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かりゆし65歳

「何回行ったん? 沖縄」
「ええっ、数えたことないけど、そうやなあ30回くらいかなあ」


「そもそもの始まりはなんだろう」
と自問する。
「ああ。思い出した。4年生担任してる時に、社会科で『あたたかい地方のくらし』とか言う単元があって、研究授業(授業を公開して、研究、協議する場を提供するもの)をすることになってんやった。当時、所属していた研究団体の結構大きい発表の場やって……、それでどっぷり沖縄の研究することになって……」
「4年生やから、基地問題とかむずかしいし、『ああ、沖縄行ってみたいなあ』くらいの気持ちで終われたらええかなと思って、構成したわ」
「そしたら、自分が一番行きたいなあって思って終わった」
独り言で回答。

 「行きたい」思いは8年後に現実のものとなる。
 一緒に学年を組んだ方が、格安のコンドミニアムを利用して毎年行っているらしく、紹介してもらったのだ。この年も4年生を担任していた。
 私は37歳、さかのぼること28年前。
 長女は小学2年、長男は、まだ、就学前だった。

 確か、8月の初旬だったと記憶している。
 沖縄ビギナーだったので、「ひめゆりの塔」「玉泉洞」「琉球村」など定番コースを観光した覚えがある。宿泊したコンドミニアムは恩納村のビーチにあった。知人に聞いた「魚肉ソーセージ」を片手に1日中シュノーケリングし、熱帯魚と友達になった。
 琉球グラスの体験もした。「あれは、ぼったくりやったなあ」といまだに話題にのぼる。不恰好なジョッキ型の琉球グラスは、鍵置き場になったり、一輪挿しになったりしながらどこかへ消え去ってしまった。(高かったのに)

「守礼の門」に行ったときだ。
「ぼく、大きくなったら沖縄の大学に行きたい」
と長男が言った。奈良県在住の私たちは
「ほんまに行けたらええなあ」
と笑っていたが、十数年後、それは現実のものとなった。ちなみに、私自身は札幌で大学4年間を過ごした経歴の持ち主である。似たもの親子なのかもしれない。

 さらに、小学校の教員を目指すと決めた息子は、大学卒業後、一旦奈良へ帰り、塾の講師をしながら通信教育で免許を取得し、教員採用試験を受けた。受験したのは、住んでいる奈良と大学時代を過ごした沖縄の2県。
 私も当時は現役で教壇に立っていたので、同じ奈良県で教鞭を取ることになるのかなと思いきや……。

息子は、沖縄県だけ「合格」した。

 通知が届いた時、私は息子に、「完全犯罪」と笑った。妻は、「あーあ。やりよったあ」とつぶやいた。

 身内が沖縄に住んでいることで、沖縄は近い存在になった。
 息子が在学中も何度か赴いたし、沖縄で就職してからは毎年のように飛行機に乗った。航空代も随分安くなったのでますます行きやすくなった。
 那覇空港に着陸し、温かい空気を吸いながら、ランの花に出迎えられる時、「ああ、着いたなあ」と思う。

 息子は、縁があって、「でじ、ちゅらかーぎー」な女性と結婚し、これまた「ちゅら、ちゅら」な2人の子宝に恵まれた。そして、顔がどんどん「うちなんちゅ」になっていく。
 定年退職した後、自分でも驚くほどの「じじバカ」になった私は、沖縄行きの回数がますます増えた。
 北は辺戸岬から、南は喜屋武岬まで本島は、一通り回った。
 さらに、石垣島、宮古島、西表島と南の島へも何度か足をのばした。

「今度沖縄へ初めて行くんやけど、おすすめ教えて?」と友人から聞かれるほどになり、それなりのプランニングまでできるようになった。
 おすすめの「沖縄そば」や「天ぷら」、「泡盛」の酒蔵から買い物スポットまで紹介できる。

 妻とゴルフをするのも旅の楽しみの一つである。(息子のところにクラブは置かせてもらっている)ただ、沖縄のゴルフ場は、プレー料金が高い。県民割を親族にまで広げてもらえないものかと思う。
 それでも、青い空の下、海の見える美しいコースでラウンドする時、「ああ、幸せだなあ。この時のために生きてきたのかもしれない」という気持ちになる。スコアがもう少しよければいう事ないのだが。

「還暦ゴルファー」さんの作品を読ませていただき、添えられている美しいフォトに見入る。
「自分もこんなところでプレーしてみたいなあ」「太陽ゴルフクラブ? 基地の中にあるんだ。知らなかった」
とワクワクを増幅させている還暦を5つも過ぎた私。

 それでは
「あちゃーなー」

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