『Saphir』宝石の名を冠した特急
🟦💎サフィール踊り子号
🚃伊豆急下田線、東京・伊豆急下田間を結んでいた「スーパービュー踊り子」が令和2年に、装いも新たに新しい🚃観光特急電車に生まれ変わりました。
「サフィール踊り子」号です。
サフィールとは、Saphir:とは🇫🇷フランス語で💎サファイアのことです。
特急列車の外装色は、サファイアを思わせる濃い深緑色で統一されていて、高級感があります。
車内は木目調を思わせる茶系のファブリックを採用し上品な装いです🥰
それもそのはず、サフィール踊り子の🌟洗練された内外装のデザインは、日本人で初めてフェラーリ社のデザインを手掛けたケン・オクヤマ氏。
フェラーリのデザインはピニンファリーナが伝統的に手掛けて来た中で、イタリア人以外で手掛けたなんて、何か誇らしく思います。
さすがの設計です👍🏻
車内上部に🇨🇭氷河特急のように鑑賞用のはめ殺しの天窓があり、明るさも確保しています。
観光用列車の雰囲気に溢れています。全車両グリーン車指定席ですが一両だけ、さらに豪華なプレミアムなグリーン車は本革仕様のシートがあるようですが、入室だけで更なる特別料金が課されそうなので、控えました🥺
熱海。三島駅構内にポスターが貼ってありますので、見かけた方もいらっしゃると思います😎
伊豆の青い空と車窓からの蒼い海原に、イメージを併せて宝石のサファイアを名前に採用したのでしょうか🤔
今年の2月に、日本郵政から記念切手💎『グリーティング宝石・鉱石〜自然の芸術〜』が発売されました。その記念切手シートにもブルーサファイアが含まれている人気の宝石です。
🟦 開港記念日
中世史をかじっているひとなら、6月2日は本能寺の変と答えるでしょう。
近代史を学んでらっしゃる方なら、毎年6月2日は、⛴横浜港の開港を祝う開港記念日です。安政5年6月19日(新暦1858年7月29日)に、日本と🇺🇸は日米修好通商条約を締結しました。
本当は🇺🇸の独立記念日である7月4日にしたかったようですが、🇷🇺が7月1日に変更し、🇺🇸🇳🇱🇷🇺🇬🇧🇫🇷の各国と締結した安政五カ国条約を安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜を開港したために、横浜開港記念日となりました。
ちなみに、長崎は4月27日、神戸は12月7日が⛴開港記念日です。
そう言えば、特急スーパービューサフィール踊り子号は、始発の東京駅を出ると次に停車する駅は横浜駅。横浜駅の次が熱海駅でその間の品川・川崎・藤沢・平塚駅も通過します。
横浜を出発すると、次は熱海駅に停車します。
サフィールを冠さない踊り子号はここで伊豆・修善寺に向かう車両と熱海から伊豆急下田駅に向かう車両とに分岐されますので、停車時間が6分ほど長めになります。
「踊り子」号同士であっても、車内に流れるメロディは、JR東日本のE257系は、「4打点チャイム」なのに対して、「サフィール踊り子」号E261系特急の車内メロディは「La Mer Bleue」と、車内メロディにもこだわりがあります。
停車駅や車内放送前に流れる車内メロディにも違いがあります。
「💎サフィール踊り子号」は、切り離しがないので熱海駅の停車時間は普通で、乗降者が途切れたら出発です。
🟦 食堂車復活👍🏻
「💎サフィール踊り子号」で特徴なのは、🈯️全席グリーン車で食堂車が併設されていることです。食事をしなければ食堂席には座れませんが、☕️などは車内アテンダントがワゴンで車内販売します。
※武漢コロナウィルスの蔓延で2020年4月から車内販売とカフェテリアは休止していましたが、2021年7月より営業復活です。
しばらくJRでは形を潜めていた食堂車の復活❣️嬉しい限りです。世界一遅いと言われている🇨🇭ツェルマット→サン・モリッツを結んでいる氷河特急には食堂車があり、車窓からの景色を眺めながら一杯飲めるサービスが受けています。
