男らしさは道義に属する問題


 「男は男らしくあるべき」


 フェミニストのお歴々に言わせれば、こんなものは時代遅れのカビの生えた規範なのだそうだ。そして、こういうジェンダーバイアスから自由になれば、男たちは精神的により豊かに生きれるらしい・・・・、あまりにもうさん臭くて笑ってしまうが、もちろん、こんなものは大ウソである。


 フェミニズムの本質は、権力闘争である。フェミニズムの真の目的は男性文化を滅ぼし、男たちを弱体化させて支配することにある。強固な男性文化のもとに男たちが団結してしまえば、女たちに付けいるスキはまったく無い。だから、なんとしても男性文化を、その核になる男らしさの規範を破壊しなけばならない。ただ、それだけのことだ。


 「汝、盗むなかれ」    ~聖書~


 男らしさの規範とは、この有名すぎる戒律と同じく、普遍的なものだ。自由うんぬんの問題など、まったく関係がない。人間ならば誰でも盗んではいけないのと同じく、男ならば誰でもある程度は男らしくしなければならない。なぜならこの規範は、男にとって致命的となる、卑劣さという悪徳を封じるためにあるからだ。

 
 

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 男には、誰にでも強者の気概というものがある。男ならどんなにつまらない男でも、自分を強くて立派な男だと認識し、誇りをもちたいと思うものなのだ。これはもう、ほとんど本能的なものであって、ここが女たちとの最大の違いでもある。


 女たちにももちろん、強くなりたいという願望はある。しかし女とは、そのために自分を犠牲にしたりは、あまりしないものだ。しかし自分を犠牲にする覚悟無くして、人間が真の強者たりうることは、やはりないだろう。だから女たちは、どうしても突きぬけることができない。ここらへんに、女に偉人も聖者も英雄も、ほとんどいない理由があるのだと思う。


 逆に男には、人々に強者と崇められるためなら、自分をかんたんに犠牲にしてしまうようなところがある。この愚かさこそが、男の真の美質なのだ。そしてこの強者の気概に訴えかけ、男たちの美徳と悪徳をあるていどコントロールしなければならない。


 男とは、つまるところ暴力的な生き物である。最終的には手を出す。特に一部のマッチョな男たちは、手のつけられない狂暴性をそなえているものだ。この男にもともと備わった狂暴性を手なずけ、逆手に取り、秩序をつくりだす必要がある。それには、男なら誰にでもあるこの強者の気概にうったえかけるのが、一番効く。


 男子は弱い者イジメをしてはならない

 男たるものは卑怯なことをしてはならない

 弱気を助け、強きを挫いてこそ真の男


 こう教育して、男に対し卑怯なふるまいを禁じ、その暴力性が弱者に向かわないように仕向ける。こうやって「男という生き物は強くて立派であるべし」と、ハナから決めつけてしまう。そしてこの基準から外れた卑怯者を、共同体から排除する。


 人間にとって、自分の属する共同体から排除されることは絶対の恐怖であり、この恐怖からは、誰も逃れることはできない。ゆえにこうすれば、どんな男でも卑怯なふるまいを簡単にはできなくなる。先人たちはこうやって、男にとって最大の悪徳である卑劣さを封じ込めようとしたわけだ。つまり、男らしさの規範とは、男にしかるべき道義を身につけさせるためにある。


 
 ここに、自由や精神の豊かさなどは何の関係も無い。道義を守ることにある種の重苦しさを感じるのは、人間なら当然のことだ。


 暴力的な男が卑怯なふるまいを平気でするようになれば、この世の終わりである。その野放図な暴力性は、手当たり次第にまわりの人々を傷つけるようになる。そうなれば秩序は崩壊し、弱い人たちは生きることさえ難しくなる。「暴力性と卑劣さ」の取り合わせは、最悪のものである。


 「強きを挫き、弱きを助けてこそ男」

 

 暴力を振るわねば生きていけないような狂暴な男たちに、あえてこの規範を内面化させてしまう。つまり、狂暴な男の暴力性を「傲慢な強者に対する鉾」に、反対に、「弱者を守る盾」にするように仕向けるわけだ。いわば、単純で狂暴な男たちを、秩序を守るために利用してしまう。


 筆者の学生時代には、ふだんは群れずに単独行動をしているのだが、弱い者いじめをしているような奴をいきなり殴りつけ、「気に喰わねえからやった!」などと嘯く男がいた。格好が良すぎるが、これも男らしさの規範があればこそだ


 男らしさの規範が称えられている社会では、こういう本物の強い男がでてくる。


 いまの若者たちが、弱いとは思わない。むしろ精神的にえげつなさすぎる環境を生き抜いてきただけに、独特の芯の強さがある。しかし、強者に逆らわないことでは徹底している。こういう男らしさの規範が、崩壊してしまったからだろう。強者であることを強制する規範がなければ、誰だって安易に流れるに決まっているのだ。


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 「人間は、愛されるためなら多くのことをする。そして、尊敬されるためなら、何でもする」

                    ~ラ・ロシェフーコー~


 その通りだ。男たちは、まわりの人たち、特に女たちから尊敬されるためなら、どんなことだってするものだ。男たちは、女たちから尊敬されるの為に、時には命すら投げ出す。


 逆に男たちは、まわりの人たち、特に女たちから軽蔑されるのなら、どんなことでも耐え抜く。男たちは、女性たちから軽蔑されることから逃れるためなら、時には命すら投げ出す。


 ならば、この男らしさの規範がその社会で絶対的なものとなっていれば、男たちは、女たちからの尊敬されるために、横暴な強者に戦いを挑み、弱者を守るようにだってなるだろう。そのためなら、時には命だって投げ出すかもしれない。さらに、女たちから軽蔑されるのを嫌がり、弱い者イジメのような卑怯なふるまいを躊躇するようにもなるだろう。


