【灯火】毎日が尊い…
この7ケ月ほどは、医療の世界の中で悩み奔走した。
父は、20年近く前から難治性の病気を患っていたこともあり、常々『延命治療は拒否する』と事あるごとに私達家族に伝えていた。
それは、5月半ばの介護生活に入る頃のまだしっかりと意思の疎通が可能だった時点でも主治医からの確認に迷わず『はい』と応えていた。
しかし・・・いざ始まってみると❝延命治療の定義❞の難しさを痛感する出来事が多々あった。
終末期になると心臓マッサージ、人口呼吸器だけが延命では無く一つ一つの処置が延命に繋がり必要か不必要かを本人に代わって家族が選択していく。
医療従事者
と一括りにするには、それぞれのポジションには大きな違いがあった。
容態悪化当初の病院の医師は、検査結果をもとに必要な処置を行う。数値が悪ければ投薬・外科的な処置。たとえその結果がプラスにならなくても可能性があれば実行に向かっての説明と治療が始まる。
父にまだわずかでも希望があった時期は、その治療によって回復したかのようにも見えたので選択もしやすかったけれど、徐々にその処置が延命・苦しむ時間の延長に繋がり出すと葛藤が生まれた。
『もう結構です』の一言の重み・責任が私たち家族に大きくのしかかった。
一方5月半ばからの在宅の医師の治療方針は、180℃違うものだった。
全ての処置に意味がないような説明に唖然としたのを覚えている。
在宅看取り介護は、目の前の出来事を全て受け入れることがベースにあるのだろう。
しかし、これはこれで正直医師の診察や判断を仰ぐ意味がいまひとつ不明に感じた。
訪問してくださるたびに、心が疲弊した。
病院の医師は、死を遠ざけ、在宅医は、生を諦めたように感じる日々が続いた。
どちらも、同じ医療なのだろうけれど…
自らの死生観のもと選択していくことが人生を終える作業なのだろうか。
などと最後の最後まで父の姿から多くのことを学ばせてもらっている。
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