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ラサール⭕️玉

職場に、ラサール高校出身の医者がいた。
勝手にラサール石井を真似て、ラサール⭕️玉とあだ名をつけていた。

ラサール⭕️玉は、少々変わりもので、急に、流しをしたいと言い出し、学会に行った時に、流しがいる店に連れて行かれ、流しのギターに合わせ一緒に歌い、流しについて熱く語られた。

ついには、自分もしたいと言いだし、私にそれを演出してほしいと言われ、何度か病院の飲み会で、流し⭕️玉が出来るよう演出してあげた事があった。
飲み会の席では、素人の流しであっても案外盛り上がって、流し⭕️玉は、ご機嫌だった。
そのうち、コロナが流行りだし、流しが出来ない状況になっていったが、今でもあの流しさんたちは、コロナを乗り越えて演奏しているのだろうか?とふと思いだす。

そんな事もあり、偉く懐かれるようになった。
その頃病院で、一つのミッションが課せられ、⭕️玉と、私がそれを一任されていた。
何百人が集めての集会や、そのミッションを紹介するドラマなど、一緒に作り上げた。
仕事、子育てをしながらも、何かを任されることは、やりがいがあって楽しかった。

ミッションをやるにあたり、時には夜中までかかる事もあったので、怪しまれる事もないとは思ったが、お互いの家族も紹介し合っていた。
ラサール⭕️玉のお子さんも、障害があってその事もあり、奥さんともすぐに仲良くなった。

そんな、ラサール⭕️玉は、うちの次男の受験の時から応援してくれていた。受験前にはお守りをくれたり、合格してからもお祝いをしてくれて、とても喜んでくれていた。

始めての中間試験でビリから10番目の成績だったと言ったら、自分が勉強を教えると言って、家庭教師をしてくれた。
数学の問題を持ってラサール⭕️玉の家に息子が行くようになった。やっぱり勉強が好きなんだろう。難題になる程燃えるようで、ラサール⭕️玉の方が楽しんでいたように思う。

その後、コロナが流行り飲み会が自粛され、色々なことが制限され、だんだんと疎遠になり、転勤してしまったが、一緒に作り上げた物は今でも残っている。

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