忠敬先生の足跡 2 『4-15興津宿』
□ 伊能忠敬第4次測量 15日目 興津宿
忠敬先生の足跡👣を辿る投稿の2回目です。
今回は静岡清水の興津宿の巻です。
映画🎞『大河への道』では、伊能忠敬のことを敬意を込めて、忠敬の名を訓読みして〝ちゅうけい〟先生とお呼びしていました。
江戸時代、しばしば目上の方を敬意をもって、名を訓読みしていたことに踏襲したのでしょう。
前回は今回取り上げる測量15日目の翌日3月10日の三保村でした。今回は16日目測量・三保村の前日のことです。
伊能忠敬測量隊一行は、第四次測量を享和三年ニ月二十五日 庚寅 (新暦1803年4月16日 土曜日)からスタートさせます。
初日恒例の深川にある富岡八幡宮に参詣🙏🏻、伊能家、友人、時計師・大野弥三郎らのお見送りで出発して、その日は品川宿に宿泊します。
第四次測量の15日目にあたる享和3年3月9日 甲辰 ( 新暦 1803年4月30日 土曜日にあたります)、前泊の由比宿から薩埵峠を越えて来ました💦
〔伊能忠敬測量隊一行は、第5次測量の帰路634日目にあたる文化3年(1806年)11月9日に脇本陣・水口屋、第8次測量の22日目・文化8年(1812年)12月17日には興津宿の西本陣・手塚家、手塚重右衛門に投宿しています。〕
「興津宿」の興津の名は、東海道沿いにある⛩宗像神社の社が「女体の森」と呼ばれ海から漁師たちの目印になっていたそうで、海上安全の守護神「興津島姫」を祀っていたことに由来しています。 薩陀峠はおそらく薩埵峠のことでしょう。薩埵峠を下りきると、興津川が南北に流れ、興津川を渡ると興津宿です。
前泊、由比宿から興津宿は二里十二町・約7.3km、次の江尻宿は一里二町・5.0km、北緯35°03分00秒、東経138°31分10秒に位置します。
興津宿は、本陣二軒、脇本陣二軒、問屋二軒、旅籠三十四軒ありました。
東西本陣の菩提寺・耀海寺は旧東海道より一本奥まったところにあります。日蓮宗の古刹で鎌倉時代の御家人・興津氏の菩提寺でもあります。
興津氏は室町時代に足利尊氏と実弟・忠義が戦った観応の擾乱の際の実質的な最後の合戦、薩埵山合戦では、お隣りの由比氏と共に今川氏二代目当主・範氏公にお味方して、数で劣る尊氏勢勝利に貢献致しました。
伊能忠敬は、日記にも記しているように、「徒渡り」《かちわたり》と言って興津川を徒歩で渡河して来ましたが、台風や大雨の際には増水するため、大井川のように「川止め」があったので、興津と由比には数多くの宿泊施設があったのでしょうね。
興津川の下流域には、川越遺跡があります。定めがあり、川の深さが四尺五寸(約1.5m)を越すと「川止め」になります。
逆を言えば、1.5mまでは人足は渡ったということです😱
天和三年(1683年、江戸の大火となってしまった放火犯・八百屋お七が火刑に処せられた年です)の定めによると、
太股川(42cm) は12文
はさみ川(70cm)は15文
横帯川(106cm)は24文
若骨川(120cm)は32文
脇水川(150cm)は42文
の料金体系がありました。どんぶり蕎麦が二八蕎麦と言われた一杯16文の時代です。
沼津駅構内にある立ち食い蕎麦が一杯、現在では430円ですので、42文だと現在の貨幣価値では1129円の通行料金ということが言えそうです🤔
莫大な退職慰労金を手にしながら、「越し札」は購入せず興津川は徒歩で渡り、測量機器や天文観測機器に旅費には出費を惜しまない一方で〆るところは〆る伊能忠敬の堅実な一面も興津宿の記述で読み取れます。
薩埵峠の展望台から鉄板の観光スポットですが、
眼下にある狭い陸地は安政元年11月4日 己巳(1854年12月23日 土曜日推定M8.4相当)に起こった安政大地震で地盤が隆起して出来た場所で、それまでは海岸線が直接、山肌に当たっていた交通の難所でした。
