点B止まり

4月から社会人です。まだ元気です。

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最近の記事

本当は心理か英語の学部に行きたかったけども

今日、家の近くにある図書館の自習室に勉強をしに行った。 大学四年生にもなり、就職先もなんとか決まり、論文も提出した。そんな状態であるのに、まだ2月にある国家資格の勉強をしてしまっている。卒業にも、就職にも必要のない資格。 さて、なんのために勉強をしているのだろうかとたまに思う。 それで自習室にいる周りの人をボーッと見ていたら、共通テストの赤本をやっている人がいた。 そうか。もうセンターの時期かと思う。センターという単語はもう死語なのかもしれない。いつからか、共通テストなん

    • 文章が読めなくとも、日記は書ける

      僕には一年のうちで、数回だけ文章が読めなくなってしまう期間がある。それに具体的な原因があるのか、ないのかは分らないけども、生活を送る上で文章が読めなくなることがそれだけで、どれだけ不便であるかをその度に思い出す。 この文を書いているときですら、数行前のことはあまり読めない。単語が並んでいて、それが文章であり、さっき自分がキーボードを叩いて書いた単語たちであることは認識できる。ただ、それが意味のあるまとまりとして理解できない。 恐らく、集中力か記銘力が数秒しか持続しないときに

      • 伸びきった心と縮むやる気

        僕の心は伸びきってしまったのかと思うことがたまにある。 それは中華麺が伸びきってしまうとまずくなるように、僕の中ではネガティブなこととして捉えている。 ストレスについて説明するときに、人の心を”ゴムボール”に例えられることがある。指でゴムボールを上から押すと、ボールはぐにゃりと形を変える。けれども、指にはボールのもとに戻ろうと反発する弾力を感じる。この指を”ストレッサー”として、ボールの弾力を”ストレス耐性”とすることが多いんだと思う。 これで言うと、僕の心が伸びきると

        • 僕の好きな研究室

          大学ではあまり居場所がない。 僕の学部の男女比は1:9くらいで、女性が多くてほとんど周りは女の人に囲まれている。そこでのコミュニティは男がマイノリティになる。それに、部活もサークルも入っていない僕にはコミュニティと呼べるものがない。 それだから、大学では落ち着ける居場所がないなと思いながら過ごしている。 好んで訪れるのは、キャンパス内にある図書館の雑誌コーナーくらい。 あそこは無料で新しい雑誌がいくつか読めるので、時々訪れてはペラペラめくる時間を過ごしている。 図書館に

          最終面接前夜の情熱もいつか冷める

          僕は就職活動で地方新聞社をたくさん受けていた。これは、そのうちの一つの最終面接の前夜の話だ。 その会社の最終面接へはわざわざ電車と飛行機を乗り継いで本社近くのホテルに泊まっていた。つまり、自宅からはだいぶ遠い場所だった。 そのホテルの客室で面接ではあれを話そうとか、ああ答えようとか考えていた。ふと、その新聞社についてTwitterで検索してみたら、その新聞社の夕刊が近々、廃刊する見込みだというネットニュースを目にした。 御社の衰退だった(もしくは、戦略的撤退か)。 僕は

          最終面接前夜の情熱もいつか冷める

          雑誌ムーの現在地

          最近、用事で地方に行くことが何度かあった。 そのうちの一つが島根県だった。 名古屋からは新幹線と在来線を乗り継いで5時間くらいの場所にある、地方都市の中でもとりわけ地方だと思う。島根県は人口が日本で二番目に少ない県。お隣の鳥取県は一番少ない。 その二つの県に住んでいる人を寄せ集めても、山形県に劣る。つまり、それくらいに、そこは地方だってことだ。 島根県の中心部にあった定食屋さんでお昼を食べた。 県の人口は少なくても、店内は混んでいた。 みんな何かしらの仕事をしていて、お

          雑誌ムーの現在地

          プノンペン→シェムリアップ

          夜行バスに乗る前の夜が、僕の中ではとっておきの自由な時間だ。そのバスに乗ったら、起きたときには自分の行きたかった場所に運んでくれている。気づいたらだ。 プノンペンからシェムリアップまでは夜行バスで行くことにした。カンボジア国内を大きく移動する。けど、僕にとっては違う場所であり、違う国のようなものだ。 プノンペンの真夜中。あと1時間ほどでバスに乗り込む。そしたら、気づいたら違う場所に僕はいる。 もしかしたら、二度と来ないかもしれないここを出るときの気持ちは幼い頃に遊んでいた

          プノンペン→シェムリアップ

          ローカルフードの曖昧さ

          東南アジアに来てみて、一つ分かったことは現地のご飯を食べるのにはものすごいエネルギーが必要だということ。 屋台に日光を浴びならがら並べられている食材を、甘いのか辛いのか微妙な調味料と合わせて、使い古されたフライパンで炒める。 そうすると、色んなものが散らかっている路上に僕のローカルフードが置かれたプラスチックのテーブルに置かれる。 それは一種の新鮮さがあるし、とても日本じゃ進んでやることではないので不思議な体験ではある。 ただ、東南アジアに来てまだ5日も経っていないの

