5.Shallマインドのススメ⑴グレーを見極めること
目次
Mustマインドからの脱脚-前書き
前回記事
Mustに反発する「若者」の背景
⑶「脱・Mustモデル」への気づき
前回は、改めてMustに関わる問題点を整理し、その解としてShallマインドを位置付けた
再掲になるが、図で整理するとShallは、外的動機であるMustを内的動機として処理するための志向である。
ここで一つ疑問が起きる。
「内的動機に従うことが大事なのであれば、Wantにこそ従うべきなのではないか」と。
この点こそが、もっとも言いたいことであり、核心部分である。
結論を言うと、「まったくその通りであり、その通りであるが故に、その通りではない」ということになる。
Wantに従うべきなのか
「自分に素直になろう」「思いのままに生きよう」
こういったフレーズは昔から言われていたであろうが、おそらくこの5年~10年くらいで耳にする機会が圧倒的に増えたように思う。
(それこそYoutubeとか、ネットメディアで)
つまり、Mustマインドを強要されながらも、そこから脱却することができた人が「Wantを持て」と言っているわけだが、これを真に受けてはいけない、というのが自分の主張である。
なぜなら、彼らはMustに疑問を持って育ち、鬱屈しながら自分のShallを鍛えた結果、うまくWantをコントロールすることができるからである
それもなしにいきなり「Mustは嫌だからWantに従いまーす」と言ったところで、ただの自分勝手になりかねない
渋谷のハロウィーンで暴れる人と一緒である
もちろん、生まれながらに「Want」に従い、大成功を収める人もいるが、人はそれを「天才」と呼ぶ
日本人はどちらかというと、環境の変化という意味では、各個人でも、その個人を受け入れる社会という観点でも、ハードランディングは苦手であり、徐々にならすソフトランディングの方が好まれる傾向にあると思う。
(※ただし、強烈なトップダウンや天変地異などで状況が一変したときの切り替えの早さはまた別の話)
少年野球とShallマインド
一旦話はそれるが、少し野球の話をしたい。
日本では、長らくプロ野球選手がアマチュア選手へ指導することは禁止されていた。
その背景はプロ野球界とアマチュア野球界の断絶というどちらかというと利権的な問題に端を発している訳だが、とにかくプロの選手がアマチュア選手と接触することは難しくなった。
例えば、バリー・ボンズというメジャーリーグでも有数のスラッガーがいる。(今だとトラウトとか、ジャッジとかだろうか・・・)
彼の豪快なスイングを見て、小学生がそのまねをしたとする。
しかし、当然ながら、豪快に振り回しても同じようにはならない。
そこで、ボンズがどういったことを意識してスイングしているかというと、「できるだけ最短距離で、コンパクトに振ることを心掛けている」と答えるわけである。
するとこの心がけだけが先行して、子どもへの指導に適用される
「もっとコンパクトに。最短距離でスイングしろ」と。
ところが、この教えの通りスイングしても、まったくボンズのように打てるようにはならない。
なぜなら、プロ野球選手の感覚とアマチュア選手の感覚があまりにズレているし、技量も筋力もまったく違うからである。
ボンズのスイングスピードによってバットにかかる遠心力と、小学生のスイングスピードでかかる遠心力には圧倒的な差がある。
ボンズはその大きすぎる遠心力を制御するために、「最短距離で、コンパクトに」という意識を強く持ってスイングした結果、それでもなお、豪快(に見える)で、的確なスイングか可能になっているのである。
そのことが抜け落ち、「最短距離で、コンパクトに」という概念だけが先行し、子供たちが指導されてしまうとただただ狭苦しく、力のないスイングをするようになってしまう。
なぜそうなるかというと、ちゃんとした野球チームならまだしも、学校のチームなどになると野球経験がなかったり、極めて少ない先生が指導するケースも少なくない。
(特に部活が強制だった時代はそういうケースが多かっただろう)
そうすると、「遠心力の制御」という感覚的な部分はなく、「コンパクトに」という理論だけが先行することになる。
そして、この指導の結果、実は一旦、子供のスイングは強制され、ただ振り回すときよりも的確さが増す。
そうすると、「子供を一様に的確なスイングをさせることができる」として、この理論が最適とされる。
しかし、その理論はその先のダイナミズムを奪うことになる。
「コンパクト」という理論と形だけが先行するため、その先に筋力がついてきて大きなスイングが可能になっても、指導者も子供も「コンパクト」に囚われてしまう。
そして、「ボンズのようにホームランを打ちたい」と思って野球を始めた少年は、選択を迫られる。
「このままコンパクトに打ち続けるか、それとも自分の思うように大胆に振り回すか」
仮に後者を選んだとして、やはり急には打球は飛ばない。
なぜなら、今までのフォームとは違うわけだし、的確さと豪快さのちょいどよいバランスを見つけることは難しく、それこそが野球の醍醐味であるからである。
ここでよほどセンスがあるか、良い指導者に恵まれれば、そのバランスを追求して、その先のステージに進むことができる。
そうでなければ、「やはりコンパクトにするのがよい」と結論づけてしまい、また小さいスイングになってる。
そして、思うように打球も飛ばせず、野球の醍醐味を知らぬまま野球から離れていくのである(甲子園を見ていると想像がつかないかもしれないが、高校野球で外野の頭を超すことがおおよそできない選手は少なくない。漫画で弱小チームの補欠選手がマグレあたりでホームランを打ったりするが、現実にはどうしたって物理的にホームランにはなり得ないスイングではマグレは起き得ない)
