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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第2章(8)


新年あけましておめでとうございます。「沈み橋、流れ橋」もスタートして一年と三か月を経過しました。お読みいただき、誠にありがとうございます。元日早々、何やら物憂いイラストで始まりましたが、今年も駒蔵ファミリーをどうぞ温かい目で見守ってやってください。

 曽根崎新地での居どころを失い、大火が収まった翌日になって、やっとのことで老松町の家を頼ってきた千鶴は、数日間、老松町の家で死んだように眠った。起き上がれるようになった時、それまでとはまるで人が違ってしまったように美津には感じられた。
 美津が話しかけてもろくに答えず、険しい表情を崩すことがなかった。店が焼失したことは耐え難い苦しみだろうと美津には想像でき、そんな時こそだからこそ力になりたいのに、取りつく島もない。駒蔵は駒蔵で、もうここで暮らせ、美津もそう言うとる、と何度も説得したというが、千鶴は首を縦に振らないのだという。仲の良かった自分へのあまりにも冷めた態度に、何か気に障ることでも言ってしまったのだろうかと、美津は気を揉んだ。そして千鶴が子供を連れて家の前で崩れ落ちた時のことを思いだして、胸が苦しくなった。あの時千鶴はなんであんなことを言ったのだろう。

 千鶴はくよくよ悩むのが嫌いな性分だ。けれど火事以降悩んでばかりだった。はっきりと思いを口にできない自分がもどかしく、自己嫌悪にも陥っていた。こんな災難は予想もできなかった。自分の落ち度ではない。だから何としてでも、義理の母から継いだお茶屋を、絶対にまた建て直したいと強く思っている。しかし建物も家財も全焼して、一体どうすれば再建できるというのだ。いや、方法は一つだけある。駒蔵の財力にすがることだ。そうすれば間違いなく思いは叶えられるだろう。けれど、自分の中の意地がそれをさせなくしているのだ。
 廣谷家の長男、信太郎が北野中学を卒業して上京する際の出立式で、千鶴が「お父ちゃんには一銭ももろてない」と子供たち全員の前で啖呵を切ったのは、ついこの春のことだ。今ここで、一銭でももろうてしもたら、うちの子らはお母ちゃんは嘘つきと思うだろう。それより何より自分自身がそんなことはしたくない。そやけど……。
 こんな時、ええ気なもんやわ、お美津さんは。なんせ天下の御寮人さんやもの。お茶屋のことなんかどうでもええんやさかい。そんなことまで思ってしまって、千鶴は胸が悪くなった。けれど、きっちり焼けた自分の店と、きっちり残った廣谷の邸宅を比べて、運命を呪いたくもなるのだった。この家までやっとの思いで来て、美津の温かい腕が自分の冷たい体を支えてくれた瞬間に、どうしてそれが逆ではなかったのか、と思う自分がいた。美津に恨みなど何一つない。しかしそれゆえに、彼女の温情が苦しい。
 結局、悩みに悩んだ挙句、千鶴は意地を通すことより実を取った。駒蔵に支援を申し出て、お借りしたものはいつになるかわからないが必ず返す、と約束した。駒蔵が「そんなもん返さんでええ」と言うのはわかっていた。返せるはずもないともわかっていた。それでも自分の力で生きていくんやという矜持だけは、千鶴は手放したくなかった。
「よし、わかった。ほんなら一つだけ条件や」
 駒蔵も、千鶴の意地っ張りで頑固な性格をよくわかっていたから、条件を出した。再建は全力で応援する。金は無期限で貸すので、再建にあんたは全力を注ぎなはれ。ただし、店が落ち着くまでは子供らはこっちで面倒を見る、と。
「お美津さんがそう言わはったんだすか」
 千鶴はきっと目を上げると、駒蔵に食ってかかるように言った。百歩譲って駒蔵に面倒をかけるのはいいとしても、美津の手を煩わせたくはなかった。駒蔵は駒蔵で、美津に相談などしているわけがない。子供のことを心配するとは我ながらよう気がつく、と思ったくらいだ。でも美津もそう考えるに違いないと思って、駒蔵は「そうや」と返す。
「子供はこっちに任せること。それが条件や。あんたは会いたい時にいつでも来たらええんや。ああ、一枝かずえはまだ乳がいるか。ほんなら、うちのお鍋でもお亀でも、子守りを一人連れていけ。それが最善の策や。それ以外に京縫を立て直す道はない」
 駒蔵は、ほぼ命令口調で断言した。千鶴は何一つ言い返さなかった。もうここまで来たら、自分の我は通すことはできない。店をもう一度やり直すことが、駒蔵の言うとおり最善の道と思い知った。一枝だけは手元に置けることは救いだ。それで頑張れる気がした。千鶴はようやく首を縦に振った。
 そのあとは早かった。一枝と女中のお亀と三人で暮らせる小さな家を老松町からさほど遠くない所に駒蔵は用意してやり、千鶴は新しい生活に向かって踏み出した。力を振り搾るあまりに、これまで大好きだった美津の心を踏みにじっていることに千鶴は鈍感だった。そして、二人の女の間に生じた溝に、駒蔵もまた無自覚だった。

 大火で焼け野原となった曽根崎・堂島一帯の風景は大きく変わった。一部焼け残った民家も消防団によって次々と壊され、その瓦礫で新地の真ん中を流れていた曽根崎川の、緑橋から上流部分が埋め立てられた。堂島と曽根崎新地を隔て、橋でのみ繋がれていた情緒ある川の流れは、このとき、半分が失われた。その後、大正十三(1924)年には下流部分も埋め立てられて曽根崎川は消滅し、曽根崎新地と梅田、福島は地続きになる。
 遊所であった曽根崎新地は、営業形態そのものが変わることになった。明治以降、娼妓が営業する座敷を貸すという意味合いで遊女屋を「貸座敷」と呼んでいたが、大火の翌年三月末日をもって、曽根崎新地は貸座敷所在地であることを廃止され、芸妓の居住が認められるようになった。置屋ができ、貸座敷は「貸席」と名を変えて芸妓の紹介をなりわいとするようになる。
 芸妓らによる華やかな「浪花踊なにわおどり」が演じられてきた北新地演舞場も、大火からわずか六年後の大正四(1915)年には再建され、この場所は大阪を代表する歓楽街「北新地」の発展につながっていくことになる。結果として北の大火は、半ば強制的に都市を激変させたのである。
 道路は整備され、電信、電話線は地下に潜る。家屋の新築も進む。焼け跡の土地を利用して、二年後には空芯町から梅田新道を経て桜町に至る市電道路も敷設される。北区のみならず、都市としての大阪が変貌する時代の中にあった。
(つづく・次回の掲載は1月15日の予定です)

*参考資料:「北区誌」(大阪市北区役所編集発行)、「経済人」2000年12月号(関西経済連合会刊)、「天満警察史」(天満警察史編集委員会 編集発行)、「キタ−風土記大阪−」(宮本又次著 ミネルヴァ書房)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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