氷河特急には自国🍷ワインの車内販売があります。電車の通行に坂が多いことから、ワイングラスの足がわざと斜めにカットされた独特のグラスで、氷河特急車内でしかお求めになれませんません。
🇨🇭スイスも鉄道王国の一つですが、特急と言えどもがむしゃらに時間を急ぎません💦
車内では優雅にゆっくりと時間が過ぎていき、サン・モリッツ→ツェルマット間を8時間で結びますが、乗客は誰一人文句を言う方はいません。
サン・モリッツは、冬季五輪が開催された世界有数の高級リゾート地。この地域の公用語は🇨🇭でありながら🇮🇹に近いことからイタリア語かロマンシュ語です。ただスイスはドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語の四ヵ国語表示が当たり前です。スイスという国自体が統一された言語はないという特殊性もありますが、さすがは観光立国を標榜するだけのことはあります。
サン・モリッツから乗車する方々は皆、列車の旅を楽しむために乗り込み、時間を急ぐ方は✈️飛行機に乗るからです。
日本もそろそろ、鉄道の旅を本格的に楽しめる電車の登場を待っていたのですが、「💎サフィール踊り子号」は、その要件に適っています。
熱海を出発すると、次はJR網代に停まり、その次が伊東駅に停車します。
🟦伊東駅
🚉伊東駅はJRと東急系の伊豆急下田路線の分岐のため、運転士や車掌の交代と引き継ぎがあるため暫く停車します。
伊東駅の改札口を出るとロータリーがあります。🌴リゾート地のような佇まいがあり、一気に観光気分が盛り上がります👍🏻
町を👣ぶら〜り。
歩いて5分、伊東市立「木下杢太郎記念館」があります。入館料は100円。
木下杢太郎、🥼医学者にして詩を書き、文学や美術にまで傾倒、本名を太田正雄はこの伊東市湯川に生まれました。何と、戦時色が濃くなっていた昭和16年に🇫🇷政府から同国最高の栄誉🎖レジオン・ドヌール勲章を授かっています。
この頃は日本陸軍の暴走が止まらず南部仏印🇮🇩インドネシアを進駐してしまう時期ですが🇫🇷政府は木下に叙勲するのです。
彼の功績は主に、🦠病原性真菌、ハンセン病、皮膚腫瘍で国際的に評価されています。
館内は撮影禁止ですので、写真はありませんが太田正雄のコーナーでは足が止まりました😱
記念館を出て🏖海に向かうとそこが🍊オレンジビーチです。画家としての木下杢太郎が描いたオレンジビーチがそのままにありました。
さらにぶらぶらしてみると、大川橋から有名な旅館「東海館」が見えて来ます。3階の望楼が特徴の建物で、昭和3年創業の老舗旅館で現在は伊東市に寄贈され誰でも利用できる文化施設となり、敷居も低くなっています。
せっかくだから正面にも回ってみました。一泊だけでなく、♨️日帰り温泉も利用可能な看板もありました。やはり歩いていると、いろんな発見がありますね。
日本の伝統技術が生み出す趣きのある板壁。精緻な組み合わせが美しさを引き立てます。今度は中にも伺ってみたいものです。
♨️公衆温泉をテーマにした『テルマエ・ロマエ』がここでも撮影のロケ地になっていたなんて、ここへ来て初めて知りました。
伊東散策での意外な発見を見つけ、もう少し歩いてみたら、更なる発見がありました。
現在📺大河ドラマで放映中の『鎌倉殿の13人』で前半部分の話題を拐った頼朝の愛妾で義時の妻となった八重姫が頼朝と逢瀬の場となった⛩音無神社がありました。今風に言えば、💏初デートの思い出の場所とでも言いましょうか。
伊藤祐親の愛娘を頼朝が自らの野心のために利用しようとすることから、恋の行方は悲しい別れに発展してしまいます。おりしも、父・祐親が大番役として京都御所の警護役として任期三年の不在の時であったことから、祐親が激怒したのは、ドラマ通り。流人頼朝の管理を任されていたから、なおさらです。
でも、いけない恋ほど二人は❤️🔥燃え上がるものです。背徳感とドキドキ感のあるちょっとミステリアスな恋は今でもありがち。
大河ドラマでも紹介されていた地蔵とタブの大木に川のほとりで逢瀬は、この音無神社でした。
