作家のくせに同窓会ニッコニコで行った
高校を卒業してからずっと同窓会に行きたかった。中高の同級生や先生のことをわりあい好きだったから。引越しのせいで地元に友人が居らず、逆に成人式の方は欠席した。
ワクワクで会場へ向かった。
いざ顔を出してみると特に仲の良かった友人は皆来ていなくて結構寂しい思いをしたし、2024年1月某日に水色だった髪の毛は褒めも貶されもせず、曖昧にチョケられて、すれ違う友人のイジりに私が砕けた返事を投げる度にその色彩は浮き、はじけた。私以外に派手と言える髪色の女の子はブロンドのEちゃんくらいだった。それでも目立っていた。変わってないねそうだね、と障りなく言葉を交わし、ビュッフェを味わった。ちょっと肩身狭かったけど楽しかったし機会あるならまた行きたい!_____なんかもう徹底的に小説家じゃないみたいです。馴染むな許すな無理に溶け込むなよお前の尊厳を守れよ許せないことがあれよ作家なんだから、と、自分に檄を飛ばしたくなるけど、困ったことに所感として七割ふつうに楽しかった。別に誰も悪くなくね? 私が変なのは私に責任があるんだから、誰も悪くなくないか。
中学は半分行ってなかったけど、持ち上がりでの高校は大田区から横浜市まで70分頑張って通学していた。友達はいたし彼氏もたまにいた。
(この段落は笑って読んでくれないと逆に辛いから、あらかじめ口角あげておいて欲しい)平然を保とうと踏ん張った心よりも脳と脳直結の体がヘルプを出してきて、しかし登校中は度々吐いた。思い出せるのは日吉、綱島、新横浜の3回で、3回ともトイレで口をゆすいでマスクを買って「も〜朝の服薬全部出ちゃったかよ泣」と不安になりながらもSHRには間に合った。誰にも意地悪などされていなかったし、どんな眠剤にも負けない中途覚醒の四時起きから成っていた早朝の自習を欠かすことが、ゲロの匂いより気掛かりだった。成績は総合すると校内で並ちょい下くらい、小説家が国語出来ないのは恥ずかしかったので現文・古文はテッペンからちょい下くらいをキープした。人として。
私はありがたい事にクラスでも部活でもそこまで嫌われなかったし、皆が キモ と遠ざかる事物も エモ と惹かれゆく事物もどっちも大好きだったから校内放送の音楽や縮毛矯正に井戸端会議のエンタメに乗っかるのは全く苦じゃなかった。作家の前にJ/Kだった。_______なんかもう徹底的に小説家じゃないみたいです。今更この自意識を一般と差別化しても、ミーハーな私には何も残りません。しかし、怒ってやる! みたいな小説でデビューした自分がこんな弱音を吐いても説得力が1ミリもない。
そうだった、私は常に穏やかなスタンダードに焦がれていて、時に狂おしいほど朝が好きだ(不眠だけど)。あと家族のことも普通じゃないけど好きで(と言いたい、親もきっと私をとても好きだし)、メイクもダイエットもこだわりたい、しかし犬猫を昔から素直に可愛いとは思えないというコンプを抱えている。そんな自分の些細ではあるが普通じゃなさ、と相対する瞬間、いつも胃が渇くような孤独がやってくるけど、孤独を煮詰めて宝石を取り出し丁寧にコラージュしたり、はたまた生焼けの温度をそのまま瞬間最大限に提供したり(16の私は多分これ)する独独しい文学の業界で、私は賞をもらって商業小説家になってしまったんだった。
小説を書く友達はたくさんいるけど、彼らの多数はきっと同窓会に行かない気がする。中高の教師が嫌いだったり、親を嫌いだったり、死にたがっている。しかも、それらの表明を世間一般への逆張りではなく当たり前にごく自然に選んでいる。主語の大きな思い込みかもしれないけれど、彼ら彼女らとその類の話になると、あなたって感受性が莫大に鈍いしもっと他人を疑った方がいいよと突きつけられてしまうようで、身勝手な眩暈がする。普通になりたかった高校時代とこの肩身の狭さは若干似ている。
社会通念というジンベイザメにきゅるきゅる寄生して各種特権にフリーライドして、私はいつも自分の尊厳やパーソナルな部分を他人に委ねてニヤついている。自撮りを載せる。ある意味では多分自分を大切にできない。委ねているくせに窮屈になるとすぐ脇腹に噛みついて血を噴かし、喚く。スネ夫みたいだ、スネ夫のMBTIを一応知りたい。でもスネ夫は打算で骨川スネ夫をやっているに違いないし、自慢はしても自己開示はあまりしないだろうから、私はスネ夫より危険で単なるアホでミーハーで無自覚な八方(※全方向鵜呑み)美人に違いない。
その場で怒れたこともロジックを明確に分かりながら傷ついたことも、実は少ない。
私は小説家に向いているのだろうか。逆に小説家に向いている感受性ってなんなんですか?自撮りを載せている。載せながら引きちぎれそうで泣いている日もある。
とにかくこの自軸のなさだときっと他人を無神経に巻き込んで傷つけてしまう。既にきっと傷つけている。しかし変えられない処世術として、私は世界にひらいて従って言うこと聞いちゃって目を見開いて驚いたりなんかもしちゃって、ひらいてヘコヘコして訪問販売に騙されまくって3回もWi-Fiを変えて(実話)、ひらいて、でも全然死にたくなくて、人を前のめりに信じすぎることでトントンに落ち着かせてここまで来ている。唖然でしかない私の品の無さ・芯の無さを「前向き」や「ひたむき」みたいな爽快語句に自らすり替えて、またはすり替えてくれる相手を選んではコールボタンを押して泣きつき、いつも友達を利(信)用する。「病」んで喋って「恋バナ」や「愚痴」や「K-POP最新ゴシップ」を、創作哲学ではなく煩悩を、常にこちらへたぐっている。でも表情はきっと豊かなほうだと思う。
小説家なのに同窓会へニコニコで参加したあの夜も煩雑でいつもと同じ。でもやっぱり小説家だから、思い立ってここまで二千字を書くのは全然苦しくない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?