『殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安』を読んで
🟧きっかけ
雑誌『サライ』に、時代小説の特集で、司馬遼太郎さんと池波正太郎さんにスポットがあたっていました。
両者とも好きな作家でしたので、雑誌を購入して記事を読んでみました。
池波正太郎さんの代表作・鬼平こと『鬼平犯科帳』のシリーズは、随分と拝読いたしましたが、『仕掛人・藤枝梅安』シリーズは読んだことが無かったために、丸善ジュンク堂書店に足が向いてしまいました😅
雑誌の記事を読んで、びっくり⁉️
仕掛人・藤枝梅安の藤枝は、静岡県藤枝市に由来するとのこと。早速、読んでみますと、梅安が地元を尋ねられ、渋々と語るシーンに、駿河国藤枝が生まれであることを明かす件りがあります。
平成22年の一年間、あの当時未だ在籍していた金融機関の拠点管理職として、志太地区藤枝地域を拝命しておりました。
職員さんと同道し、藤枝市の青島、岡部、瀬戸川、伝馬地区を隈無く外交に出かけましたが、不勉強が祟り、藤枝梅安が藤枝に所縁があることを気づかずに仕事していました。
もう少し、藤枝所縁の藤枝梅安の話題に触れていたなら、あの当時、もっとお客様と馴染めていたかもしれませんね🤔
東海道沿いに連なる商店街には、数々の名店、老舗がございます。
雑誌『サライ』でも紹介されていた「🍡瀬戸川だんご」もその一つでしょう。
ただし尋ねたのが10月末、🍡瀬戸川だんごは春から夏の季節限定品なので、今回はご亭主お勧めの生どら焼きを買って帰りました🥲
以前、伺った際に撮ってあった🍡瀬戸川だんごの写真がコレ❣️
仕掛人・藤枝梅安の作中にも梅安が好物だったみたらし団子と餡団子が登場します。
今と違って砂糖を含め甘味ものは大変、貴重でしたので、梅安もそう度々口にすることは出来なかったことでしょう。
話しは変わりますが、織田信長が天正10年3月に悲願だった武田氏の討伐を終え、その労を労うために🏯安土城に徳川家康を饗で接待するよう明智光秀に命じます。
家康が僅かな手勢40名ほどで安土城に出向き、信長も自ら運んだとされる膳の味に、家康始め家臣団は腰を抜かさんばかりに驚いたといいます。
味付けには和三盆などを贅沢に使い、それは見事な味わいに普段は健康に留意して質素なものを食べていた家康がますます驚愕したことが記録に残っています。
それだけ、砂糖・和三盆は貴重な調味料だった時代、みたらし団子は贅沢な甘味処だったのでしょう。現在のご亭主様によると、「瀬戸川だんご」を忠実に再現し、先代は作家・池波正太郎さんも取材で立ち寄った際に、幾つも頬張っていたと聞かされていた、とのこと。
ただし、「瀬戸川だんご」は季節ものなので、秋に行った際には作っていませんでした🥲
この「瀬戸川だんご」をご提供なさっておいでなのが、旧東海道沿いにある『紅家 紅粉屋久右衛門』さん。
イート・インではありませんが、老舗の和菓子匠です。店内には、饅頭や和菓子の木型もあり歴史を感じさせます。
⛩神明神社から東海道は青木・藤枝へと西に向かうと大きく弧を描くように曲がり出します。
瀬戸川に架かる勝草橋の手前に、正定寺《しょうじょうじ》が右手にあります。
この古刹は、梅安の鍼医の師匠・津山悦堂が藤枝に投宿していた際に引き取られ、小説では師匠・津山がこの古刹に、梅安の父の墓を建てたことになっています。
梅安は作中、この正定寺に墓参に来ています🙏🏻
上伝馬商店街沿いには他にも見どころがたくさんあります。蓮華寺公園にまで戻る際には、反対側にも有名な松の巨木がある古刹・大慶寺があります。
更に東へ戻ると🚌バス停にもなっている古刹・蓮生寺の裏庭には、イブキの古木がありました。
この辺りの旧東海道は、東には宇津ノ谷峠の難所があり、西には島田の先に待ち構えている〝越すに越されぬ・大井川〟があり、難所と難所の間の緩衝地帯でもあります。
🟧仕掛人・藤枝梅安
江戸時代、法の裁きを掻い潜り悪さをする悪党に、お金で悪党を始末してくれる闇の商売、仕掛人の一人が藤枝梅安です。
この梅安を池波正太郎さんが鬼平とは、別の視点から軽妙に描きます。
藤枝梅安の住まいは、江戸、品川台町で鍼灸師を営んでいます。
梅安が住む品川台町が何処らへんかはおおよそ察しがつきます。原作では、
京浜急行線で🚉品川駅を出発し、線路は北品川から高架で快速特急まで停車する青物横丁駅、その進行方向右手側に🎌正月三ヶ日に走る箱根駅伝のランナーが駆ける国道15号線が並走しています。
