廃寺・久昌寺を巡る旅 ー『下天は夢か』ー津本 陽 作
📰日経新聞朝刊の連載小説だった津本 陽さんの代表作『下天は夢か』。
文庫本を読み直しています。
そんな時、先月の日経新聞朝刊に、久昌寺(きゅうしょうじ)が廃寺となり、令和4年の4月から取り壊されるという記事が掲載されていました😱
なんでも、専住のご住職がおられず、宗教法人も解散、老朽化した久昌寺修復費用をクラウドファンディングで応募するも集まらず、このままでは朽腐した本堂が台風などで近隣の住民宅や通行人に被害が出ることを防ぐため、苦渋の決断に至った経緯が書かれていました。
令和4年4月⁉️
もうすぐではないか、と思い先月にまんぼう明けを侍して参詣して参りました🙏🏻
『下天は夢か』でも信長が度々、家臣・生駒八右衛門の生駒屋敷を訪ねて来る場面があります。場所は愛知県江南市。那古野から北西方向、小牧城址から徒歩で60分ほどでしたので、約1里(4kmほど)でしょう。
来訪の目的の一つは、居候していた吉乃を見染めた信長が通ったからです😍
信長の周囲には生母・土田御前を始め、正室・濃姫、妹のお市の方など美女揃いでしたから、吉乃も未亡人とはいえ、よほどの美女だったのでしょう。
正室・濃姫とは子が授かりませんでしたが、吉乃とは嫡男となる信忠を始め、信雄・徳姫の2男1女を授かります。
吉乃のもう一つの功績は、当時未だ氏素性も解らぬ藤吉郎秀吉を才覚を見抜き、信長に取り立てられるよう助言します。いかに信長といえども吉乃の進言がなければ、藤吉郎秀吉を取り立てていたかは判りません。
秀吉にとって、吉乃は人生を変えた女性です。
作品での信長の尾張弁の会話シーンが新鮮でした。多分、当時も信長は口数少ない武将だったようですが、話せば尾張藩丸出しだったことでしょう。
この作品にも登場する信長最愛の側室・吉乃。
生駒氏は、尾張・生駒八右衛門が当主で、吉乃は長女。夫・土田弥平次が討死し、実家に住まわせて貰っていました。
この生駒氏の菩提寺が久昌寺(きゅうしょうじ)です。
現在の愛知県江南市、🚃電車の最寄り駅🚉は名鉄 犬山線布袋駅。👣徒歩で15分ほど。名鉄名古屋から片道410円でした。
国宝・犬山城が少し前まで個人所有だったと知り、驚きました‼️
名鉄は複雑な路線網ですので、静岡から西上して来た田舎者は、乗り慣れず苦労します💦
名鉄 布袋駅を下車してから南下し、道すがら生駒屋敷跡がありました。
生駒氏は染料と油を扱いながら、馬借業も営む武家商人でした。尾張領内で岩倉街道の要衝の地にあり、通商でも充分に生計が成り立ち、一財を為していました。
信長の父・信秀は、そんな生駒氏は取り込もうと躍起になっていたが中立を保つ強かな一面を持っていました。
ここから、5分ほどに久昌寺がありました。
生駒屋敷図を拝見すると、久昌寺は屋敷の敷地、南西部を占めていたようです。
将来はここを取り壊し、公園化するようです。久昌寺の裏にもベンチなどがあり、広く市民に公開されていますがもっと拡充するのでしょうか?
