ある男
男と目が合った。黄ばみ、黒ずんだ歯をのぞかせながら、奇妙な上目づかいで、俺を見透かすように見てくる。じっと見つめながら、犬のように身体を大きく震わせて、あばらを鳴らして、机に腕を打ち付け続けている。爪が異様にのびて、黒ずんでいる。時折、発する笑い声が、耳ではなく、俺の脳に響く。この男の行動には、一定の周期があるようだ。ぶつぶついいながら、全身を空気に叩き付け、肺で笑う。そして、肺を震わせくしゃみをする。
周囲は怪訝の目を向けているが、その男は存在していないようだ。ただ、俺はその男ではなく、自らに怪訝な目を向けてしまう。何かが見えているその男の脳と俺の脳を取り換える。見えるのは男だけの世界地図。視覚的情報は歪み、地図の形は豊満な裸の女だ。次にじっと動かずスマホの動画を見続けている隣の女の脳と俺の脳を取り換える。見えるのはグーグルマップ。圧倒的情報量を持つ。しかし、見えているのは女の家を中心に半径10㎞だけ。俺の体の中心から向けられるその男への意識がしつこくへばりつき続けている。男がわかばに火をつけた。俺が吸っているたばこもわかばだ。
たまらず、店を出た。蒸し暑い空気が俺の肺に入り込んできた。
手をつないでいるカップルが俺をちらりと見た。お互いの意識の回路のリレーであるその手は、いやらしいほど指を絡めていた。その女のマニキュアは黒だった。
・・・・・・・
私は人間だ。それ以外確かなことはない気がする。いや、私は人間なのか。人間とはなにか。そんな小難しいこと考えないで、ただ息をしていよう。深夜4時の苦痛の咆哮。父にもらったウイスキーはそんな夜に飲む。何不自由ない生活、恥じることのない人生。ただ、空洞なのだ。正しいこともわかる。やるべきこともわかる。これは理性の限界か。私は欠落している。空洞の中に満たされた虚無のガスの中を俺は浮かんでいる。虚無を吸って、内殻の壁をみて生きる。これらは虚言ではない。実際の世界である。