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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第2章(3)


   駒蔵の長男、信太郎が北野中学校に入学した明治三十七(1904)年当時、義務教育は尋常小学校(四年)までで、その上に高等小学校(二〜四年)、男子のみの中学校(五年)、女子のみの高等女学校(四年)があった。農・工・商など実業に就く者たちのための実業学校もあった。この頃から中学志願者は急増し入学難でもあったので、不合格でも高等小学校をもう一年やってから、翌年再受験する者も多かった。それでも進学率は小学校卒業生の一%程度。中学入学にはかなりの費用がかかったことがある。
   北野中学校を前身とする大阪府立北野高等学校百周年記念誌『北野百年史』に記載の「生徒費用概算表」によれば、まず授業料として二十一円(これは全国でも高額)。教科書代が七円、被服代としては夏服二着に冬服、帽子、日覆(制帽を覆う夏用の布)、靴下、外套など総額十九円、文房具等の雑費を合計すると、五十四円六十銭、になる。日本銀行調査統計局の「企業物価指数」を元に、明治三十年頃の貨幣価値を現代に換算してみると、一円は二万円程。つまり、入学時に一人につき、五十四円=約百八万円がかかり、その出費は五年間、落第すればそれ以上続くということだ。
   駒蔵は大枚を費やして、この後も息子たちを毎年のように中学に進学させることになるのだが、なぜ可能だったか。
   明治十五(1882)年に作った貿易会社「正栄社」は簾を主製品とするブラジルへの輸出品が飛ぶように売れていた。さらに共同経営者の岡坂愛之助との新会社「廣谷鋳鋼所」も順調に利益を上げていた。儲かっていたのだ。

   ところでその頃、日本は大きな戦争をしていた。信太郎入学の二か月前、二月十日にロシアに宣戦布告して始まった日露戦争である。その年が終わる頃には二百三高地を占領、年明けの元日に旅順を陥落させて、日本中がその勝利に沸いた。北野中学からも教職員七名、卒業生百四名が出征していった。生徒たちは出征兵士を見送るため朝に夕に、深夜にも提灯を掲げて、梅田駅に連日のように動員された。
   しかし犠牲者も出る。教職員はうち一名が、卒業生は十二名が帰らぬ人となり、戦果に一喜一憂しながらも、全職員・生徒で葬儀に参列する日が続いた。そうやって若い命が失われていっても、世の中の戦勝ムードは冷めることはなかった。生徒自身がそうだったのだ。学校も社会も、彼らの高揚感を掻き立てていた。
   次男の誠治郎もそんな一人だった。入学した明治三十八(1905)年の五月には、大阪第八連隊の営庭で戦没者の合葬に参列し、初めて戦争による死が身近な存在となった体験に、心が激しく揺さぶられた。明治二十二(1889)年の改正兵役法により、兵役義務は十七歳から四十歳までとなっていた。自分とさして年の違わない少年たちが国外へ出て戦い、屍となって帰ってくる現実を自分の未来に投影させもした。ただ、そんな感傷を圧倒するのは、俄然日本との距離が縮まったように思える大陸への好奇心だった。この戦争は、小さな島国を飛び出して海の向こうへ行ってみたい、という日頃からの想いに火を点けていた。

   一年上の信太郎は戦争の実感が誠治郎とは違うのか、同じ合葬の日は一日中、いつも以上に愛想が悪く、ほとんど口をきかなかった。夕飯には珍しく父がいて、さして興味もないだろうに「どんな教師が教えとるんや」だの、「軍事教練があるんか、何するんや」だの、二人の顔を交互に見ながら尋ねるのだが、信太郎はほとんど応えないので、誠治郎がその日の話を父に語って聞かせた。合間にも兄に目をやると、無愛想な顔にも憂鬱さが滲み出ていて、ふと今日弔った戦死者の中に知り合いがいたのかもしれないと思ったりした。途端に兄の心の中を少しだけ覗いたような気になり、初めて兄という人間に関心が湧いた。
   そして、去年の夏のことを思い出した。

   兄と同じ部屋を共有している誠治郎は、兄が読みかけのまま机に置いていった雑誌を見つけて、何気なく手に取った。精悍な若者の顔が全面に描かれた表紙には『明星みょうじょう』とある。読みかけのページを開くと、一編の詩が載っていた。

「さわるな」
   突然、戻ってきた兄に怒鳴られ、背後から雑誌はすぐに取り上げられた。振り向くと兄は怒った顔ではあるが、何か話したそうにも見えたから、挑発するように言葉を返した。
「なんやこれ。女が読むもんやないんか」
   信太郎は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「お前はなんも知らんやろから教えてやる。よ、さ、の、あ、き、こ、じゃ。よう覚えとけ。堺出身の文学者やぞ」
   そんな名は初めて聞いた。女のくせに文学者なのか、と思った。それ以上何も尋ねなかったのに、兄は少し興奮気味に、どれほど優れているかは、あの森鷗外も称賛しとることでわかる、と言った。この詩が載っている『明星』は、いま最も文芸界で注目を集めとる雑誌ぞ、とも言った。
「自分で買うたんか」
   森鷗外の名も知らなかったがそう尋ねると、上級生から回ってきて、また次の生徒に回覧するのだという。雑誌『明星』は当時、一冊十六銭(現在の貨幣価値で約三千二百円)もしたので、未成年が気軽に買えるものではなかった。同好の士や文学好きの学生は回覧して読むのが普通だった。誠治郎がそんな事情を知るのは後のことになるが、この時、兄との趣味趣向の違いを、弟はなんとなく実感したのだった。(つづく・次回の掲載は11月1日の予定です)


*参考資料:「北区誌」(大阪市北区役所編集発行)、「北野百年史」(北野百年史刊行会発行)、「創立五十周年」(大阪府立北野中学校六稜同窓会発行)、藤原重彦「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(パブフル発行)、塚野克巳「長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌」(長崎県教育研究協議会発行)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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