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学校の民主主義を考える〜校則は拘束?〜

さて、現在は校則の改正や軟化を進めている学校がほとんどだ。
私の通う高校でも校則に関する特別委員会を設置し校則改正について話を進めている。例えば生徒総会は大体は校則改正案の審議だ。


校則改革に取り組んできた一人として

自分自身は中学のときは校則改革派の最前線として生徒会役員を務めた。
肝いりだったジェンダーレス制服は自分の卒業とともに導入された。
そのデザインはクソダサではあったが一つ実績かなと思う。
しかし、校則自体は大きく変えれなかった。
高校進学後は生徒会にも校則特委にも入らず一応校内議員一期務めたが、当時審議された議案は一案だけだった。
(賛成多数で可決・成立)

校則っている?

さて、以前本校の生徒総会で審議されたものは
なんと、すべての校則の撤廃を推進するか という事案だった。
同議案について総会上全校で審議した結果、反対多数となり廃案になった。
言わば、校則を全廃することに生徒の多数はNoという結果となった。
理由の一つでこういう意見があった。

社会通念や倫理感を守れない生徒がいる時点で無理

中高一貫校で高校だけ校則無くしたら中学も無くさざるを得ない

そんなことになったら中学はチンパンジーになる

高校生もゴリラもしくは猿になる

もはや、それ動物園じゃん。天王寺要らずじゃん

以上の理由から、校則は存続することになった。
まぁ、これに気がつけてる時点で充分マシだと思う。

地元の公立高校で同案が審議されたら恐らく思考停止で可決されるだろう。そしてやりたい放題大会になるだろう。てか、教職員会議で否決されるだろう。

けど、ルールは生徒が守るから生徒がつくるものじゃない?

今の校則を続けていくべきなの?

それは、多分違う。令和の校則として相応しいものでは無い。校則特委は本校は校則について審議されている。それは生徒会ではなくあえて数年前に設置した特別委員会がある。現状の校則が満足な学校なんて恐らく8割方ないだろう。校則改革は決して教職員から与えるものじゃない。生徒が作っていくものだ。

厳しい校則は時代遅れけど・・・

まずは、大前提のひとつとして2018年の参院文教科学委員会での当時の文科相答弁を紹介する。

児童生徒の特性や発達の段階を十分に考慮することなく厳しい指導を行うということは児童生徒の自尊感情の低下等を招いて、児童生徒を精神的に追い詰めるということになる

2018年3月29日 参議院文教科学委員会 林芳正文部科学大臣答弁

時代が変われば人は変わる。そして、子供たちの姿は時代とともに変わる。しかし、そこまで全部変わる訳では無い。思春期や青年期にどう育つかがその後の人格の育成や成長に関わる。人間の成長は案外思春期や青年期にありがちだ。
けど、校則の異常な緩和は第2のゆとり世代の育成にもなりかねない。
冷製に考えれば校則を全部守れる人はそう簡単にいない。
けど、制限がある以上違反行為に対しては罪悪感を感じることは間違いない。ならそうした方が良いのかな。

不必要な校則って?

個人的には全国の公立学校の校則は文部科学省などで統一見解を出し、それを緩和するのは可能とする形がいいと思う。私自身は私立なのでその私立特有の校則がある。それは私立を選択している時点で仕方ない。ただ、中学校時代にあった「ツーブロック禁止」などは意味不がすぎる校則だ。校則として何がふさわしいか。そして何がふさわしくないかを一度生徒たちに委ねることもある意味手段であるかもしれない。