この状況は、MustとWantで揺れる心境と大変似ている
自分はやはり「守・破・離」の考え方は大事だと思っていて、凡人が結果を出すにはまず「守」から入るのが大事だと思う。
そういった意味で、まずは基本を学ぶという日本的なやり方は自分は良いと思っているし、子供にコンパクトさを教えることも効果的だと思う。
ただし、それが過度な「Must」に変化し、「守」に準ずることこそが正解になってしまうのがよくない
「ルールは破るためにある」という言葉をただの皮肉だと考えていたが、実は「ルール自体の正当性を疑い、破り、新しく作り上げていく」ということが重要だということだと今は理解している
そのために必要なのがShallマインドであると考える。
グレーを受け入れる力
今は、Mustが陳腐化し、機能もしないしWantとも乖離している。
かと言って急にWantに従いだしてもコントロールできず、どこかに衝突する
盲目的にMustに従うでもなく、本能的にWantに従うでもなく、それらを踏まえて、どうすべきかを考える。
その考えのが積み重なり、自分自身の価値基準=Shallになっていく
それはMustとWantの中間点という意味では決してない
方向修正を繰り返しながら、Wantに寄る人もいれば、Mustに寄る人もいるだろう
そこには好き嫌いが反映されるだろう
そして、それこそが多様性であり、多様性を受けれるカギでもあると言える
つまり、一様なMustで切り分けることはもはやできない以上、各個人がShallを鍛えて、MustからもWantからも自立することが、これからの拠り所である
言い換えると、それは「線を引かない」ということにもなる
Mustとは「Must or not」に線を引くことであり、Mustに従わないものは受け入れられないということである
しかし、それこそが多様性を受け入れるための阻害要因になる
Mustには線を引かず、各自の持つShallで判断する
Shallとは「~した方がよい」であり、そこに線はなく、基準は曖昧である
その曖昧さを許容することが、多様性を受け入れることであり、難しいポイントでもある
白か黒かだけで判断せず、グレーはグレーとして受け入れる
Mustマインドとは、それを白か黒かで線を引き、どちらに属するかを議論する、もしくはその意見に盲目的に従うことである
Shallマインドとは、白と黒の主張を聞いた上で、新たな解を考えることである
そのとき、「白」という色と「黒」という色を知らなければ、適切に判断することはできない
「白」を知らない人にグレーは黒く見え、「黒」を知らない人にはグレーは白く見える
このShallを鍛えるという意味で、教育こそが重要であると言える
まさにこの点にこそ、学校に行く意味があるのではないか
狭い世界でだけ過ごしていては、どうしても色が片方に寄ってきてしまう
見たことのある色の幅を広げ、「自分はその色をどう捉えるのか」を、自分の意志を持って決めれるようになることにこそ、価値があるのではないか
逆に、これまでの日本が重視してきた「いい成績を取る」ことだけを考えれば、もはや学校に優位性は全くなく、優秀な先生の授業をWEBで受講するか、お金があれば個人で雇ってみっちりやる方がよい
もしくは、「競争環境こそ大事」ということであれば、名門私立の進学校のようなところは確実にその役割を果たしているだろう
このShallには正解がなく、方向性を導くことはできても、正解を教えることはできない
だからこそ、他人とその方向性をぶつけ合い、切磋琢磨してより遠くに、自分の体制が安定する箇所に、視点を置いて、進んでいかねばならない
自分の中にこもってその方向性を突き詰めていくのも結構だが、それは晩年を孤独に過ごし、精神をやんだニーチェのように、研ぎ澄まされてはいるものの、繊細で壊れやすいものになるのではないか
つまり、それはまた新たな「Must」を生み出していることに外ならなく、そのMustを支える母体が「自分自身のみ」という極めて弱いものであるからだ
Mustの強さとはすなわち、「それを支える人の数」、もしくは「権威の大きさ」である
個人としてどうしていくべきか
では、結局個人としてどうしていくべきなのか。
結論としては、まずはMustをShall化することから始めるのがよい、ということになる。
「やらなければいけない」ではなく「まあ、やった方がいいか」と思ってみる。外発的動機から、少しずつ内発的動機にうつしていく
やりたくないことを、いきなりやりたいことに変化させるのは難しい
けど、やった方がいいこととして納得感を持って進めることはできる
もし、やらない方がよい、と思うのであれば、やらなければよい
(ただし工夫は必要で、ただ放置するのではなく、やらなくてもよい方向に持っていく工夫は必要)
それが自分の基準に従うということであり、それを繰り返しながら少しずつ基準をUPDATEしていくという、極めて地道で着実な作業を行うほかない
ありきたりな結論かもしれないが、「絶対的な正解はない」という結論である以上、そのアプローチにも確立されたものは設定され得ない
それよりも「今の環境がなぜそうなっているのか」という背景を理解し、考えることの方が、より重要なことである。
さて、この「Mustマインド」という概念を考えたそもそものきっかけは、「なぜ仕事がこんなにもつまらないのか」ということであった。
次回は、これまでの考察を踏まえた上でその問いに結論をつけ、本シリーズを終えたいと思う。
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