安産の神様と言うことで、🤰妊婦さんがよく参詣に訪れるそうな🙏🏻
平安末期のプレーボーイ・源頼朝の💖デート現場です。
⛩音無神社の隣りには、八重姫の実家である伊東家の墓がある曹洞宗の古刹・最誓寺もありました。
浄財を志納して伊東駅に戻ります。駅まで15分ほど、いい運動になります💦
🟦 下田へ
伊東駅から→伊豆高原駅→伊豆熱川駅→伊豆稲取駅→河津駅→終点の伊豆急下田駅となります。
静岡県民でありながら、下田には初めて降り立ちました。
下田の町を👣ぶら〜り。
下田も幕末になって日米外交の歴史を語る遺構があちこちにありました。
下田駅から伸びるメインストリートの街道を「マイマイ通り」と名づけられていました。
地元の食堂の女将さんに伺ってみたら、マイマイは🐌カタツムリから来ているとか。ペリー来航でカタツムリも上陸を果たしたことから名づけられたそうな🤔
マイマイ通りを歩き始めたのは、日米外交交渉の舞台となった了仙寺があるからです。
私が歴史小説を読んで深く感銘した📘に佐藤雅美さんの処女作『大君の通貨』。著者はこの作品で新田次郎賞を受賞する代表作となります。
為替の交換レート💴=💵にしないと国家が転覆してしまうと言う事実。254年も続いていた江戸幕府の倒潰があっけなく進んでしまった事実。
実は、武力でもなく為替レートの不備を是正しなかった幕府の無知無策による幕府の資金繰りの極度の悪化による自滅と知り、幕末の回天があっという間に成し得たなど背景は教科書では習わず、合点がいきました。
この作品にも登場する了仙寺を一度は観ておきたかったのです。駅前の掲示板では了仙寺まで👟徒歩15分とありましたから、健康のため歩きます💦
マイマイ通り沿いに、宝福寺があります。
文久3年1月15日(1863年)土佐藩主・山内容堂は江戸より大鵬丸で上洛の途上、🌀時化により宝福寺に投宿していました。
この🌀時化ので兵庫より脱藩浪士・坂本龍馬を連れていた勝海舟も下田港に避難して時化をやり過ごすため角谷に投宿します。
軍艦奉行並の勝海舟入港の知らせに、山内容堂は酒席に招きたいと勝に使者を送ります。
勝は容堂投宿の宝福寺に参上し謁見します🙇🏻♂️
この宴席で勝は龍馬の脱藩を許し身を預からさせて欲しいと懇願、容堂は🍶を飲めない下戸の勝のことを承知で朱の大盃を差し出し
「酒を飲め干せば、考える」
勝は躊躇うことなく大盃の🍶を飲み干し、赦免の証を求めます。
すると容堂は自身の白扇を手にして「瓢箪」を描き
🐋「歳酔三百六十回鯨海酔候」と、署名し勝に応じます。
この直談判で坂本龍馬は赦免され、後の活躍のスタートラインに立ちました。
幕末の回天に纏わるエピソードも面白いですね。
宝福寺資料館には、入口に🐈の守衛さんもいましたが、この日は眠かったようです🥱
宝福寺の資料館にもう一つ大切な資料がありました。唐人お吉の墓です。
実は、お客様から意外な話しを拝聴しました。
お吉は、知多半島出身だと、仰るのです。
そのお客様は歴史への造詣はとても深く、自身で歩き廻り自費出版までなされておいでです。
知多半島と言えば、サントリーが新たに売り出した🥃モルトウィスキーで更に有名になった愛知県の知多半島です。
お吉は、14歳で芸妓として、下田花柳界に身を置きましたが、♨️銭湯から出て来た容姿は一目を置かれた美少女だったようです。
幕府役人はそこに目をつけて、ハリス領事から女性派遣要請を受け、懐柔策も兼ねてお吉派遣に動きだします。
駐日🇺🇸領事ハリスは、敬虔なクリスチャンで生涯を独身で過ごします。
ただ彼は、洗濯ものや炊事などに困るので給婦として女性の派遣を要請するのですが、幕府の役人は早とちりしてお吉を芸妓として大金25両の支度金を渡しハリスの許に派遣するのですが、ハリスは役目が違うと直ぐ、解雇して送り返します。
ですが、言われない差別と偏見に苦しんだお吉は晩年、世を儚んで自害してしまいます。
見目麗しい容姿であったが故に、不幸な一生を過ごした方でした。