報道で知ったのか🤔
既に3人ほどの方が来院されています。
「布告」を拝見し、本当に解体してしまうのだなぁと、実感。来年の今頃にはもう跡形も無くなっているでしょうから、これが見納めです🥲
吉乃は、永禄九年5月13日(新暦 1566年末5月月31日)この地で亡くなります。遺体はこの近くで荼毘に伏され久昌寺に埋葬されたと、久昌寺境内のレリーフに記してありました🙏🏻
吉乃は生涯、那古野城、清洲城、小牧城などには入城せず、側室として分をわきまえた謙虚な女性だったのでしょう。正室・濃姫への配慮があったと思います。そのため、信長は日参するほど通い積めますが早世してしまいます。
久昌寺から歩いて3分の近くには、⛩龍神社があります。ここも生駒氏に所縁のある⛩で、信長の生母、土田御前にも所縁があります。
龍神社の⛩鳥居の前には、生駒屋敷の面影を偲ばせる御殿跡、力石、雨壺池跡がありました。何故❓
雨壺池があるのか?
⛩龍神社は雨乞いの神社とされ、雨乞いの祈祷を捧げていたら、龍🐉が旱魃を救い☔️雨を降らせた言い伝えが残っていて、ここに水を溜めたことによるそうです🗣
祭神は土田弥平次、吉乃(お類)の前の夫です。
雨壺池の隣りが龍神社の社務所で、吉乃御殿の跡地だそうで、ここに居候していた吉乃の許へ信長が通いあげました。
久昌寺を参詣後、折角だからと信長の居城・小牧城址にも行こうと思い立ちますが久昌寺から小牧城址までは🚌バス路線・🚆電車もありません。
やはり、徒歩か。
約1時間ほどのウォーキングです。
意を決して行動開始です。とぼとぼ歩き始めて15分ぐらい。 地元の銘酒、酒蔵を発見し寄って行くことにしました。
一升瓶は持って帰れないので、四合瓶にしました。さらに東に向かいとぼとぼ歩いていると、遠くに小牧城の丘が見えて来ました。そこに🌸の名所の看板があるので、ちょうど道沿いでしたから、👣寄り道です。
既に鎌倉時代には建立されていた同寺も室町時代には廃れ廃寺同然だった正眼寺の再興の援助を申し出のが、信長です。
生駒屋敷に日参する間に見かけた正眼寺の姿を憂い、支援したのでしょう。
信長が寺院や仏閣への庇護・助力するのは正眼寺だけではありません。石清水八幡宮、熱田神宮、津島神社に、伊勢神宮。京都御所や旧二条城など、枚挙にいとまがありません。
正眼寺から、高速のガードを潜り25分ほどで🏯小牧山城址に到着です。
小牧山城址に、地元の方で賑わう知る人ぞ知る美味しい🍜ラーメン屋さんで、腹ごしらえ😋
疲れた身体に美味しい🍜ラーメン❣️と炒飯。
美味しゅうございました😋
満腹で眠くならない内に、再び歩き始めて小牧山城址の追手口を登ります。
永禄6年(1563年) 癸亥、織田信長は小牧山に築城し清洲城から移ります。
永禄6年7月30日 丙午(新暦8月18日 水曜日)、肥前国横瀬浦の湊に🇵🇹ポルトガル船「ナウ」号が到着し、イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが日本上陸を果たした年でした。
南に大手口を設けて真っ直ぐ小牧山の中腹まで登り、右に折れて幾度か曲がり山頂の主郭に繋がります。
発掘調査によれば、上下二段の石垣が巡り、上段の高さは2.5m〜3.8m、下段の高さは1.2m〜1.5m、傾斜角度は70°で積み上げられているとのこと。
石垣背面から「佐久間」と墨書きされた石材が見つかったことから、佐久間氏が石垣築城を担当したと思われます。
石垣などの遺構を示す看板が多数ありました。
井ノ口城を改築し岐阜城にした際には見られない中世築城の常識に捉われない発想は、既にこの頃から具現化していたと、愚考します🤔
10分もしない内に天守台へ登り切ります。ここから西を眺めると今まで歩いてきた道と生駒屋敷跡が見えました。
吉乃を亡くした信長は一人、西の方角に向け佇み、時には涙したことも伝わっています🥲
信長のこと、泣き声などはあげなかったことでしょうから、近習や女中も声を掛け辛かったことでしょうね。
ウォーキング促進アプリ「アルクと」アプリ
総歩行数 22095歩