 こうすれば、放っておけば暴力で誰かを傷つけずにはいられない、手のつけられない狂暴な男たちを、秩序の守護者へと仕立てあげることができる。事実、戦前までの男たちは、横暴な時の権力者たちに、命をかけて戦いを挑みつづけてきた。


 男らしさの規範と、そしてまわりの人々、とくに女たちからの尊敬。これを組み合わせれば、いかようにでも男たちをコントロールすることができる。そして、その場のすべての人々が安らかに生きれる、秩序を作りだすことができるというわけだ。


  この道義的な、ほとんど戒律と見なすべき男らしさの規範を、自由や精神の豊かさの問題にすり替え、破壊しようとする。権力闘争という観点からすれば見事な狡猾さだが、真実という観点からすれば、デタラメ以外の何物でもないのだ。


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 この男らしさの規範は、団塊の世代の男たちまでは、確実に生きていた。だから彼らがしきっていた時代の社会では、今よりずっと秩序が守られていた。90年代に比べたら、いまではイジメやパワハラは、劇的にひどくなったと思う。職場のパワハラ系の先輩やお局様のイジメに悩んでいる人は、本当に多い。


 しかし、かつての団塊の世代の男たちがいた時代では、こういう下らぬイジメなど、たいていは職場の管理職の男が一喝すれば、終わりだったのだ。男らしさの規範と、大人の男に対する権威が生きていたからだ。そして若者たちもみな、この大人の男が強者としてふるまう文化を、支持していた。いわゆる家父長文化が、まだそのころには存在していたわけだ。


 イジメはもちろん、いつの時代にもある。しかしかつてはある程度のところで、たいてい歯止めがかかった。いまではその歯止めが、無くなってしまっている。


 家父長文化とは、「そこの一番強い男に権威と力をあたえ、代わりにその共同体の最後の一人まで守らせる義務を負わせる」、というものである。強いものから弱いものまで、健康なものから病弱なものまでいる、人間という群生動物にもっともふさわしい、合理的な文化だ。


 日本の男たちが伝統的に重んじてきた価値観とは、自由や平等といった、いま一つ何を意味しているのかわからない、曖昧な理念ではない。日本の男たちが重んじてきたもの、それは秩序である。定められた決まりさえきちんと守れば安心して生きていけるという、地に足のついた価値観である。安心して生きていけなければ、その他すべての理念など水泡に帰すのだから、それは当然のことだ。安心感とは人間にとって、もっとも大切なものなのだ。


 1,最低限の礼儀、作法を守ること

 2,目上の人にきちんと敬意を払うこと

 3,真面目に仕事をすること(かつては必ずしも仕事ができなくても良かった)


 この3か条さえ守っていれば、かつてはたいてい職場のボスが守ってくれた。家父長文化は、たしかに独力では生きれぬような弱者を守っていた。この家父長文化の骨格になっていたのが、「強きを挫き弱者を守る」という、男らしさの文化なのである。


 この家父長文化は、男らしさの文化とともに崩壊した。フェミニズムとリベラリズムに滅ぼされたのだ。そして日本は、弱い者いじめやパワハラが横行する、カオスの世界になった。


 弱いものイジメをする人間は、まちがいなく増えた。もはや自分より下と見做した人間を見下すのが、あたりまえになってしまってもいる。女たちの弱者男にたいするイジメは、もはや虐待である。女たちはもう、茶を飲みメシを食らう気軽さで弱い男をいためつけ、人を傷つけているという良心の疼きすらない。末期だ。男たちにももはや、弱者を守ってこそ男という気概は、ほとんど無い。


 弱いものイジメは確実に激増し、それにともない、精神を病む人間も増えていっている。


 しかしその場のいちばん強く、権威ある人間が弱者を守らず、卑怯な人間をおさえこまないのなら、弱いものイジメが激増するのは当然のことではないのか?


 強い人間と弱い人間、冷酷な人間と善良な人間をおなじ組織に放りこみ、フラットにやりなさいというのなら、強い人間が弱い人間を支配し、冷酷な人間が善良な人間をいたぶるのは、当然のことではないのか?


 家父長文化は崩壊した・・・結果として強い人間と冷酷な人間が、やりたい放題のふるまいをしている。男らしさの規範も崩壊した・・・そして誰も弱者を守らずに、弱い人間がいたぶられている。


 これではただ単に、何の人間的、文化的な制約がない、野蛮な原始状態ではないのか?これは自由と平等という名の無秩序、つまりただのデタラメ、いわば人間の動物化ではないのか?

 

 ルールも無ければ審判もいないサッカー場で、卑怯者がやりたい放題の反則行為をやってのけ、サッカーのゲームすら成り立っていない。現代日本とは、例えるならこんな感じだ。


 善人から悪人まで、強者から弱者まで、あらゆるタイプの人間がいる社会を統制する精神的文化が、この国には無い。悪人どもを押さえつけ、卑怯者を威圧する規範が、この国には無い。よって法に触れなければどんなむごいことでもまかり通り、弱いものイジメは文字通り、死に追いこむまで止まない。


 最強の男がその共同体を統制するという家父長文化が、そして「強きを挫き、弱きを守る」という男らしさの文化無き社会に、真の人間的秩序など、存在しえない。


 法だけでは、真の秩序はつくれない。真の秩序をつくるのは精神文化であり、その核にあるのが、男らしさの規範なのである。男が男らしさの規範を放棄した国・・・、それはあらゆる卑劣な退廃行為がまかり通る、精神的に、死んだ国でしかない。


 


 


 


 


 

 


 

 

 

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