数々の芸能人がお吉を演じました。水谷八重子さん、佐久間良子さんや草笛光子さんも墓参に来院されたようです。
宝福寺を出て、マイマイ通りでお昼にします。食べログの情報は怪しいので、地元の方で賑わう食堂で、「丸金食堂」さん。
金曜日だったこともあり、🍛カツカレー❣️に、🍺を注文です。
テーブル席はもちろん小上がりに二階席もお客様が思い思いの昼食をオーダーしていました。
地元で愛されている食堂でのお昼は格別です。
丸金食堂を出て7〜8分、マイマイ通りの突き当たりに了仙寺があります。
佐藤雅美さんの📘代表作『大君の通貨』でも登場するお寺です。
了仙寺《りょうせんじ》、別名〝ジャスミン寺〟とも呼ばれる日蓮宗の寺院で山号は法順山。寺紋は徳川家の家紋「三つ葉葵」。
徳川家康が大坂夏の陣で眼を患い、家臣の薦めで日蓮宗の高僧・行学院日朝に願掛けを依頼したことから、日朝にお寺の開山を約束したことから、寺紋が徳川家の家紋を下賜されたとか🤔
境内から参道にはアメリカジャスミンが植えられていました。だから、ジャスミン寺と呼ばれるのですね。
了仙寺本堂の裏手には横穴遺跡もありました。
了仙寺に限らず伊豆はジオ的にも鑑賞すべき遺跡が点在しています。
実は日米和親条約=神奈川条約で開港が決まった下田と函館。ペリー提督は一度目は4艘、翌年には7艘の黒船で来日した際にちょっとした問題がおこりました。
軍艦の滞在で薪水や食糧、石炭を補給する際の代金です。ペリー提督が偉いのは、日本から脅しつけて補給するのではなく、正当な料金を払い🇺🇸が日本に紳士的に振る舞っている様を見せたい。
だが、この代金支払いで🇯🇵の四角い通貨・一分貨と🇺🇸の円形通貨・メキシコドルの為替レートをどう設定するか⁉️です。
軍人でありながら、為替レートを迂闊に取り決めたら、将来に禍根を残すと思ったペリー提督は、神奈川での調印後、下田に移動して再度、協議することにしました。
その大事な為替レートの設定を三日間に渡って協議したのが、ここ了仙寺でした。
日本は、一分が3倍の重さのメキシコドルと同じ価値があると主張、従って一分=1メキシコドルの為替レートだと。
一分は幕府の刻印を打ち3倍の価値を与えられているという幕府の役人に、🇺🇸は3倍の価値をつけるのは、幕府が不当に高く3倍も代金を払わせようとしていると、主張して両者の主張は平行線を辿ります😥
幕府の役人は一分銀貨の仕組みをよく知らされて
いませんでした。勘定方からそのように説明して来いとだけ言われただけです。
一分銀貨は、既に江戸幕府の御金蔵が底を突きかねる状態であったため、銀貨に含む銀の含有量を極端に減らして合金にして、幕府の刻印を打って3倍の価値の貨幣にして流通させていました。
この銀の含有量が不十分な貨幣で発行で得られる利益を〝出目〟《でめ》と、言います。
幕府は出目によって何とか幕府の支出・収入の歳出の帳尻をしていましたが、外交の下っ端役人にこのカラクリを披露するわけには行かず、為替レートを知らない者同士が三日間に渡り堂々巡りの議論を交わしていました😤
交渉が三日間で終わったのは、神奈川からペリー提督が長引く交渉で帰国を急いでいたため、この時だけは幕府の言われるがまま代金を支払い帰国したからです。
が、帰国してペリー提督は🇺🇸国内で大バッシングを浴びます。
幕府に法外な代金を支払わされたというのです。そこで、タウンゼント・ハリスが🇺🇸の駐日大使として赴任し、この法外な為替レートの是正にやって来ることになりました。
了仙寺が最初の🇺🇸領事館として提供されたからで、ハリス領事も滞在した記述があります。
まさにここで、🇯🇵🇺🇸の日米和親条約の下で、下田が開港されたのでした。
🇺🇸は当時、捕鯨をしておりその補給路として日本開国を迫り、半ば強引に徳川幕府の鎖国策を転換させました。
🇯🇵側代表が林大学頭、🇺🇸側代表がマシュー・ペリー海軍大佐。日本語・英語・漢文・オランダ語で調印されました。
了仙寺から海岸まで歴史情緒溢れる通りが〝ペリーロード〟。現在はお土産屋とか喫茶店が軒を連ねます。
