので、この目標も追加して授業を考えてみます。😊
テストには、「国語の中の論理的推論系はまかせた!」と言って、授業では、「子どもたちが自由な発想を持って、多様性を受け入れる姿勢を育むぜ!」
といったような役割分担をしている、と考えると少し気が楽ですね。
やっぱり国語っておもしろいですね!!
分からないことはまだまだありますが、ご意見あれば教えてくださいっ!!😳
明日からまた一週間頑張りましょうっ
ここまで読んでくれてありがとうございました!!!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?