「労働」への違和感
最近仕事の関係で決まった時間に出社して、ほぼほぼ定時で帰る生活を送っている。
以前は土日も関係なく働いていて、常にタスクに追われつつ、なんとか対応しながら、プライベートも押し込んでいくような感じだった。
「こんなんやってられるか!」と思い(もちろんメインの理由はそっちではないが)、転職し、いろいろあって定時勤務をしているわけで、以前に比べて圧倒的に時間もできたし、仕事にも追われていないし、規則正しい生活にもなった。
ただ、以前と比べて仕事面でのトータルでの満足度は一気に下がった気がする。
理由としてはいろいろあるとは思が、そのことの一つに「労働」ということに対する違和感がある。
「労働」とは何か
この「労働」に対して感じる違和感の要因は、労働が商品化され、会社に対して売買関係になっていることにあると思う。
どれだけ会雰囲気が良い、とか家族みたいな関係があるなどの特徴がある会社だとしても、雇用契約をしている以上、その事実は免れない。
ただ、社長・役員達など経営に対して責任を追っている人たちはそうでないかもしれない。
例えば、学園祭でクラスやサークルで出し物や模擬店をする場合、誰が何時間働いたから、ということは加味しないだろう。
場合によってはシフトに入った時間や企画への関わりで、収入を分配することはあるかもしれないが、それはかなり虚しい感じがする。
つまり、全員何かしらの「成功」に向かって、事業を運営する。
そこから得られるものは、金銭的な利益というより、達成感などが主たるものではないか。
おそらく、何かしら収入を得たとしても、最後に全員の打ち上げで使い切るか、プールして全体の活動資金にあてるだろう。
何が言いたいかというと、労働力の対価に関する雇用契約(≒時給的な契約や成果報酬的な契約)が「存在しない」(つまり、どれだけ働いてもいくらもらえるかはわからない状態)か、それくらいの自己犠牲感をもって取り組めるものでなければ、とにかくその関係は白々しくなるということだ。
「安定した労働力を提供し、安定した収入を得られる」ということに何ら違和感がないというのであれば全く問題ないが、「働くことが虚しい」と感じている人がいるとしたら、おそらくそこが原因なのではないかと思う。
個人の生産性と会社の生産性
また、「生産性」という観点から見たときにも、労使契約のもとの「労働」には矛盾がある。
※「生産性」という指標そのものに対する是非については以前別の記事で言及したが、今回は「個人」と「会社」でその指標が一致していないという話をしたい。
働き方改革と生産性
https://note.mu/bppmnm172/n/nfe9fe42c2ba4
なぜならば、会社にとっての「生産性が高い状態」とは、より少ない「労働者数」で、より高い成果=生産高を得ることであり、労働者にとっての「生産性が高い状態」とは、より少ない「労働力の提供」(※時間×密度=生産活動) によって、より高い成果=金銭 を得ることであって、利益が相反し得るからである。
(図1)
図1 会社と労働者の視点で見た成果の要素分解と成果UPためのインセンティブ
利益が相反するという点をもう少し詳しく説明したい。
当たり前だが、「生産性が高い状態」とは、できるだけ少ないインプットで、できるだけ高いアウトプットを得ることである。
ざっくり要素分解すると、会社は「労働力」と「ビジネスモデル」や「生産設備」を掛け合わせることで、成果を生み出し、利益を得ており、労働力はコストなので、「できるだけ下げたい」というインセンティブが働く。
そして労働力は「時間」と「密度」に分解できる。
そうした場合、労働者側からの視点で観ると、得られる「成果=収入」は「時間=時給・基本給」と「密度=ボーナス・成果給」に相当する。
そうすると、労働者が生産性を高めるためのインセンティブとしては以下の2つが考えられる。
A.できるだけ労働時間を短くし、密度を上げてボーナスを得よう!
空いた時間は投資に回し、さらに密度を上げていこう!