了仙寺山門からペリーロードの途中にもう一つ歴史遺産がありました。
真言宗の寺院・長楽寺です。
ここは🇷🇺代表団プチャーチンが滞在し、安政元年(1854年)12月日露和親条約が締結され、捕鯨船などの補給の提供と共に、択捉島とクルップ島に🇯🇵🇷🇺の国境が確定して樺太は🇯🇵🇷🇺の共同統治が確認されました。
北方領土や樺太は日露戦争での戦利品ではなく、ちゃんとした和親条約で取り決められたのですよ、🇷🇺外相のお爺さん。
可愛い娘さんとお忍びで🇯🇵での密会旅行を楽しむのなら、長楽寺にも観光に来るべきでしょうね。
戦争で勝ったからの戦利品ではありませんので、自国の〝自称・🥋柔道家〟にも、しっかりと勉強しておくよう伝えてね🫡
長楽寺の細い参道を降りて来ると、ペリーロードが海まで延びています。
了仙寺を出てすぐにあった喫茶店で一服☕️
紫陽花が咲き始めています。
ペリーロードの突き当たりにペリー提督の胸像と紫陽花が咲き誇るあじさい公園があります。提督の胸像の場所がペリー提督上陸の碑です。
ペリー提督はただの海軍軍人ではありませんでした。フィルモア大統領の親書を携え、克明に日本での見聞を記録し後年、📗にまとめました。
📖『ペリー提督 日本遠征記』です。
彼は、下田から三島→箱根→江戸へ向かう道中での見聞の中で、三島での休憩にいたく感銘を受けたことを記述しています。
ペリー提督はただの東インド艦隊司令長官ではありませんでした。大統領の親書を携えて日本に遠征するため、日本遠征記の構想を持ち日本に関する書籍を大量に購入して研究しました。
中でも長崎出島の🇳🇱オランダ商館に滞在していたフォン・シーボルトの📖『日本《NIPPON》』を高く評価していました。
シーボルトを始め欧米の文人・学者・旅行者の参加は、
「日本遠征は学術調査ではなく、軍事・外交目的である」ことから拒否します。
他方、ペリー提督は日本遠征記執筆のため、🇩🇪人画家ハイネ、銀盤写真家ブラウンJr.、生物学者モローは同道させました。
寄港した下田、浦賀、函館の人々の漁業や航海、町のあらゆる職業に関心を持ち、観察しました😎
ペリー提督が用意周到さが窺える幕末日本の状況まで解る歴史的大書です。
ペリー提督は日本の木工建造物に見られる大工の熟練した技量、仕上げ、整然とした床張り、窓・障子・引戸のきちんとした取付や滑りの良さに驚嘆😱
その精緻な作りに、
『🇺🇸にとって、日本は油断のならない技術を持つ大国に成長するやも知れず、日本の底力を侮ってはならない』
と、記します。
また、街道沿いの排水溝や公衆便所を見て、日本人は貧乏ではあるが決して卑屈ではなく、清潔感溢れる国民であることを特筆しています。
ただ移動の際の籠は、せっかくの幕府の計らいであったのにも関わらず、大男のペリーには小さく窮屈だったようで、加えてかなり揺れたので乗り心地は決して良くないと酷評しています。
ペリーロードを突き当たって左に曲がれば、下田漁港です。ここにペリー提督が上陸したとあります。ここから、了仙寺までは歩いても10分も掛かりません。
ペリー提督やハリスも散策したことでしょう。
下田漁港から🇺🇸総領事館が置かれた玉泉寺は👣歩いて30分。途中、下田開港の道の駅があり、お土産品の展示販売や🛳観光船の船着場があります。
曹洞宗の古刹・玉泉寺は、天正年間に真言宗から曹洞宗に改宗されたそうです。
安政3年8月5日(新暦1856年9月3日)ハリスは通訳官ヒュースケンを伴い、下田に着任し初代駐日総領事となりました。
玉泉寺のハリス記念館にハリスの日記の写しがありました。そこには、
『旗竿が立った。水兵たちがそれを廻って輪形をつくる。そしてこの日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。
厳粛な反省ー変化の前兆ー疑いもなく新しい時代が始まる。
敢えて問う、真の日本の幸福になるだろうか?』
