<連載小説> 沈み橋、流れ橋
―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―
第2章(6)
誠治郎の軟派な友人、浅本が夢中になっている、女学生に「付け文」を受け取らせるというゲームは、結果的には大抵の女学生が突然声をかけられて驚き、逃げてしまうのだった。誠治郎はそれをじっくり観察して失敗しない方法を編み出した。いったん追い越してある程度距離を取ってから向きを変え、女学生の視線を捉えながら近づいて堂々と渡すのである。実際、それで何度も成功を収めた。誠治郎はその恵まれた体躯が見栄えを良く見せることをすでに熟知していた。端艇部の練習で鍛えた筋骨や焼けた肌も、彼の予想以上に女学生たちを魅了していたのかもしれない。
とはいえ、付け文が恋に発展する可能性は皆無であった。付け文に返事を書く女学生がいたらいたで、それも破廉恥と処分を受けただろう。中学生の恋はまだまだ妄想の域内にとどまっていた。誠治郎とて、男ばかりの兄弟でまだ最初の妹も生まれてはおらず、同年代の女学生はただ珍しい存在だったに過ぎない。
結局のところは、授業と部活動の合間に女学生への恋心が入り込むには、誠治郎は多忙すぎた。部活動の後に学校近くのパン屋で、ジャムパンや牛肉の切れ端の入ったパンにかぶりつく瞬間が、一番の楽しみと言っていい年頃でもあったのだ。
しかしその夏、誠治郎の心を奮い立たせた出来事があった。
北野中学は各学年で毎年、修学旅行を実施する。三年生以下は日帰り旅行、四、五年生は軍事教練を兼ねた近隣への宿泊旅行となっていた。校長以下、十数名の教職員が統率して、早朝、校庭から進軍ラッパを吹奏しながら出かけていく。ところがその夏は、「満韓修学旅行」の計画が発表され、志望者の募集があった。七月十八日からほぼひと月にわたって、各学年から数名、計三十名前後が満州と朝鮮へ渡るというのだ。初めての外国への修学旅行であり、予算は大阪府が持つという。当然上級生が有利ではあったが、誠治郎はその募集を聞いた時、武者ぶるいのような興奮を抑えることができなかった。ぜひとも応募したかったが、父兄の許可が必要だった。
日本が勝利した日露戦争後のポーツマス条約によって、ロマノフ王朝の権益のうち、南満州に属するものは日本に引き渡され、日本から満州・朝鮮への渡航が増えていた。文学者や芸術家たちも大陸へ渡ることが頻繁になり、夏目漱石によるレポート「満韓ところどころ」も明治四十二(1909)年から新聞連載されることになる。未来を背負うエリートたる中学生たちを公費で派遣することにも、重要な意味があると考えられたのだろう。
「満韓? どこですのん。満州と朝鮮? え、ひと月も、だっか。中学生が何しに行きますのん」
まず、母に相談すれば、母はそう問うた。父がつかまらなかった。しばらく家を空けて帰っていなかった。七月五日に志望者募集があり、六日には父兄の召喚、体格検査と続く。十四日には志望者への校長の訓示、十六日には合格者が決定し、十八日には出発である。父の許しがなければもちろん応募はできない。結局、父とはその短い期間中、会うことすらできなかった。
全てが決定した後になって、母からその話を聞いた父は、「満韓か。おお、ええやないか。行ってこいや」と言ったが後の祭りだった。市岡・堺・八尾中学校などの生徒と共に、二十名の北中生が、大連、旅順、奉天、仁川、漢城府*、釜山等へと旅立って行った。(*現在のソウル)
彼らの後ろ姿を悔しい思いで見送ったが、このことは、それまでぼんやりとした憧れの対象であった大陸への夢を、誠治郎に強く植えつけることになった。しかしその夢が叶うには、その時からまだ少しの年月を必要とした。
一方、誠治郎と気の合う千鶴の長男、謙三は、二人の兄のように打ち込む何かがどうにも見つからない。むしろ謙三の中学生としての毎日は、劣等感にさいなまれる日々と言ってよかった。自分は高等小学校でよかったのに、二人の兄が合格してからは北野中に進むのは当たり前のことになっていて、受験しない選択肢はなかった。成績も目立って良い訳でもないのに合格できたのも不思議だった。
入学以降、兄たちとの差を感じさせられるのも気分の良いものではなかった。子どもっぽい自分と比べて信太郎は大人びて聡明そうに見えたし、誠治郎の方は、勉強も運動も体格も何もかもまさっていた。苗字が違うことを初めてよかったと思っていたら、教職員の多くは事情を知っていて、中には「お前、あの廣谷の弟か」と当てこする嫌な教師もいて、じわじわと級友たちの知るところとなった。誠治郎みたいに目覚ましい成績を家に持って帰るでもない、運動も得意でない。堂島川でオールを漕ぐ気にもなれないし、信太郎の講堂での英語会話はさっぱりわからなかった。そんな自分は廣谷の家には必要のない人間に思えてくるのだった。
明治四十二(1909)年、自分の下に初めて生まれた女の赤ん坊は、二人の弟とも、「廣谷のお母さん」の所の六人兄弟とも、全く別の存在に思われた。一枝と名付けられたその女の子は、謙三に思わぬ幸福をもたらした。
白くて小さくて、触れたら壊れてしまいそうにか弱いその赤ん坊が、これほど大切な存在に思えたことはなかった。父がこれまで見せたこともないような柔和な表情で、その子をあやすのも真っ当なことに思われた。母はもちろん、ばあやや、ねえやんや、子守の興味が一気にその女の子に移っていき、自分が誰からも注意を払われなくなったのは、謙三にとってありがたいことだった。
そして何よりも、妹の苗字が「廣谷」でなく、自分と同じ「笹部」であったことも謙三を喜ばせた。それまで自分以外の兄弟が全員「廣谷」を名乗っているのも訳がわからず、気に食わなかったのだ。一枝だけが本当のきょうだいという気がした。女子はどうせ嫁に出すんやから笹部のままでええがな、との駒蔵の判断を、知る由もない当時の謙三であった。謙三は一枝をたいそう可愛がった。
(つづく・次回の掲載は12月15日の予定です)
*参考資料:「創立五十周年」(大阪府立北野中学校六稜同窓会発行)、「北野百年史」(北野百年史刊行会発行)、「北野百二十年」(大阪府立北野高等学校創立120周年記念誌編集係編・大阪府立北野高等学校/六稜同窓会、創立120周年記念事業委員会発行)、塚野克巳「長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌」(長崎県教育研究協議会発行)
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。