生命(いのち)の叙事詩 羽生結弦
19世紀、爛熟期に突入してゆく西洋音樂界にR.ワグネルが登場する。
彼の出現は、それまでの音楽が可能であった表現の限界の拡張と破壊を意味していた。彼の理想とする、いわゆる文学的総合芸術では、音楽は一つのエレメンツでしかない。しかし、そのエレメンツの役割は、常に揺れ動くハーモニーの流動態の支えによって戯曲の根幹を、分厚い音層の連続的な変容を駆使して、感性に訴えることであった。
21世紀、稀有な才能に恵まれた一人のスケイターによって、今、彼のフィギュアスケイトは旧態依然としたスポーツから、嘗て誰も想像し得なかった新しい総合芸術へと見事な変身を遂げ始めた。
しかし、いつの時代でもそうであったように、革新的な発想の創造の世界は、怠惰な既存の固定観念に留まる(ネガティヴな意味での)保守的な人々にとっては、容易に受け入れることが出来ず、拒否反応を引き起こす。「これはスケイトではない」とあの見事な2023年の<阿修羅ちゃん>の初演を批判した人物は、己の愚鈍さを口外することを憚らなかった。
もはや、フィギュアスケイトは羽生結弦にとって、R.ワグネルが自らの音楽をそのように位置付けたように、己の総合芸術を組み立てるための一つのエレメンツなのである。しかし、このエレメンツは彼が創造する総合芸術の根幹をなすゆえに、彼の研ぎ澄まされた感性から生まれ出る鋭く、力強く、そして時に繊細な表現をことごとく寸分違わず実現させるための卓越した完璧な技術が不可欠となる。つまりたった一呼吸のスケイテイングスキルも、彼が紡ぐ壮大な物語のライトモティーフであり、そこに彼の感性から吹き込まれる生命(いのち)の輝きを感じさせる。何事にも譲歩し得ない無為の技を脱ぎ捨てた、そこにあるのは、ただひたすら美しい生命<To be=being>。
命の根源であるエロスの美の恍惚を、R.ワグネルは<Tristan und Isolde>という楽劇に告白した。彼は自ら台詞をつづり、コステゥームから舞台装置に至るまで、全てが自身の息のかかった総合的な芸術の結晶であるべく、自らの理想を貫いて完成させようと試みたのである。
それは、エロスの運命の勝利、という壮大な抒情詩であった。
こんなにも類まれな美の創造者を、何ゆえに、神は地上に立たせたのであろうか?羽生結弦、その特異な独創性。
「自己をおいて哲学には一切の出発がない。個性の深い衝動によって、自己の存在に偉大な知的肯定を建設しようとする企ては、哲学真性の抱負である。個性は哲学にとって永らえに絶えることのない神前の灯火である。燃える焔の光によって彼の四囲は色彩に充ちて、その光景は明確に彼の視線に触れる。この衝動の灯火がその力と光に燃え上がる時、彼の世界は栄光を四囲に反映する。その焔の鮮やかな色彩こそは、彼のテムペラメントである。テムペラメントは、世界に自己の色彩を投げる。」
柳宗悦 哲学におけるテムペラメント
「美は人間を救うことが出来るか?」若林英輔
個性とは、神の前で燃え上がるひとつの炎であるとするならば、その特異(クオリティ)さは絶対的な意味を含んでいる。羽生結弦の感性は、常に智によってコントロールされているようである。多くの表現芸術家が往々にして感性に支配されてしまう中で、彼はその鋭い感性を最終的に智に委ねることによって作品を完成させる。
神の前に燃えさかる炎の独創性はしかし、万人の魂に浸透することはない。
感性に知らず知らず蓄積される汚物が、ある種の人間たちの空(クウ)の透明な魂を濁らせてしまっているからである。
半世紀以上前に、日本で初めて大がかりなヴァン ゴッホ展が開催され、高校生の私は興味津々で観にいった。その時に、思いもよらぬ衝撃を受けたことを今でも忘れることが出来ない。その時の印象は、その後度々パリに赴いた折に受けた印象と常に一致している。
ヴァン ゴッホについては、当時の日本では一般的に騒々しく、激しい狂気の天才画家、という奇妙なレッテルが張られていたように思う。
ところが、私の見たヴァン ゴッホの絵には、どの作品にも澄み切った静かな、透明な巨大な魂の目が宿っていた。そこには狂気の混乱はなく、実に知的で濁りのない美への限りない献身の精神が漲っている。その無限の静かさが、私の心をわし掴みにしたのであった。
濁りのない”静”の世界を投影する羽生結弦のスペクタクルに、人は感動し、涙する。それは余りにも突然で、何故涙するのかさえ知ることさえ出来ない。そのこにあるのは、ただ純粋に生命(いのち)の美の輝きそのものの在り様なのである。
人間は確かに”美”によって救われる。それは透明であればある程、人は美を受け取る束の間の己の感性の純粋さに慄き、感動する。そして、満感の幸せを身体に感ずることが出来る。
生命の輝きを、鋭い感性を智に委ねる羽生の前代未聞の身体的吟遊は、地球上の人間たちに吟ずる大いなる叙事詩の始まりなのである。