資料館内は撮影禁止でしたので、写しは撮影出来ませんでしたが、ハリスの密命はその後の江戸幕府を瓦解に持ち込むことになります。
帰路、そう言えば幕末の英傑の一人、松下村塾で伊藤博文・山縣有朋・久坂玄瑞に高杉晋作らに多大な影響を与えた吉田松陰が確か、下田港の小島からペリー提督の旗艦ポーハタン号に乗り移ろうとして下田奉行に捕まったことを思い出し、何処か🤔
と、ググってみたら玉泉寺のすぐ近くにあります。疲れた身体にムチ打って訪ねてみました。
玉泉寺から👣歩いて3分、国道135号線を跨いですぐ先の弁天島でした。吉田松陰は海外での見聞の夢捨てがたく、まさに決心の覚悟で弁天島から沖に停泊していたポーハタン号に無断で乗り移ろうと小舟で出港します。
海外出航はご禁制、国際問題に発展しかねないことから乗船を拒否された吉田松陰は自ら下田奉行所に出頭し捕縛されます。
弁天島の松はその声なき生き証人です。
この引用文に登場した二人の日本人こそ、吉田松陰と金子重之輔であると、ペリー提督が明記しています。
この弁天島はジオ的にも見所があり、地形学の貴重な遺構があります。
地質学に造詣があったらなぁと、悔やみます。
この弁天島は地続きなので、歩いてこれます。
弁天島から戻り国道135号線を跨ぐと吉田松陰の像がありました。
旧暦・安政元年(1854年)3月27日 丙寅 新暦ですと4月24日月曜日の夜、下田・柿崎海岸沖に碇泊していた🇺🇸米国艦隊に、吉田松陰は金子重輔と共に、乗船しようとここから、櫓のない🚣小舟で船出します。
米国艦隊に奇襲されるかもしれない米国海軍は、24時間体制で艦上を立哨していた水兵に見つかり、一旦は乗船するも、海軍士官らに説得されて下船します。
後日談があります。
吉田松陰は3月5日に江戸を出立し19日には下田・柿崎海岸に到着、27日までに出奔しようとするまでの九日間、一里ほど離れた寒村からここ柿崎海岸まで米国艦隊を観に来ていました。
時には☔️が降って来て雨宿りする宿も無かったり、寒さに震えて漁村の方のご厚意で餅汁を振る舞って貰ったりしながら毎日、観に来ていたのです😱
昔の方は、車や自転車がないとはいえ、一里4kmを歩くなど、何の抵抗感も無かったのですね。
ー閑話休題ー
翌28日に、吉田松陰は自ら番所に出頭し捕縛後、江戸・伝馬町牢屋敷に投獄され、一時は川路聖謨らの幕閣の助命嘆願が功を奏し、長門野山の獄、故郷・萩で幽閉され松下村塾を開学して長州閥の多くを育てましたが大老・井伊掃部頭直弼が断行した安政の大獄で、命を落とします。
安政6年10月27日 癸亥(新暦11月21日月曜日)、刑死。享年30歳でした🥲
吉田松陰の辞世の句
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留めおかまし 大和魂」
は、有名ですね🙏🏻
ここから伊豆急下田駅はちょっと歩くので、🚌東海バスに乗って10分、運賃170円でした。
上りのサフィール踊り子4号は臨時列車で、下田駅を16:38分発で、少し時間が開きましたので駅前のお土産屋さんの喫茶ルームに心太の文字が。
出発10分前にならないと入場出来ませんので、しばし待合室で待つことになりました。
熱海行き普通電車が出発した後にサフィール踊り子4号が入線して来ます。
サフィール踊り子4号は定刻、伊豆急下田駅を出発しますが熱海で下車するので、食堂車の準備が整うのを待っていられず先程、駅前のお土産屋さんで購入した鯵と金目鯛の寿司弁当を車内で食べ帰路につきました。
東京→伊豆急下田駅は高額なので、なかなか乗車出来ませんが熱海→伊豆急下田駅間ならちょっと頑張れば乗車できます。
車内販売でのワゴンサービスでの☕️ホットコーヒーも専用のカップ🥤でプチ贅沢な小旅行を味わえました。
伊豆・下田のお土産は下田駅前にあった雑貨も扱うお土産屋さんで買い求めた『特急 サフィール踊り子 号』のイラストの絵葉書です。
Nゲージの鉄道模型はちょっと高かったので、購入は思い留まりました。
(終わり)