民主主義を学び実績するという賭け

ある友人が学校が民主主義を学ぶ場で、成人して公民権を得たときにそれを大きく発揮できるようになるような制度づくりが必要であるという意見を持つ子がいた。昨年の兵庫県知事選から一部メディアは「投票の質」という言葉を使い始めた。どんな一票もそれが被選挙人であれば同等の質ではあるというのが当たり前の世の中でこの意見というものははっきり言えば民主主義的な意見で多様性のあった意見とは言えない。そしてどこかファシズム的にも感じる。
それは、兵庫県知事選で言えば斎藤元彦氏は当選させてはいけないというメディアの意見の正当化として報じるものである。これは、稲村和美候補や清水貴之候補がなったほうがいいという言わば一つの意見を、主要メディアの多数が報じるようになった。そういう報じ方をしなかったのはおそらくサンテレビぐらいだろう。しかし、Xを見ると #斎藤元彦頑張れ てきな
ハッシュタグが使われ問題となった立花孝志元参議院議員がX上の世論を扇動し一つ斎藤元彦氏の再選という形にもなった一つの要因としてはある。
詳細は下記の過去のnoteを見てほしい。

それを生徒会役員選挙で行うことは容易ではないかとも考えられる。
例えば学年の中で影響力がとても大きいいじめっ子Aが生徒会長の
選挙に出たとしよう。
すると、その子が自分が当選できなかったらお前らどうなるかわかってんだろうなと周りにいるそのお膳立てボーイズ&ガールズが締め付けを行う。
そうすると、その子を支持する人間と支持せざるをえない人間が5割1分を超えた場合その
いじめっ子Aが生徒会長になる。その瞬間、独裁者は誕生する。
そうなれば学校は崩壊する。もちろんいじめを許す学校にはならないと思う。
しかし、こういう人間が生徒会長な学校に行きたいと思うだろうか。
こういう人間は地元ではまぁまぁそういう評判になる。そしてAのいる学校には行きたくないという子たちが多くできて、その学校は崩壊の一途をたどるのであろう。

もちろんこれは極論ではあるが発達していない未成年へ民主主義を与えると、民主主義という名のもと独裁主義が誕生する。

未熟な民主主義こそ今日の日本

誰かが言ってたけど、日本は先の大戦で民主主義を押し付けられた。
それはいいことだったのかもしれない。しかし、民主主義をもともと望む国民ではなかったが上の民主主義は発展することなく、政治不安などによって我が国は自由民主党が長年政権与党に居座っている。
それは自民党にしか手段がないという我が国のだめなところでもある。
例えば2つの勢力が互いに牽制し譲りあうこと、これはある意味で一番理想の民主主義と私は思う。

マンネリ化や失敗はポピュリズムを生む

マンネリしてきたら新しい刺激を欲するのが人間の性である。
ご飯だって性だって、もちろん政治だってそうだ。
確かに出されるものはまずいものではない。しかし、飽きてくる。
ならキムチを出せばいいじゃない。女王様になってもらってしばいてもらえばいいじゃない(やめろ)。
政治も頼りがいのあるリーダーを出そうじゃない。それがムッソリーニや匕トラーじゃないのかな。と私は思う。自国第一に国民には優しく。海外や反対勢力への締め付けをつよく自分を悪く言うやつは消していく。
確かに政治でいえば究極のSMかもしれない。しかし、政治にS要素はいらない。
政治のS要素は痛みを伴う構造改革ぐらいだ。
(そう思うと小泉政権っていうのは官邸と国民でSM営業してたんだな) 

 校則改革は学校の未来を委ねる

校則改革は学校の未来を委ねる。しかし、その委ねられたものは決して避けることは出来ない悩みを向き合うことの出来る学校こそが今後の発展ができる学校と思う。それは生教一致(生徒と教員が一つになって)の体制で新しい学校の伝統となる。
最後に私の学校のルールや伝統に対して大切にしている池田SGI会長の言葉を紹介する。

理想を高く掲げても、それだけで見事な伝統ができるものではありません。理想を秘めた皆さんの日常の行動のうえに、見事な伝統が生まれ、花咲き、次の世代へと伝えられていく

第一回創価女子中学・高校入学式での創立者のスピーチ(抜粋)


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