          ローカルフードの曖昧さ

          ホーチミン→プノンペン

          ベトナムのホーチミンからカンボジアのプノンペンへ向かっているバスの中にいる。 この間はとにかく暇で、今どこを走っているのかも分からない中で、てもだいたい同じ風景を窓を横切る。携帯はオフライン。 運転手と添乗員は僕の分からない言葉で話を続ける。そして、ときどき急停車したり、ホーンを鳴らしたりする。 街中を超えると一定の速度で走り、僕を僕の知らない土地へ向かわせる。 シャッフルで流れてきた曲を聴いている。 一番初めの曲がGalileo Garireiの「夏空」だった。

          ホーチミン→プノンペン

          良きステキライフを!

          メルカリで買った映画のパンフレットに付いていたメッセージカードに書かれていた言葉。 なんだか、ポップでいいなと思った。 久しぶりに家のテレビで観た『天気の子』が想像よりもはるかに良くて、その映画の記憶が消えてしまう前にとポチッとした。そんな気まぐれな買い物に、絵の描かれた(それはすずめの戸締りに出てくる猫ちゃんだったのだけども)メッセージカードが入っていた。 丁寧な出品者さんは、一言二言のコメントを発送する品物の中に入れることもあるだろう。それは社交辞令に似た優しさであ

          良きステキライフを!

          2022年の僕と音楽の振り返り

          今年が終わる。 これからは、「今年も終わる」ではなくて、「今年が終わる」って思うようにしようかな、となんとなく思っている。なんだか、セカチューみたいな青痛さがプンプンするけども、そっちの方が正しい日本語の様な気がするし、切実な感じをそこに受けるから。 音楽配信サービスから『2020年の「あなた」を振り返ります』というお達しがきていて、勝手に僕が今年よく聴いていた曲たちがまとめられていた。たくさん聴いた曲を上から眺めていると間違いなく、「ああ今年も終わっちゃうなあ。早かった

          2022年の僕と音楽の振り返り

          自分の幸せを定義しなおすこと

          僕のある友だちのインスタに『幸せすぎて、不安!!』と書き添えられた投稿があった。それを見つけて、投稿された写真を見てみたけど、何が幸せなのか僕にはあまり分からなかった。さらには、なぜそのことが不安なのかなんて検討もつかなかった。 ただ、その友だちが今なにやら幸せそうだなとは感じた。 人種を大きく分けると、普段からインスタに自分のことを載せれない人間と載せれてしまう人間がいる。するかしないかの問題ではなく、できるかできないかの問題だと思う。「do or donot」ではなく

          自分の幸せを定義しなおすこと

          なにかを書きたいけど、やっぱり書けなくて、なんだかなという気持ち

          文章を書くことは何かを結論づけることだと思う。 ほら、こうやってまた「○○だと思う」と早くも結論づけてしまっている。 「いや、そうやってすぐに結論づけるのはよくないでしょ」と僕の中にいるいたく慎重な僕が投げかけてくる。そして僕はそれに納得する。そうすると、ほら、なにも書けなくなる。 なにかを自分の中からの言葉で誰かに伝えることは少し僕には難しい。ペーペーの僕が言うことなんて伝わるか分からないし、受け取った人がどう思うかを考えると身勝手にはなれないなと思う。それはきっと柵

          なにかを書きたいけど、やっぱり書けなくて、なんだかなという気持ち

          生きるとか、死ぬとか、日記とか

          僕は去年の11月29日に「今のこの感情を残さないとだめだ、もったいない!」という勝手な思い込みと変な予感で日記を始めた。 今思い返せば痛々しいし、スッカラカンな理由で始めた日記だったので、「長く続けよう」とか「三日坊主にならないように」とかは考えてなかった。 音楽や写真、声として残すのが難しかったから、文字で残すほかなかった。しょうがなく日記という形にはめたけども、モノとして”今”を残せればなんでも良かった。それくらいデタラメな動機だった 短い一日が終わりそうになる日付

          生きるとか、死ぬとか、日記とか

          ラーメンマンによる狂気的な愛

          昔話と今日のお話。 高校の同級生に「ラーメンマン」と呼ばれていた人がいた。 僕の周りしかそう呼んでいなかったのか、学年全体もそう呼んでいたのかは覚えていないけども、いずれにしても紛うことなきラーメンマンだったことには間違いない。 ラーメンマンの外見は高身長で顔は良い、生粋のスポーツマンって感じ。男子の僕が見ても顔が良質だなと思うし、パッと見ても好青年。 僕は彼と2年、3年と同じクラスだった。 1年の時からそれなりに目立っていた彼に幾らかの”畏れ”を持っていたし、それ

          ラーメンマンによる狂気的な愛