読書録「永遠のとなり」2011/2023
白石一文「永遠のとなり」(文藝春秋)
10年以上前の読書録を加筆修正して投稿する。
今と考えていることは、さほど変わっていないことに気づく。
人間の再生をテーマにした物語。
挫折や絶望に直面した時、人はどのように立ち直っていくのかが丁寧な文体で描かれていた。
いくつか印象に残った文章を引用する。
「私たちの欲望は次々と細切れにされ、その細切れごとに過剰なまでのサービスが用意され、充足させられていく。その一方で、もっと大きくて曖昧で分割のできない大切な欲望、たとえば、のんびり自然と共に生きたいだとか、家族仲良く暮らしたいだとか、本当に困ったときは誰かに助けてもらいたいだとか、病気をしたらゆっくり休みたいだとか、ひとりぼっちで死にたくないだとか、必要以上に他人と競いたくないだとか、そういった水や空気のように不可欠な欲望はどんどん満たされなくなっている」(p184)
「人間は誰だって、自分が幸せになるだけで精一杯なんよ。下手したら嫁さんや子供の幸せにだって手を貸してやれんこともあるしな。わしは誰にでも幸福になる権利があると思うとるよ。やけど、それはさ、自分は不幸でも構わんから他人が幸福になってくれたらそれでいいという考えはどう見ても不自然でしかないという理由で、そういう権利が誰にでもあると思うとるだけなんよ。人間の幸せなんて所詮その程度のちっちゃかもんでしかなかとよ。わしは最近、大事なんは生きとるちゅうことだけで、幸せなんてグリコのおまけみたいなもんやと思うとる。あった方がよかけどないならないでも別に構わんとよ。(中略)人間はさ、自分というこの狭苦しい、別に面白くとも何ともないような弱っちい世界からどうしても抜け出すことができんのよ。その小さな世界と折り合いをつけて生きていくしかないんよ。幸福というのは、人それぞれのそういう折り合いのつけ方でしかないんやろうとわしは思うよ」(p213~214)
誰もが幸福を願うのは至極当然なことだろう。幸せを手に入れるとは、自分で幸せになろうと努力するか、誰かに幸せにしてもらうかのどちらかだ。
自力なり他力本願なり、自分の理想の姿を願うことは悪いことではない。
しかし同時に自分の思い描く理想像には欠陥が多数あり、実現する可能性が高いとしてもそれが自分にとって必ずしも良い影響を与えるとは限らないことを認識する必要があるだろう。
自分の思い描く理想像が現実に即さない場合が多いのが人生である。
そんな時、「こんなはずじゃなかった」、「これは本当の自分とはかけ離れている」と絶望する。
そのような態度は、まさに「階段を踏み壊す」生き方である。
現在の自分を否定するばかりでなく、理想に向かって邁進してきた過去のプロセスをも否定してしまう。
では、理想と現実のギャップに打ちひしがれないように期待しすぎない生き方や物事を斜に構えてみる生き方が望ましいのか。
そうではないと僕は思う。
「理想像」も「失敗像」も自分が勝手に生み出したものでしかないのだ。
僕たちは自分に期待しすぎることも卑下することもない。
そんなのは自分の妄想に振り回されているだけ。
こうだったらいいなとか、こんなのは嫌だなという一面的な見方を少し変えることが必要である。
今、この瞬間、自分がやっていることへの感情は素直な気持ちだ。
その行為を続けたいか、そうでないか。
続ける必要があるのか、それはなぜか。
という、いたってシンプルな問いを自分に投げかけてみよう。
そうすれば、現在という確固とした時点から離れた妄想に戸惑うこともない。
大切なのは未来の自分の気持ちではなく、今現在の気持ちである。
この時、大切なことは虚栄心をはらずに自分がやってきた日々と時間が積み重なって「今」という地点に立っていることを忘れてはいけない。
同時に誰かとの競争で生きているのではない。
競争はあくまでも手段であり、目的ではない。
競争のために生きるのであれば競争相手がいなくなった場合、あるいは自分を評価してくれる人がいなくなった場合にひどい不安感に襲われるかもしれない。
結局、自分で自分のことを認めるしかないのだ。
「ダメな自分」と思い込んでいてもそんな自分自身とうまく付き合っていくしかないのだ。
幸福に関しても同様のことがいえるだろう。
誰かを幸せにしてあげたいという利他的な感情も「幸せにしてあげられる」自分は心が豊かであるという優越感に浸る。
これは偽善的であり自己満足のために自分より弱い立場の人間を利用しているに過ぎない。
僕は自分の欲望をみたすために他人を利用することを素直に認めるべきだと思う。
無私無欲で奉仕活動をしていますと公言する偽善者よりは、それを認めることはよほど健全だ。
すなわち結果として受け手にとって「ありがた迷惑」になるリスクを甘受すべきなのである。
自分のために「自分がやりたいこと」をやって生み出されたものが他者にとって幸せにつながればラッキー、その程度の軽さでよいのではないだろうか。
利他的という、うさんくさいものを持ち出すことなく気分が良くなる。
他者の幸せを強く願うことも大切だが、自分が幸せを感じてそれが周囲に波及するような経済的・精神的余裕をもつために日々の活動に没頭することが「今」を生きるということではないだろうか。
優しいものは とても恐いから
泣いてしまう 貴方は優しいから
誰にも傷が付かないようにと
ひとりでなんて踊らないで
不思議な炎に 焼かれているのなら
悲鳴を上げて 名前を呼んで
一度だけでも それが最後でも
誰にも傷が付かないようにと
ひとりでなんて踊らないで
そして私とワルツを
どうか私とワルツを
鬼束ちひろ「私とワルツを」
今日も皆様にとってよい一日でありますように。
そして競争ではなく「共想」を大切にしたい。