われわれは、女は人を傷つけていいという狂った社会に生きている
現代とは、あまりにも暴力的な時代である。リベラルマスコミのプロパガンダに影響され、昭和を暴力にみちた野蛮な時代だと思っている人は多い。これは、まったくの偏見だ。たしかに昭和は暴力の垣根は低かった。しかしそれは今もさして変わらないし、何より今の方がある面で過激だ。
その暴力とは言葉の暴力である。そして現代は女の時代というだけに、その言葉の暴力は女たちによってなされることが多い。そもそも暴力というと男がやるものというイメージがあるが、それは違う。男と女の暴力性の強さは同じである。女もまた、男と同じくらい暴力的な生き物なのだ。
しかし、男と女ではやり方が違う。男の暴力は拳の暴力である。拳で直接殴りつけ、相手の体を傷つける。男は救いがたく野蛮なのだが、その反面単純で、わかりやすい。
対して、女の暴力は言葉の暴力である。言葉で相手の心を傷つける。しかもたいてい、まず自分がやり返されないポジションを確保してからやる。女は、どこまでいっても陰険である。
「キモイ!、ギャハハハ!!」
女子高生の集団が、くたびれた中年男にこう言い放って笑いものにしているのを、筆者は見たことがある。「気持ち悪い」、宣戦布告のようなもので、こんな暴言を吐いたら男同士ならただでは済まない。アメリカあたりでやったら、本当に殺されるだろう。それくらいのひどい侮辱であり、正真正銘の暴力だ。
しかしこの中年男は怒りで顔が真っ青になっていたが、何かやり返すということは無かった。殴りつけでもしたら警察沙汰にされ、すべてが終わってしまう。だから、したくてもできないわけだ。この高校生の女たちは、それを見越してやっている。信じられないくらいの卑劣だが、これが女の男に対する暴力のやり方だ。
つまり、男が粗暴なやり方で相手に拳の暴力をくわえるのに対し、女は狡猾なやり方で相手に言葉の暴力をくわえる。男は粗暴、女は陰険。粗暴さと陰険さとは男と女にとって最大の悪徳であり、また異性を支配するさいの、強力な武器である。男と女は自身にそなわったこの悪徳でもって異性を痛めつけ、優位に立とうとするのだ。
しかし、こういう汚いやり方で男女がともに傷つけあっていたのでは、人類はただの野蛮人に成り下がる。これではまともな社会を構築することはできない。そこで日本人は(というよりどこの民族の人々も)、秩序を維持するためのある規範を作りだした。それが、
「男は女を殴ってはいけない」
「女は男を侮辱してはいけない」
というものだ。これは、2つで1つの規範だ。こうやって、男が女に拳の暴力を加えることを、そして、女が男に言葉の暴力を加えることを禁じたわけだ。これで、とりあえず男と女の暴力行為には、歯止めをかけることができる。
じっさい、90年代くらいまではこの規範が生きていた。だから男が女を殴ることがタブーになっていた代わりに、女が男を侮辱することもまた、タブーだった。だから男と女は、いまよりずっと穏やかに、楽しくやることができた。
しかしこの規範の片側、「女は男を侮辱してはいけない」がフェミニズムによって破壊された。そして日本は、女の暴力が野放し状態になるという、カオスの時代に突入することになる。
。。。。。
言葉の暴力は、れっきとした暴力である。心を傷つけることが暴力ではないというのなら、脅迫行為もチカンもレイプも犯罪ではないということになる。それでは、この世の中はヤクザと性犯罪者の天下になってしまう。
言葉の暴力を暴力であるときちんと定義しなければ、脅迫もレイプも犯罪として取り締まる根拠が崩壊してしまうのだ。ここは、きちんと押さえておきたい。
中沢彰吾氏(ライター)の書いた、「中高年ブラック派遣」という、中高年の派遣の人間がいかにむごい扱いをうけているかについて書かれた本がある。いわば、非正規残酷物語だ。
これを読むと、もう非正規労働の現場では、暴力が日常的に行われていることが、はっきりとわかる。
著者の中沢氏が、ある日雇いの現場で働いていた時のこと。氏はかんたんな計算の仕事を任されていた。この人は暗算が抜群に得意だったため、計算機を使わずに仕事をしていたのだそうだ。すると、40がらみの女性社員から、罵声が飛んできた。
「おっさん!言われた通りにやれよ!!」
またある現場では、点呼のさいに中沢氏の声が、少し小さかった。すると、まだ20代の若い女性社員が怒鳴りつけてくる。
「おっさん!声張れや!!」
筆者がある会社に出入りした時のことだ。整列していた派遣社員の中の一人の中年男が、あらぬ方向に動き出した。すると、20代半ばの派遣会社の正社員の女が、狂女のように喚き散らした。
「てめえ!勝手に動いてんじゃねえよ!!」
凄まじい、まるでヤクザのようだ。非正規労働の男たちは、ほとんど人間扱いされていない。筆者は、このてめえ呼ばわりされてしまった男とは顔見知りだったので後で少し話したのだが、その眼には、はっきりと殺意が宿っていた。あたりまえだが、日常的にこんなひどい暴言を受け続けていたら、人間はおかしくなってしまう。
逆はありうるだろうか?