ですから伊能忠敬一行は、切り立った山肌を縫うようにあった旧東海道を越えて来たのです😱
撮影した日は2022年4月9日ですので、伊能忠敬一行も薩埵峠から見た当時の富士山はこんなコンディションの中だったと思います。
冬の乾燥した朝なら、もっと富士山もくっきりと鮮やかに鑑賞出来たことでしょう。
ですが伊能忠敬は、ただ🗻富士山を眺めただけでなく、由比宿から海辺に出て富士山の標高を測るべく、富士山をあらゆる方角と計測場所から計測し始めていて、その一環として由比宿からも富士山を計測致します。
計測地点から富士山山頂までの距離と角度を測り微積分を応用して標高を割り出します。伊能忠敬の師匠・高橋至時の指南を忠実に守り、一ヶ所だけでなく🗻富士山が見えている場所でなら時間を割いて計測しています。
ご承知の通り微分・積分はアイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツが1704年に、相互に手紙のやり取りまでして、微積分の発見と理解を深め合っています。
この高校数学で習った微積分、📖著書『開法飜変之法』《かいほうはんへんのほう》第三篇で解説して有名な江戸時代の数学者・関孝和の和算を師匠の高橋至時に、伊能忠敬は指南されています。
今でいう三角関数も習ったと言いますから、若き師匠も教え甲斐があってのことでしょう🤔
薩埵峠は二度の戦いで合戦の最前線になっています。一度目は観応2年12月(1351年)に、室町幕府を開いた足利尊氏と実弟・忠義との薩埵山合戦。
二度目は甲斐の武田信玄と今川氏真&北条氏政が永禄11年(1568年)に戦っています。詳細は今、NHKで放映中の大河ドラマ『どうする家康』のネタバレにも繋がるので、ここでは触れません。
通行の難所でもありますが古戦場跡としても有名です。富士山の撮影ポイントとしても全国的に知名度が高い場所ですね。
私は37回も薩埵峠に通っていますが、未だに納得のゆく富士山の一枚が撮影出来ません🥲おそらく生涯かけて一枚、撮れたらいいかな、と🤔
冬は大気が乾燥しているため綺麗に撮れますが、新緑でないため、山肌が映えません。新緑の時期は、眼にも鮮やかな新緑に薩埵峠も覆われるのですが、大気に湿気を含み出すため、大抵は富士山が霞んでしまいます。
毎日、薩埵峠に通えばいつかは撮れるかもしれません。
忠敬先生の話しに戻って‥‥。
日記にこの夜、🌌天体観測ありとなっていますので、気になって国立天文台DBで検索してみました。
※1. 2023年3月21日現在、伊能忠敬が生まれた延享2年(1745年)〜伊能忠敬の死が公表された文政4年(1821年)の76年間の日蝕・月蝕・惑星蝕を国立天文台のDBから拾ってみました。
頒暦の的中・失中を始めてしまいましたので、一部未完ですが完成したらファイルを刷新いたします。
※2. 2023年3月22日 午後4時日蝕・月蝕の頒暦的中・失中がまとまりましたのでファイルを刷新します。ただ、一部ファイルのデータ部分が間延びしている原因が解らずお見苦しいファイルとなっていますが原因が解り次第、修正します。
※3.2023年3月24日 午前9時45分 日蝕・月蝕を予測した頒暦の的中・失中もまとまりましたのでファイルを刷新いたします。
ファイルをご覧いただければ一目瞭然ですが、この当時の頒暦の日蝕の的中率は
44件中30件で68.2%。月蝕に至っては138件中78件で的中率56.5%。日蝕の出現・月蝕の出現を重んじる当時の風習の中で、これでは正確な曆とは言い難い実績です。作暦を手がけていた忠敬の師匠の高橋至時にもその想いはあったはずで、当然その意志は伊能の脳裏にもあったはずです。