その国道15号線に大きな交差点があり、JR大井町駅ロータリーに向かって上がっていくなだらかな坂を「仙台坂」と言い、かつてここに仙台藩下屋敷があったことから、今でも仙台坂と呼ばれています。
私が東京で仕事をしていた頃、このJR大井町駅と京浜急行 立会川の間に、品川寮があり8年間過ごしていましたので、立会川・鮫洲・青物横丁・大井町界隈は、週末になると🍶飲み歩いていました。
原作では、仙台藩下屋敷界隈では、賭場も開かれ幕府目付(幕府の秘密警察のような存在)見て見ぬふりをしていたと、あります。
が、その実は各藩の屋敷内は自主性が認められ一種の治外法権で、幕府と言えども中々手出しが出来ませんでした。
東海道の品川宿があり、木戸を構えて夜8時以降は江戸の出入りを禁じるよう木戸を閉めます。
〝場末〟と言って、品川宿、新宿宿の木戸より外は、幕府としては、江戸ではありませんでした。
当然、この木戸の外には幕府が暗黙の了解としていた歓楽街が公然とあり、宿には「飯盛女」という殿方のいろんなおもてなしをし、風俗嬢紛いのサービスまで、蔓延っていたのが、新宿宿や品川宿で東海道や中山道はとりわけ五街道の中でも賑わいをみせます。
そんな雑踏とした品川宿で、腕の立つ評判の鍼灸師ですが、裏稼業が仕掛人です。
仕掛人は原作では江戸に数人いるように描かれていますが貴賤を問わず、男女の隔たりもなく、「蔓」《つる》と言って元請が、依頼者「起こり」から仕事の引き合いがあると仕掛人に仕事の依頼をし、請け負うのが梅安でした。
原作では、殺しの依頼料が最低でも20両、最高は300両で仕事の難易度によって請負料が変わり相場は、50両〜150両で、「蔓」と「仕掛人」とで折半ということになっていたと設定されています。
現在の貨幣価値では1両=10万円相当ですから、江戸時代の人の命の相場は案外、安いのですね。
ただし、『鬼平犯科帳』でも記されているように、江戸時代は厳罰下にあり10両盗めば、打首になっていたようですから、「起こり」・「蔓」・「仕掛人」も覚悟の上での決死な稼業だったということになります。
時代背景は、江戸時代も中期の徳川幕府、11代将軍・家斉《いえなり》の治世ということになっています。その点、鬼平が活躍した時代を描く『鬼平犯科帳』は、もう少し前ということが解ります。
鬼平こと、長谷川平蔵宣以《へいぞう のぶため》の上席があの〝🐟清き水には魚が住まず〟と揶揄される松平定信で、平蔵は実在の人物でした。
火付盗賊改という、現代で言えば警視庁総監&東京消防庁長官に凶悪を特別に取締る特別警察のような激務を7年も務め上げた旗本です。
この長谷川平蔵も調べてみると祖先は、静岡県焼津市小川に端を発していることが解りました。平蔵の9代前のご先祖は、今川氏と徳川家康に仕えた直参でした。 残念ながら、今川氏真は父・義元が桶狭間で信長に討たれた後に衰退し、武田信玄の家臣となる長谷川家は、勝頼が信長・信忠親子に天正10年3月に滅ぼされてしまうために、断絶してしまいます。 が、一方の家康に与した長谷川家は、家康と共に江戸へ参府して、旗本に取り立てられ、9代後に平蔵となります。 焼津市小川で長谷川家は商いをし、小川湊から陸揚げされる水産物を取り扱いながら、半官半民のような裕福な商人上がりの侍でした。更に6代前に遡ると長谷川法栄と名乗り、小川で城を築き、義元の父、今川氏親の幼少期に家督相続で今川家の内紛で争っていた頃は、焼津小川城に室町幕府から調停役として派遣された若き伊勢新九郎=北条早雲を迎えます。
それに比して、仕掛人・藤枝梅安は実在していないようです。
池波正太郎さんが創り出した登場人物かと思われますが、それだけによりリアルに存在を意識させるために、江戸中期の町人・商人風情の様々な佇まいを綿密に調べています。
それは小説を書く上で大変、骨🦴の折れる作業だったと思います。
私が🧑🎓学生の頃、史学科で専攻は中世史と分類されている時代で、ざっくりとした区分けでは鎌倉時代から室町時代後期・戦国時代までです。
関ヶ原合戦前後は、近世史と区分され、資料も増えて来ますが、識字率も上がることから農村での佇まいが解る地方文書も増えて来ますので、未発表の地方文書の解釈から新仮説を唱える醍醐味を味わいたく、近世史・地方文書の世界に挑戦して行った同窓は皆、卒業間際まで泣いていました🥹