「ババア!言われた通りにやれよ!!」
「小娘!声張れや!!」
「てめえ!勝手に動いてんじゃねえよ!!」
男たちが女にこんなに凄まじい暴言を投げつけることが、ありうるだろうか?あり得ない。男同士だってヤクザのタコ部屋でもない限り、こんな無茶苦茶な暴言はありえない。
男たちは職場では女性たちに、腫れ物にでも触るように気を使っている。筆者は社会に出てからの二十数年間、職場で男が女にひどい暴言を吐いているのを、ほとんど見たことがない。
「男は女を殴ってはいけない」、ふつうの男なら、みなこの規範を忠実に守っている。しかしある種の女たちは、この女を守るためにあるはずの規範につけこみ、手ひどい侮辱を加えてくるのだ。ほとんどサギだ。
今どきの男なら、おそらくみんなこういう体験がある。
男同士なら、暴言を吐けばゲンコツが返ってくる。刃物を忍ばせた男に、待ち伏せされることだってありうる。だから、自然と暴力には歯止めがかかる。しかし、女たちにはこれが無い。
「どうせ男は女を殴れない」
「女なんだから、逃げてしまえばいい」
女たちには、美しい人間として見られたいという「女の矜持」はある。しかし、一人前の人間として立派に、正々堂々とふるまいたいという「強者の気概」はほとんどない。だから、あたり前のように自分のやったことから逃げる。そして歯止めが無ければ、自分のやったことが返ってこないのならば、人間はどこまでも堕落していくに決まっているのだ。
衆人環視の中で、男のプライドをボロボロにする。これはいわば、「精神のレイプ」ようなものだ。その手段が性的なものであれ、精神的なものであれ、他人の心をボロボロに踏みにじることは、レイプと同じ暴力的なふるまいである。
つまり女たちは公の場で、性的暴行に等しいマネをしている。しかも間違いなくこの女たちは、男たちを暴行して負の性欲を満たしてもいるのだ。あらゆる面から見て、これは性的暴行だ。
男は女に、言葉の暴力はさほどやらない。そして拳の暴力と性的暴力は、法により厳しく押さえつけられている。
女たちは男に対し、拳の暴力と性的暴力はまずやらない。しかし言葉の暴力は、野放し状態である。
暴力ということにおいて、男と女のやっていることは、あまりにも非対称すぎる。
現代とはいわば、戦前の旧満州のようなものだ。ここでは終戦により秩序が完全に崩壊し、ロシア兵による殺人、強姦、略奪の嵐が吹き荒れていた。ロシア兵たちはもう、やりたい放題だった。
現代の日本も、程度こそは違うが本質的には同じだ。この国のマスコミは、男に対する憎悪を煽るフェミニズムにのっとられている。そのフェミニズムは、女の男に対する暴力性を押さえる唯一の規範である、「女は男を侮辱してはならない」を破壊した。これにより、ある種の女たちによる暴力が吹き荒れている。
女に嫌われるタイプの弱者男、キモイ男たちはおそらく、日常的に女たちから暴力を受けている。その精神を、暴行され続けている。こういった背景から、電車内でいきなり女を刃物で切り付けるような男たちがでてくるのだろう。
現代は、女は人を傷つけてもいいという、狂った時代である。男たちが女たちからとんでもない暴力を、ありえない辱めを受けても、惨めに耐え忍ばなければならぬという、狂った時代なのである。そしてこれが、昭和よりもはるかに穏やかで民度が高いといわれている令和の日本の、真実の姿なのだ。
次の記事に続きます。
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