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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第2章(2)


   お初天神の西側の通りをさらに北へ向かうと、昔の人はいまだに「ステンショ」と呼ぶ大阪駅が見えてくる。初代の駅舎は百年持つと言われていたのに、三十年足らずで寿命が来て四年前の明治三十四(1901)年に建て替わり、煉瓦から御影石造りの洋館に生まれ変わっていた。阪急電鉄が開通するのはまだ先のことで、路面電車(大阪市電)も、開業時の築港線のみだった。つまりこのあたりはまだ草ぼうぼうという状態だったので、余計に駅舎の壮麗さは目を引いた。そしてさらに向こうには、三人が向かう北野中学の新しい校舎も見える。こちらも三年前に堂島から移ってきたばかりだ。
 ところで信太郎の足取りがさっきから速くなっていることに誠治郎は気づいていた。自分たちはこれから、大阪駅から東へと延びる線路の向こう側に行くのである。そのためには踏切を渡らねばならない。入学試験の日、その踏切は二十分間開かなかった。幸いなことに誠治郎は五分しか待たずに済んだのだが、懐中時計を何度も取り出して見ていた勤め人らしい男が、遮断機の前でもう二十分待っている、もっと待つこともあると嘆いていた。実際にその日、試験に遅れる者もいたのだった。
 このころ大阪駅には官営鉄道のほか、山陽鉄道、関西鉄道など五つの私鉄の列車が乗り入れていた。いきおい踏切は閉まったままのことが多くなる。時機を逃すと二十分以上も、踏切で各列車が通過するのを待つことになる。信太郎は無論そんな事情は周知のはずだから急ぎ足になっている。誠治郎も歩みを速めた。
 案の定、踏切番が小屋から出てきて、遮断機を下ろそうとするのが見えた。信太郎が突然、振り向いた。そして二人の弟に、「走るで。ついてこいよ」と鋭い声で言い、駆け出した。周囲には他にも北中生がいて、一斉に、競うように走り出す。謙三はなんのことやらわからないでいる。置いて行こうかとも思ったが、今日は入学式やし、と考え直し、誠治郎は謙三の片腕を掴むと全速力で駆け出した。
 踏切番の若い男の目が凄みを帯びた気がした。学生との戦いに負けるわけにはいかんというつもりか、まだ車両も接近していないのに遮断機を下げようとするところを、三兄弟は間一髪ですり抜け、線路の上を走り抜けた。一張羅の制服はたちまち汗まみれになった。振り返ると、下がった二つの遮断機の向こうには、渡り損ねた学生たちが立ちすくんでいるのが見えた。北中の学生と踏切番は、こうやって毎日のように戦争を繰り返していたのだった。
   これで三人が入学式に遅刻する心配はなくなった。正門の前までゆっくりと向かい、二階建ての木造校舎を目にした時、試験の時とは別の感慨が誠治郎を満たした。今日腕を通したばかりの制服のような新しい香りを嗅いだ気がして、深く息を吸った。隣の謙三も同様の思いを抱いているのか、口を半開きにして、校舎に見惚れているみたいだった。自身をも鼓舞するように謙三の肩をポンと叩いてから、誠治郎は兄弟たちと、北中の新しい生徒として門をくぐる。

 難しい文言ばかりが続く校長の式辞は、一言残らず右の耳から左の耳へと流れて消えていった。父兄席に父の姿があったかどうかはわからずじまいで、名代たる兄は当然のように在校生席へ行ってしまうし、苗字の違う謙三とは席も離れていてどこに座っているのかもわからない。誠治郎は、そんな中で父のことを思った。何を考えているのかわからない長男より、自分は多少は地に足がついて見えるのかもしれないが、それにしても自分を買い被りすぎではないか。ただ、俺はちょっと機転が効くだけ。大人たちには優等生に見せておいた方が何かと好きなことができると、十三歳にして彼は悟っていた。現に、勉強はできた。飲み込みが早く、一度聞いたことはすぐ覚え、口も立つ。兄はおそらく、大人からはひねくれて見える。時々なんということもないことで激怒したりもするので、お母ちゃんも手を焼く。本当は俺なんかより純粋に違いないが、要は不器用なのだ。とそこまで考えて、まあどうでもええわ、人のことは、と思う。
   北野中学の制服を着た今、確かに何かが心の奥に宿ったような気はする。それは少年にとっては、野望、というにはまだ早すぎる心のざわめきだったかもしれない。しかしその存在をしっかりと、誠治郎は自身の体に刻み込んだ。

   明治三十八(1905)年入学、一二五名の新入生が三組に分けられた。謙三とは別々になって式の後も会えず、父の姿もついに見つけられなかった。帰途につく生徒たちと共に、今度は急がなくてもいい踏切を待たずに渡り切ったところで、同級だという生徒に声をかけられた。彼は島昌三と名乗り、「君、これから一緒に凌雲閣りょううんかくに行かへんか」と誠治郎を誘った。
   凌雲閣は明治二十二(1889)年、北野茶屋町にあった遊園地「有楽園」の中に建てられた木造九階建て、二十七間(約39メートル)もある高楼である。一、二階は五角形、三階から八階は八角形、らせん状に通路が巡り、九階部分には丸屋根の展望台と時計台があった(翌年、東京浅草にも、同じ名の十二階建てが登場した)。前年にできた大阪初の五階建て建築、眺望楼が「ミナミの五階」なら、こちらは「キタの九階」と呼ばれ、ともに客を競い合う観光地になっていた。
 誠治郎はまだ昇ったことがなかった。高い所に昇るのは子供っぽい気がして、というのは言い訳で、高い所が実はあまり好きではなかった。入学式のこの日初めて会った同級生に誘われ、心の奥できた火種に着火するのはこの時だ、と、咄嗟に思った。

 島昌三は高い所が好きと見えて、目を輝かせてらせん状になった通路を駆け上がっていくので、誠治郎は恐怖感を抱く暇もなく、彼の後からあっという間に地上九階まで上がり切ってしまった。楼の下には、広大な遊園地が広がっていて、大小ある池にはボートが浮かび、四阿あずまやや街灯も見える。目を遠くに向けると、北西の方角に北野中学の学舎、南西の方角には大阪駅が見渡せる。さらに南を眺めると、堂島川と思われる川のほとりに、堂々たる石造りの洋風建築が見える。控訴院(大阪高等裁判所)だろうか。
   楼の周りを一周して三百六十度に視界を巡らせると、高所への苦手意識は消えていったように思われた。誠治郎は世界がどこまでも広がっていることを、実感した。(つづく・次回の掲載は10月15日の予定です) 

*参考資料:「北区誌」(大阪市北区役所編集発行)、「北野百年史」(北野百年史刊行会発行)、「創立五十周年」(大阪府立北野中学校六稜同窓会発行)、「大阪まち物語」(なにわ物語研究会編、創元社刊)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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