享和三年・1803年の☀️日蝕は2件で、皆既日蝕と金環日蝕はいずれも不蝕。
🌕月蝕は5件 いずれも半影月蝕が5件の内1件の旧暦6月16日(新暦8月3日)だけが不蝕ですが、
3件の 1.旧暦1月16日 新暦2月7日
2.旧暦閏1月15日 新暦3月8日
3.旧暦7月17日 新暦9日2日
4.旧暦12月15日 新暦1804年1月27日
で、月蝕でもありません。
🪐惑星蝕で調べてみました。
国立天文台DBも優れたサイトで水星・金星・火星・木星・土星の他に、冥王星・海王星まで調べられるのですが、当時の天文観測用の機器では冥王星と海王星は観測出来ないために省きました。
該当の惑星蝕は7件で、不蝕は4件、正現は3件。
1.旧暦1月2日 新暦1月24日の水星蝕
2.旧暦4月6日 新暦5月26日の火星蝕
3.旧暦12月29日 新暦1804年2月10日の火星蝕
で、この日は蝕の観測ではなかったようです。
ですが、伊能忠敬測量隊は飲酒はご法度🙅🏻。晴れて観測出来る日は天体観測🔭も同時に同地で行っていたからです。
天体観測によって現在位置の精度を上げるだけでなく、日蝕や月蝕、惑星蝕に加えて星の観測まで行うために、幕府天文方に匹敵するような高度な機器を使いこなしていました。
その機器も商売を隠居した際の言わば〝退職慰労金〟の自費で揃えたモノばかり。
伊能忠敬のことを私以上に勉強なさっておられる方の論文によると、現在の貨幣価値に換算して45億円になるとの試算もあります。
まさに、伊能忠敬、恐るべし❗️
興津宿で宿泊したのが現在も興津に現存する「水口屋」《みなぐちや》です。残念ながら惜しまれつつ昭和61年に旅館営業は終了しましたが、清水を代表する物流会社・鈴与の研修センターとして活用され、月曜日を除く日曜・平日には無料で水口屋ギャラリーを拝観出来ます。
水口屋ギャラリーでいただいた資料によると興津宿は関ヶ原合戦の翌年、慶長6年正月(1601年)、東海道に伝馬制を設けるため、徳川家康が代官頭・伊那備前を派遣し、興津の百姓・年寄中に伝馬掟朱印状を与え36疋の🐎馬を常備、荷は30貫を由比⇆江尻間の継ぎ送りを命じられ敷地7480坪、屋敷はその中で1080坪を下賜されたのが始まりと、あります。
水口屋は脇本陣として、天明5年(1785年)12月に創業、印旛沼開墾や重商主義で江戸幕府の再建を手がけながら田沼意次を追い落とし、白河藩に婿養子に出されて逆恨みしていた松平定信・御三卿が実権を握り寛政の改革を断行した頃です。
水口屋は別名「一碧楼」《いっぺきろう》とも呼ばれています。芝生が覆い盆栽を思わせる素晴らしい松が植えられ石畳みで離れと客室を繋いでいる様は風雅に富んだ御庭でしょう。
当時は、水口屋の庭先は興津の海岸線・砂浜でした。多くの著名人や政治家が利用したようです。
ギャラリーの学芸員の方にご教示いただき一番、驚いたのが日露戦争の最中、日本海海戦で🇷🇺バルチック艦隊を殲滅させた東郷平八郎提督の書があったので、驚いていると、
「東郷元帥のお子さんが興津の🍊柑橘試験場で働いていたので、見学した際に水口屋にお泊りになられました。一筆書いていただくようお願いしたら、気さくにお受けいただいたと、聞いております」
資料の所属品目録に載っていませんがもう一つ眼を奪われた品がありました。
足のついた御膳で家紋「丸に十字」、薩摩藩の品ですか?と、尋ねると
「28代当主・島津斉彬公が宿泊の際に下賜されたとのことです」と、こともなげに学芸員さんが教えて下さいます。
水口屋の資料には伊能忠敬が利用したことは触れていませんが、享和3年3月9日に測量を終え水口屋に宿泊したので、学芸員さんに僭越ながら忠敬先生もご利用なさったのですよ、と伝えておきました。
