ローカルフードの曖昧さ
東南アジアに来てみて、一つ分かったことは現地のご飯を食べるのにはものすごいエネルギーが必要だということ。
屋台に日光を浴びならがら並べられている食材を、甘いのか辛いのか微妙な調味料と合わせて、使い古されたフライパンで炒める。
そうすると、色んなものが散らかっている路上に僕のローカルフードが置かれたプラスチックのテーブルに置かれる。
それは一種の新鮮さがあるし、とても日本じゃ進んでやることではないので不思議な体験ではある。
ただ、東南アジアに来てまだ5日も経っていないのに、もうそれにお腹がいっぱいなのである。美味しいと思えば、美味しいが、 ときどき何を食べているのか分からなくなる時がある。そういう葛藤がある。
結局、口にしている目玉焼きやお味噌汁とお米が恋しくなる。
ローカルフードには成分表もないし、どこで誰が撮ってきたもので作られたのか分からない。
それを想像すると、やっぱり不思議だし、でも自然的だなと思う。それは人間の根源的な食に対する姿勢のような気がした。
ここはディズニーランドじゃない。ゴミだって沢山落ちてるし、蚊だっている。その中で食べるそれらをいかにして味わうかが僕には求められている。
名前の分からない料理と、知らない味付け。見知らぬ人から出されるそれらとそれを一人で食べる僕。
全てが本物じゃない感じがする。
こんなにも色んなものが曖昧にされると、かえって潔いが、その曖昧さに打ち勝つだけのエネルギーが必要なのだろうと思う。ただ、やっぱり僕も曖昧だからわざわざ日本から東南アジアまで来たのかもなと思う。
絵的には、構造としては、それらが通じている。
せっかく飛行機に乗ってここまで来たので、屋台や食堂でローカルフードを食べたいと思うが、それを考えると頭がクラクラしてしまう。
自然と日本でも馴染みのあるお店や食材、既製品に目がいってしまう。
まるで、脳がリスクを回避してるみたいに。
そして、丸亀製麺が食べたくなる。
けど我慢して、また屋台に行って2ドルとかそこらのぐちゃぐちゃしたものを食べる。きっと日本ではあまり食べることがないそれらを、ただ今だけは美味しそうに食べる。