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霧の宴   ミラノ Ⅲー8         クレリア夫人

*マリアム、公爵家でのコンサートで演奏する選曲に迷う。
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 マリアムのテクニックでは、M.ラヴェルの複雑なピアノのパートを初見で弾けるわけもないのだが、それでも未知の楽譜を前にすると何時も胸が必ず高鳴る。
その時もピアノの前で、彼女は自分の息遣いが乱れているのに気が付いた。
やがて、ごまかしだらけなピアノの音の間からおぼろげに浮かび上がってくるM.ラヴェルが描くJ.ルナールの小宇宙に、マリアムの心臓は益々高鳴っていった。
 マリアムのJ.ルナールが、あの遠い気怠い夏の日の午後のようにM.ラヴェルの音の世界に生命を受けて躍動しているではないか!コウロギの羽音やチョロチョロ歩きだとか唐突な停止、やがて全てが静まり返る深夜の田園にふりそそぐ孤独な月の光とポプラの立木の関係とかいうものが、完璧に音樂で再現されるとは!孤独な釣り人と渓谷、竿の先端に留まった美しいカワセミへの彼の素朴な親愛の情、それらが全て透明な静寂の中に息づいているのである。J.ルナールの小宇宙をM.ラヴェルは、完璧に音楽の中に蘇生させているではないか!
マリアムは驚き、たいそう幸せであった。
 J.ルナールxM.ラヴェルの<博物誌>は、J.ルナールの鋭い観察力とM.ラヴェルの磨き抜かれた感性の見事な調和によって繰り出される原自然のありのままの<美>の結晶体である。長い休止符の中に音が聞こえ、無音であるはずの静寂に音を与えて、その透明な張り詰めた時間が静止したような空間を感じさせるということを、マリアムはその時初めて経験した。
 それは、己に沈黙する人が無私の鏡に映し出される現世を超越した、もう一つの世界から語りかけてくる無限の真の姿のようである。
 田園に生息する生き物たちが、偽りのない無二の友達であった幼年時代を田舎で過ごしたマリアムにとっては、J.ルナールの<博物誌>はこの上もなく幸せな世界なのである。
 ジュリアーノ公爵のために、と云いながら<博物誌>を選んだのは、実は彼女自身の遠い幼年時代への郷愁であった。が、クレリア夫人も、ジュリア―ノ公爵もそしてアンドレアさえも、マリアムの心の内を知る筈はなかった。

 A.ヴィヴァルディを歌ってほしいというクレリア夫人からの要望に、マリアムはすぐに応ずる勇気がなかった。他ならぬ夫人のリクエスト故、歌って差し上げたい気持ちは充分にあるのだが、即答するのには少しためらいがあった。声質や声色から言えば最適には違いないのだが、マリアムのこだわりは、カウンターテナー用に作曲されている原曲は、濁りのない無性の声を必要とされるのではないか、と思ったからである。
 女性という性を持つ自分の声には、何処か濁りがある。つまり生臭さがあるのではないか?そのあまりにも人間的な不透明な生臭さが、A.ヴィヴァルディの作品特有な簡素でありながら、霧に煙る冬のヴェネツィアの運河を想わせるような憂いを含んだ優雅な音の動きや連なりの美しさを再現するのには障害になるのではないか?声は、あくまでも透明でなければならない。
 迷いに迷った挙句の果てに、マリアムは結論を見出すことが出来なかった。そこで、友人の作曲家の意見を仰ぐことにした。
「君の悪い癖で、そうなんでも理想どうりにやろうとするから否定的になってしまうのだよ」と、例によって鷹のような眼でマリアムを見据えた。
「君の声の色は、A.ヴィヴァルディに適している、と僕は思うのだがね。君が宗教曲を歌う時に、時々コントロテノーレと混同することがある」
「それじゃ、わたしはカストラートだと言いたいんですか?」
 作曲家の友人は、愉快そうに笑いながら
「いや、コントロテノーレがカストラートだとは、昔ならいざ知らず、限らないじゃないか、現にジェイムス ボウマンのような歌手が居るだろう。
「ボウマンの<スタバト マーテル>は原調より高い調子で歌っているようだけれど、わたしは原調の方が歌い易い」
「それだったら何も迷うことはない、やってみたら?」
「皆さん無責任なのね、貴方もアンドレアも、他人のことだと思って、本当は、わたし怖いんです」
「ははぁ、それが本音というところか、、、、まあ、もっと勉強をしなければならないとは思うがね。君はかなり長いことヴィヴァルディに取り組んできたけれど、イタリアのバロック音楽の美しさは、根底にカンタービレな感性が潜んでいて、その上に器楽的な正確さを歌のパートにも求められる。特にヴィヴァルディには、音のひと粒ひと粒にエッジが明確で揃っていないと、その美しさが損なわれてしまう」
「ということで<ニージ ドミヌス>は避けます」
「ははぁ、あっさり降参したか、僕は内心待っていたのだが、、、」
ーわたしがアマチュアだということを彼は忘れているのかーとマリアムは内心憤慨した。
 友人の作曲家はマリアムの真剣な悩みなど意に介す様子もなく暫く皮肉に笑っていたが、やがて真面目な態度で云った。
「僕が聴いている限りでは<スタバト マーテル>が、テーマの持つドラマ性とか、君の舞台俳優としての面からも、君の暗い声質にも、最も適しているんじゃないかな、と思う」
 バロック音楽の演奏は器楽的にという通説に、マリアムは少し抵抗感を持つ。確かに十九世紀のロマン派の音楽形態に比べれば、友人の作曲家の言う”エッジが明確”でなければバロック音楽は、その美しさを際立たせることはできない。しかし、それだけに拘ると、理路整然とした外形だけをなぞることになり、その形式を必要とした本来の音楽の意図が薄れてしまうと、マリアムは考える。それは演劇においても、同じことが言えるのではないか?
 美しく整った楽曲の形式の底には、人間の限りない苦悩や喜びの感性から抽出された美しさが息づいている筈である。張り詰めた生の人間の感性を昇華させ、整った形として表出させるべきではないのか?
 デビュー当時”神か悪魔か”と言われた稀代のピアニスト イーヴォ ポゴレリチが弾くD.スカルラッティに耳を傾ける度に、その透明な明るい単音に活き活きと息づいている作曲家の感性の躍動を、時空を超えて蘇らせるピアニストの恐るべき技に感動させられる。それは真に音楽における<gesto vivo>の瞬間なのである。
 演奏者にその昇華された、卓越した感性と技が無ければ、バロック音楽は内容のない単なる過去の形骸でしかなくなってしまう懼れがある。
バロック音楽の奥深さは、表面に現れている形式美の根底に息づく、演奏者の個々の感性のクオリティに基づいているのではないか?        それはまさしく<魂の言の葉>なのである。
          つづく
 


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