これは大変「良」のインセンティブで、会社としてもこれが望ましい。
ただ、残念ながらもう一つのパターンがある。
B.できるだけ労働時間は長くし、時間で稼ごう
長時間労働はつらいので、密度はできるだけ最低限を維持し、楽をして稼ごう
これは、「無駄な残業が発生し、成果もなかなか上がらない」という、会社が最も嫌う状態であり、「個人の生産性」と「会社の生産性」の向上の方向性が一致していない、ということになる。
「それは労働者側の意識の低さが問題だ!」という指摘があるかもしれない。
確かに、無駄にダラダラ残業する、というのはいかがなものかと思う。
ただ、「できるだけ楽をする」というのは本来的にはなんら悪いことではないはずだ。同じ成果をできるだけ「楽」に稼ぐことで、企業は生産性が上がっていくわけなので。
ところが、それを個人の単位で実行すると、とたんに「サボっている」とみなされてしまうわけである。
なんでこんなことが起こるかというと、そもそも個人と会社で生産性の指標が一致していないからだ、と考えている。
もう少し端的に言うと、「時間」が成果の指標に介入していることが要因だ。
「時間」が成果の要素になっている以上、「ある程度同程度の時間あたり成果を生み出すだろう」という前提があり、会社としても「時間」に対するコストを労働者側に支払う。
しかし、この「時間あたりの成果」の基準を明確にするのは(特にホワイトカラーの労働者の場合は)困難で、労働者側にとっては、それをできるだけ最低限まで下げることが「最もコスパがよい」状態になってしまう。
一方、会社は最大限まで上げることが「最もコスパがよい」状態になるため、利益が相反してしまう。
囚人のジレンマ
であればそれを一致されるように会社も労働者も動けばいいわけなのだが、会社と労働者の関係が、いわゆる「囚人のジレンマ」に限りなく近い状態になっており、一致させるインセンティブが働きにくい状態になっていると言える。
上記の表は、会社が労働者に対して「時間で縛るor縛らない」と、労働者が生産性を上げるために取る手段として「時間あたりの密度を上げるor下げる」をマトリクスにし、それぞれの条件別に得られる成果について整理したものである。(※「時間で縛る」とは最低/最長労働時、労働時間帯、出勤の有無など、物理的に労働者を拘束することを指しており、実際にその程度は会社によって異なっているが、便宜上「有無」のみでまとめている)
当然ながら最も成果が高くなるのは、会社は時間で労働者を縛らず、モチベーションの赴くままに労働者は持てる力を精一杯労働に費やしているときである。
ただし、現代日本ではある程度「基本給」という形で給料が決まっていることが一般的なため、「頑張らなくてもある程度もらえる」という状態になり、そうすると一定数、期待値を下回る働きに留まる層が出てくる。
時間管理がなされていない場合、その比率がどんどん高まってくると、会社としては生産性が落ちてきて、投入工数の割に成果が上がらない事態になる。
(残業代も自由に支給できる状態だとしたら、事態はさらに悲惨になる。バブル時代の大企業はそんな感じだったという認識)
景気がよいときはまだそれで良いかもしれないが、景気が悪くなりコスト意識が高くなると、当然生産性をあげましょうということになるし、無駄な残業なんて論外である。
そのため、企業は時間で労働者を縛るようになっていくわけだが、これにより、もっと働きたい層や、強弱をつけて働きたい層のモチベーションを下げることにつながる。
また、「時間」に対して報酬が支払われる側面が強くなり、生産性を上げることのインセンティブが弱まってしまう。
という流れで、どちらが先ということもなく、右下の「最も生産性が悪い」ゾーンでの悪循環へと陥っていくわけである。
では、その循環から抜け出し、良の循環を回していくためにはどうすえば良いか。
私としては3つのパターンがあると考えられる。
1.労働者が自主的に、Aのパターンで生産を上げる
あくまでも、会社が労働者を時間で縛る、という条件内で状況を改善するにはこれしかないわけだが、はっきり言って、これができれば苦労はしない。
各企業はなんとかしてこの方向にもっていくために、自己啓発を促したり、1on1ミーティングを取り入れたりしているようだが、それだけでみんな①になってくれれば、こんなにも日本企業の生産性に関する悲観的な話題ばかりが聞かれることはないだろう。
この施策を推し進める場合、「収入以上に得られるものがある」ということがよくある会社側の建前である。