古代史の史料は少なく、ほとんどが漢文ですので漢文の授業を苦にならない方は、後は配される漢字一字一字の解釈の世界と、乱暴な表現が許されるならそんな感じです。
中世史は史料の文書がくずし字で記載されていますが、当時の多くは武将に仕える「祐筆」《ゆうひつ》と言う専門の文書屋さんが綺麗に形をなしたくずし字で文書を認めているので、『くずし字辞書』などを活用して、祐筆の特徴さえ捉えれば解釈が出来るようになります。
問題は近世史です。
筆記専門家の祐筆が型にはまった崩す字でなく、
字を習い立ての初心者が勝手気ままにくずした字を用いたり、癖の強い字を面倒臭いのか流れるように文書に認めてあるため、地方文書を翻訳するだけで難儀でした。
また、史料や資料が多いということはそれだけ、出展を確認せねばならず、大学院でも行って没頭出来る余裕がある学生ならともかく、4年間で卒業しなければならない私のような貧乏学生は、興味はあっても近世・近代には足を踏み入れる勇気はありませんでした。
恐らく、池波正太郎さんや司馬遼太郎さんのような有名になった作家には、お弟子さんやら雑誌編集部の手厚い応援があったでしょうから、様々な資料が手元に届いていたでしょう。
それでも資料の少ない町人風情の佇まいを描くには、食べもの、着るもの、町の縄張りや案内図、時代背景など暮らしぶりを再現するのに、一部は想像したとは言え、苦労があったと拝察します。
その藤枝梅安が生まれたとされる藤枝市に、その痕跡を見ることが出来ます。雑誌『サライ』でも、写真付きで掲載されていましたが、この⛩神明神社が中々見つかりません。
諦めかけていた時、最後の手段でGoogle MapのGPSを頼りに見つけました。
この神明神社の左脇に、ありました。
🟧せっかくなので、藤枝宿を散策
藤枝市は旧東海道の宿場町でもあるので、歴史ある町で見どころも多くあります。
トコトコ歩いてお腹が空いて来たので、小休憩。蓮華寺公園駐車場の真隣り、蕎麦の名店『ますだや』で、美味しいお蕎麦を食べることに😋
🦆鴨せいろに、しました。やはり長ネギとの相性は抜群。
とっても美味しゅうございました🙇🏻♂️
蕎麦湯もいただきました。
藤枝宿は、隣り町・島田のような天領とは違い、田中城址にほど近く、さながら田中城の城下町のようでした。
藤枝市田中にある田中城址は、四角い本丸を三之丸・四之丸が周囲を輪状のように築城されました。
田中城は昔、今川氏の頃には徳一色城《とくのいっしき じょう》と呼ばれていました。今川義元の代は、守将が長谷川次郎右衛門正長でした。
義元が桶狭間で討死した後、元亀元年(1570年)甲斐の武田信玄が侵攻して来て長谷川正長は、焼津・旧日本坂近くにある花沢城落城と共に、城を明け渡しました。
武田信玄は、築城を家臣・馬場信春に命じて武田築城のアイディンティーとも言うべき〝馬出し曲輪〟「三日月堀」を大手一之門と三之丸・新宿一之門に築きます。
その後、織田信長・信忠父子に天正10年3月1日に武田討伐の前に、織田方に開城して、4月信長は家康のエスコートで三保の松原や久能寺、丸子城を検分した後に、この田中城も寄ります。
この辺りは、『信長公記』に記されています。
現在は、別荘庭園である下屋敷を復元して史跡公園として、整備されています。
島田も静岡市内である駿府の天領なので、城代や奉行が現地支配人たる首長となるのですが、武士と言っても江戸幕府から派遣された公務員のような存在です。
ほぼ二年ほどで転任したり、人によっては単身赴任もありました。
尾張や加賀、薩摩、仙台のような大大名家の城下町では大消費地となり、職人たちも定住し町が発展しました。
駿河も3代将軍・家光の実弟、忠長が乱心により蟄居、改易とならなければ、もう少し栄えたのではないかと、惜しまれます🤔
夕方近くなると、恋しくなるのが麦のジュース❣️
また、旧東海道沿いに戻り、歩いて来た際に気になっていた珍しい🇩🇪ビールの本場ドイツでよく見かけたレーベンブロイの🍺生ビールの看板🪧。
中々見かけないレーベンブロイの🍺生ビールは本当に喉越し、最高でした。
ビアレストラン『ウッドベル』さん。寄らせていただき、ありがとうございました。
新宿と横浜で見かけたことはありますが、ここ地元近くの藤枝でレーベンブロイの生を味わえるなんて、思いがけない小旅行となりました。
(終わり)