興津駅のそばに、食事処『とんかつのかつ平』があるので、腹ごしらえです。安くてボリュームたっぷり、今風に言えば、〝コスパ〟がいいし、何より美味しゅうございます😋
キャベツの千切りはもちろん、ポテトサラダも付いています。とんかつもご覧の通り。
チキンカツ定食も美味しゅうございます。
伊能忠敬も宿泊した水口屋の隣りに、地元で有名な小饅頭「宮様まんぢう」をご提供なさっておられる和菓子匠があります。
「潮屋」です。
JR興津駅から徒歩720歩、およそ8分です🚶🏻忠敬先生のように歩測してみました😅
🇺🇸オリバー・スタットラーが水口屋で宿泊し、水口屋にまつわるエピソードをまとめた『ニッポン歴史の宿』によると、興津・清見寺で休息していた昭和天皇ご夫妻に献上した小饅頭を大層気に入って食されたことから「宮様まんぢう」と、名づけられたと、記載されています。
坐漁荘と清見寺は目と鼻の先です。
興津は現在は埋立が進み港湾都市となっていますが当時は海岸線が迫るリゾート地のような場所でした。清見寺山門前にある清見ヶ関は大和朝廷が東北の蝦夷侵入に備えて築いた関です。
正治2年(1200年)正月二十日、執権・北条時政の命を受けた地元の御家人・吉川氏が守備する吉川氏と梶原景時一行がこの海辺で衝突し、狐ヶ崎合戦に及びます。
弘安2年(1279年)旧暦10月26日に、家督相続の裁判のため鎌倉幕府の裁判所にあたる問注所に下向するため女流歌人・阿仏尼がこの清見ヶ関を通過する際に、歌を詠んでいます。
『 清見潟 年ふる岩に こととはん 波のぬれぎぬ
いく重ね着つ』
( 清見潟にある古い岩に尋ねてみたい。私は今までも無実のぬれ衣をかけられて来たが、岩よ冤罪をかけられたことはあるのか?)
🌊打ち寄せる波で足元の裾を濡らした阿仏尼が濡れ衣と掛けた名調子です。
興津清見潟公園には、明治に入って俳句を盛り立てた正岡子規の句の石碑もありました。
🪨には、
『月の秋 興津の借家 尋ねけり』と。
興津は、著名な方々にとって心を癒される長閑な風情があったのでしょう。
多くの明治の元老たちも興津に別荘を建てました。とりわけ有名な佇まいは、西園寺公望、伊藤博文、外務卿の井上馨の別荘です。井上は5万坪の広大な敷地に別荘を建てました。
興津宿の西の端には二級河川・波多打川がひっそりと袖師埠頭へ流れています。ここが興津宿の端にあたります。
興津宿も訪ねてみると、いろんな発見や気づきがあり楽しいだけでなく、大変勉強になりました。
〝忠敬先生〟、色々な気づきを授けて下さり、どうもありがとうございます🙇🏻♂️
追伸
袖師第一埠頭には、地球深部探査船『ちきゅう』の寄港地となっています。モデラーとしては『ちきゅう』は興味深い船です。
真ん中のデリック(掘削やぐら)という構造物は高さ120m、ビルの高さだと40階建てに相当するとか。
三井造船が施工した揺れ難い船体にするために10機のクラスターが海面下にあるそうです。
確かに波の影響で船揺れしていては5000m以上の海溝に機器を鑿つ作業に支障をきたします。コンピューター制御だそうですが揺れを抑えることが出来るなら、船酔いする私には一度、乗船し遠洋に出港してみたいです。
ガンプラで有名なバンダイから1/700scale『ちきゅう』のプラモデルを新静岡セノバで見つけて購入しました。
ガンプラで培った技術で、造りやすさと色分けされた部品構成、そして設計図は秀逸です❣️
船内の様子や『ちきゅう』の探査実績は子供にも解りやすいイラストで説明して下さり、本船の主要スペックも登載されています。
全長210m、全幅38m、総トン数56752t。
航続距離は何と❗️27410km、ほぼ🌏地球一周してしまえそうです。
第二話 終わり 第三話に続く