むしろそれ自体は事実であって、どうせ働くなら、給料以上のものを得なければ成長はなく、成長がなければその先の収入が伸びるべくもないわけだが、ある意味、そこは個人の選択の自由である。
「ガンガン成長したい」という人はすれば良いし、「別に低空飛行で頑張ります」という人を無理に引っ張り上げることは難しい。
人口減少と経済的成長の停滞により、将来の収入増加に希望が持てない今の若者世代にとっては、むしろ後者が多くてもなんら不思議はない。
しかし、今の日本の雇用条件だと無碍にやめさせるわけにもいかないため、会社にとっては身動きが取りづらい状況ではあるだろう。
2.成果の概念から「時間」をなくし、完全成果主義にする
次に、会社側の制度をいじって、労働者を時間で縛らなくすることである。
最近では「高プロ」が事実上の残業代搾取=ブラック企業を認める法律だ!などと話題になったが、ようするにそういう風にしていまうということだ。
いくら時間がかかったかは関係なく、成果のみで給料が支払われる。
以前、私が働いていたところも、完全成果主義とは言わずとも、時間で縛られることは全くなく、アポイントを守り、成果物納入と報連相だけできていれば、どこで何をしていようが何も言われることはなかった。
当然、要求アウトプットの量は多いし、土日の感覚がほぼなくなっていたが、その分、平日に髪を切ったり、集中的に休みを入れたり、好きなように働ける側面もあり、割と自由にやれていたように思う。
私は仕事量が多いのもとりあえずは成長の機会と捉えていたし、無茶苦茶に仕事を放り込まれるようなこともなかったため環境もまだ恵まれていた方だったが、会社に「いいように使われてしまう」人も、もしかしたら多いのかもしれない。
いずれにせよ、時間の管理をなくせば労働者が堕胎するか、会社がブラック化するか、2つのリスクに苛まれることになる。
成果=収入の時代は終わったのか
それでは、3つ目は何かというと、
3.そもそもの目的=「成果」自体を一致させる
ということになる。
1、2は、
会社の成果=「会社としての利益」
個人の成果=「個人の収入」
として、それぞれ本来異なるものの一致のさせ方をパターン化したわけだが、「そもそも成果自体を一致させる」というのが3である。
つまり、個人の利益=会社の利益=成果ということであり、1と似ている気もするが、1のように「考えようによっては・・・」ということではなく、「物理的にそうしてしまおう」ということだ。
具体的なやり方として、大きく2つ考えられる。
①会社の売り上げと給与を完全に連動させる
②そもそもの成果を「金銭的報酬・給与」ではなく、「やりがい」や「楽しさ」に設定する
①だけでいえば、給与制度の仕組みなので、やりようはあるかもしれない。
とはいえ、いきなり「全従業員、売り上げ連動性にして給料はフラットにします」なんてことは、企業が大きければ大きいほど難しいだろう。
また、②についても、今の従業員に対し「今日からはお金じゃなくて、やりがいを求めれくれ!」と一方的に求めることは困難を極めるため、それを求めるメンバー集めから始めなければいけない
となると必然的に「業績で給料が変わるリスク承知でやりがいと求めてます!」という人を集めるスタートアップを自分で作るか、見つけ出してジョインする、というのが一番の近道、ということになるのかもしれない。
最適解は何か
さて、話を本題に戻そうと思う。
「時間で縛られる労働」に対する違和感とは、つまり、個人の生産性と会社の生産性が一致していない状態で、暗黙の闘争が繰り広げられているためである。
囚人のジレンマで言うところの、右下の「両者負け」状態がずっと続いてるのではなかろうか。
では、上記で述べた3の方法によって、その違和感を解消するには、会社が改善すべきなのか、個人が改善すべきなのか、という話でいくと、きっとこれは両方なのだと思う。
会社は労働者は収入によって動機付けできるものとして扱ってきてしまったし、労働者側もそれに甘えてきてしまったところも多分にあると思う。
私はそもそも囚人になりたくないので、なんとかして抜け出す方法を考えているわけだが、しっかり3連休のおやすみをいただいてたっぷり遊んでしまっている以上、囚人もなかなかやめられないぜ・・・と思いつつ、今日はこの辺にしておこうと思う。
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